第5話
第3章 寝技の洗礼とクラスの女の子たち
1
次の日、練習が始まる三十分ほど前に道場へ行くと、新入生が二人来ていた。
私より早く入学式の前日に入部した二人だった。道場の隅で
工藤は柔道初心者で体の線が細く、これで本当に柔道ができるのだろうかというほど
聞くと「
私は昨日から壁の紙に書かれた飛雄馬という名前が気になっていたので本人にたしかめると、案の定、漫画『巨人の星』の
松井隆は身長は私と同じくらいだが、ごろりとした丸い体格で厚みがあった。おっとりとして優しい男だった。虎姫高校柔道部時代に斉藤トラさんの二期後輩でトラさんが現役合格、松井が一浪なので三期開いたらしい。
「君らも着替えろ」
斉藤トラさんが誘いに来た。
私と松井は高校時代の
着替えた先輩たちが部室からひとりずつ出てくる。そして道場の壁にそれぞれもたれこみ、黙って体のあちこちにテーピングテープやら包帯やらを巻きだした。
その作業が終わっても誰もが黙ったまま練習が始まるのを待っていた。何も話さず、青い顔でじっとうつむいていた。なんとなく怖くなって私たち一年目も黙った。そして居心地悪く畳の上に座って練習が始まるのを待った。息が詰まるような静かさだった。異様な空気だった。
主将の金澤さんだけが壁の大時計を見上げていた。
不思議に思って見ていると、時計の分針がカチリと動いて四時を指した瞬間、「整列!」と大声を上げた。部員たちがサッと立ち上がり、道場中央に走っていって一列に正座した。
「正面に礼! 神前に礼!」
金澤さんの号令で座礼をして、また全員が立ち上がった。
すぐにアップのために道場内を何周か走った。そしてストレッチをやり、寝技用だと思われるいくつかの見たことがない補強運動をやって、金澤さんが「寝技乱取り六分八本、八分二本!」と声を上げた。七帝戦は普通の柔道より試合時間が長く、
北大の寝技乱取りは普通の柔道部のように互いに寝たところからスタートするのではなく、
「よし、一年目集まって」
杉田さんが呼んで、道場の隅で私たち三人に寝技への引き込みのやり方を指導しはじめた。普通の柔道では反則になっている「寝技への引き込み」技術を最初に教えるのはさすが七帝柔道だと思った。
杉田さんによると、戦前、もともとは柔道の総本山講道館でもこの引き込みは認められていたのだという。それが「立技で投げたあと以外は寝技に移行してはならない」という現在のルールに改められた。高専柔道の強豪校である六高や四高が、講道館の
しかし「あっちのルールの方がおかしいんだ」と杉田さんは言った。
「柔道は格闘技なのに『自分から寝てはいけない』なんておかしいだろ。嘉納治五郎先生っていう講道館の創始者が、高専柔道大会を主催していた当時の帝大柔道連盟に何度も『引き込み禁止にルールを改正しろ』って迫ったらしいけど、『それは改正ではなく改悪になる』って言って応じなかったんだ。だから俺たち旧帝大だけはいまだにこの自由なルールで試合をやってんだ。寝技を五秒か十秒やっただけで『待て』って言って防御に回ってる選手を審判が助けて、また立技から再開するルールが格闘技といえるか? ボクシングでダウンしたら、レフェリーが『待て』って言ってカウントを数えずにダウンした選手が立ち上がるまで待ってもう一度立った姿勢から再開なんてありえるか?」
たしかに杉田さんが言うとおりだった。
寝技への引き込み方は教えてくれたが、杉田さんは柔道の最も基本的なルールを言わなかったので、飛雄馬が乱取りを見ながら私と松井を質問攻めにしてきた。飛雄馬は柔道は相手を遠くへ投げれば一本だと勘違いしていて私はびっくりした。漫画『柔道一直線』や映画『姿三四郎』などで
「
私が言っても飛雄馬はよくわからないようだった。
私と松井で説明した。柔道には
飛雄馬は寝技の抑え込みについても相手の上に乗りさえすれば成立すると誤解していた。
「違うんだよ」
また私と松井で
寝技では相手の背中を畳につけて三十秒間
そして主審が「抑え込み」のコールをするのは、相手の背中全体を畳につけただけではだめで、上から攻める場合は、相手が両脚をこちらに向けて守っているその脚を越えて、つまり邪魔になっている脚をさばいて相手の頭側かサイドに回って上半身をしっかり抑えると「抑え込み」とコールされて三十秒を数えるのだと説明した。相手が下からこちらの脚を一本でも
見ていた杉田さんが笑った。
「そんなこと教えてもおまえたちには必要ないことだ。上からの守りとカメの守りを覚えればいいんだぞ。最低でも一年は防御をやらなきゃ、どうせ攻めることなんてできないんだから。抑え込み方じゃなくて抑え込みからの逃げ方を覚えておけよ」
松井が「一年間も攻めることができないんですか?」と心配そうに聞くと、杉田さんが「無理無理」と笑った。「やってみればわかることだ。松井と増田はちょっと乱取りに参加してみろよ。七帝ルールでやるとどんな感じになるか体験してみるのが一番早い。これがどっちが本当に強いかを決める一本勝ちのみの柔道デスマッチルールだ。下から攻めてくる寝技がどんなものか体験してみろ」と言った。
私は三年前に名大生と乱取りしていたので言っている意味がなんとなくわかったが松井は不思議そうな顔をしていた。
二人は三本目に乱取りに入ってみた。
私は中量級の先輩にお願いした。組み合った瞬間、先輩は畳の上に素早く座り込むように寝た。下から襟を引きつけられた。信じられないほど力が強い。私が頭を上げようとすると、さらに引きつけられ、帯を握られて横に引っ繰り返され、横四方固めで抑えられた。ブルドーザーに
「どうしたん? どこが痛いん?」
関西弁だった。
「いや、あちこち……」
「どこも
先輩が首を
「ほら。逃げれるぞ」
先輩が言った。しかし、逃げるもなにも一センチすら動けなかった。先輩が技を解いて立ち上がった。私もはだけた
「大丈夫か。慣れるまではゆっくりでいいんやで。もうやめときいや」
「すいません……」
私は頭を下げて乱取りを抜けた。
松井隆も道場の真ん中で別の先輩に横四方で抑え込まれていた。
「どうだ増田、寝技の洗礼は。強かっただろ」
杉田さんが笑った。
「力が強くて……」
「寝技には立技と違ったパワーが必要なんだ。おまえと
「いまの人が末岡さんですか。昨日、和泉さんに聞きました。風邪ばっかり引いて体重増えてもすぐに
「はっははは。そうそう。あの人、
二本休んで、私は上田さんのところへ乱取りを
「痛い!」
私は声を出して上田さんの
「痛い痛いっ」
私は上田さんから離れるようにして立ち上がった。しかし、上田さんがニワトリのようにつつつと小走りで突っ込んで来て、また寝技に引っ張り込まれた。今度は両肘を曲げて関節技を取られないように注意したが、
上田さんは立ち上がってあいかわらず
「先輩、ちょっと待ってください……」
座ったままそう言うと、「どうしたんだ?」と上田さんが聞いた。
「肘が痛くて……」
「痛かった?」
「痛いですよ」
「どこが?」
私が痛がっているのが本当にわからないようだった。ちょうど乱取り相手交代の合図があった。私は両肘を抱えながら頭を下げて、杉田さんのところに戻った。
「どうだ。上田さんは関節技が
杉田さんは、私の上になって守り方を丁寧に教えてくれた。背筋を伸ばして相手に上半身を引っ張り込まれないようにするんだと言った。さらに自分がカメになったときの守り方も細かく教えてくれた。松井と飛雄馬も横に立って説明を聞いていた。
杉田さんが言った。
「末岡さんも上田さんも白帯から始めたんだ」
「そうなんですか?」
私が驚くと杉田さんは「七帝は、うちだけじゃなくて三割くらいが白帯スタートだ」と言った。
私は八本目に四年目の斉藤トラさんに乱取りをお願いしにいってみた。
近くで見るとやはり体が分厚く、顔から太い首回りまでびっしりと
「おまえの道衣は弱いな」
トラさんが言った。
道衣を脱いでみると背中側が五〇センチほど裂けていた。凄まじい怪力だった。
「先輩の力が強いんですよ」
私が息を弾ませながら言うと、トラさんはまた「道衣が弱いんだ」と豪快に笑った。そして「今日はもういいだろ。横で見てろ」と言った。
私は頭を下げ、乱取りを抜けた。
「やっぱり簡単に取られるよ、だめだこれは……体力落ちてる……」
私が膝に手を着いて呼吸を整えながら言うと飛雄馬が「取られるってなに?」と聞いてきた。「一本取られるっていう意味だよ。技をきめられるっていう意味。つまり負けること」と教えた。
途中でスーツを着た三十歳くらいのごつい人が道場に入ってきた。先輩たちが乱取りしながら
「監督さん、この三人、新入生です」
杉田さんが言った。
「おう、そうか。もう三人入ったか」
監督と呼ばれた人が立ち止まって
「
杉田さんが紹介してくれた。私たち三人が名前を言ってそれぞれ頭を下げると「頑張れよ。期待してるからな」と
「監督は北大のOBなんですか?」
松井が聞いた。
「そうだ。昭和五十三年卒の主将だ」
杉田さんが言った。栃木県の出身で、高校時代は野球部のキャッチャー、江川
寝技乱取りの後も「自由乱取り」「カメ取り乱取り」「速攻乱取り」など延々と乱取りばかりが続いた。一年目三人は練習の最後の上半身裸になっての腕立て伏せにも参加してみた。だが、みんな百回くらいでダウンしてしまった。杉田さん以外の二年目の先輩たちもダウンしていた。これだけの激しい乱取りを繰り返した後に何百回も腕立て伏せをこなす三年目や四年目のスタミナは驚異的だった。それにしても練習の最後にこんなに腕立て伏せをやる意味があるのだろうかと私は思った。少し練習が原始的にすぎるのではと思った。
松井も飛雄馬も入部だけは約束していたが、練習後のミーティングは初めてだという。昨日の私と同じように挨拶させられて、最後にはやはり「好きな女性芸能人は誰だ」と聞かれた。おそらく毎年全員に聞いているのだろう。松井は答えたが、なぜか飛雄馬はうつむいて「いません……」と言った。
練習後、一年目三人で着替えながら話していると、和泉さんが両手をポケットに突っ込んでやってきた。
「あんたら、今日なんか用事あるん?」
昨日と同じことを聞いた。私はすでにどんな人かわかっていたが、松井と飛雄馬は明らかに和泉さんの目つきを怖がっていた。
「和泉さん、今日はほんとにいいです。僕らもゆっくり一年目と話したいんで」
横にいた杉田さんが言うと、和泉さんはとくに文句を言うでもなく自分のロッカーの方に行って、また戻ってきた。
「じゃあ、これで食わしちゃりんさい」
杉田さんに一万円札を差しだした。杉田さんが礼を言って受け取った。今度は末岡さんがやってきて二年目に言った。
「おまえら今日、一年目どっか連れてってやるんか」
「イレブンに行こうと思ってるんですけど」
杉田さんが言った。
「なんだイレブンか。しけとるな。まあええや。これ使え」
そう言ってポケットからしわくちゃの一万円札を出した。杉田さんはそれを受け取ってやはり礼を言った。しばらくすると今度は松浦さんがやってきて、やはりお金を渡した。そのあとも次々と先輩がやってきては杉田さんになにがしかの金を渡していた。
着替え終わると、二年目の先輩三人に連れられてイレブンに行った。杉田さん以外の二年目、斉藤テツさんと後藤さんは共に軽量級の小さい人だった。
「ここはやっぱり、みんなクリぜんだ」
メニューも見ずに杉田さんが六個頼んだ。クリームぜんざいを待っている間、飛雄馬はずっと岡田有希子の話をしていた。ずっとファンだったと言った。だから先ほど好きな芸能人の名前を聞かれて答えなかったのだ。二年目の先輩たちが元気出せよと励ました。
クリぜんが来た。みんなで食い始めた。乱取りのとき切れた口の中の傷に染みた。
食いながら松井が聞いた。
「いま一番強いのは誰なんですか?」
杉田さんがしばらく考えてから言った。
「主将の金澤さんも強いけど、寝技では五年目の
「どれくらい強いんですか」
私が聞くと杉田さんが笑った。
「それはおまえ、めちゃくちゃ強いよ。七帝全体でもトップクラスだ。白帯から始めた人だけど」
「ええっ、そうなんですか」
飛雄馬の目が輝いた。私も驚いた。
杉田さんが言った。
「山岸さんは高校時代はレスリング部だったんだよ。さっきも言ったけど、七帝は白帯から始める人間がたくさんいるんだ。運動神経やスピードが必要な立技と違って寝技は努力すれば努力するほど伸びるからな。インターハイ出た人間を白帯組が追い抜いちゃうこともよくあるんだ。二年もしたら松井や増田より飛雄馬の方が強くなってるかもしれない。さっき紹介した監督さんだって大学で始めたんだからな」
飛雄馬がピノキオのような顔を火照らしながら聞いていた。杉田さんが続けた。
「あと、いま強いのは斉藤トラさんと岡田さん。それから、三年目の松浦さんも強い。あの人は立技も寝技もできる。中学時代から有名選手だったんだ。松浦さんの中学柔道部の先輩に青木
「誰ですかそれ」
私は聞いた。
「大関の
「一緒に練習してたんですか!」
「そんだけじゃない。松浦さんは
「関脇の?」
「そう。近くの中学の柔道部に同じ学年の保志がいた。松浦さんはだから大乃国とも保志とも仲がいいらしい」
「すげえ!」
一年目三人で驚いた。
杉田さんが続けた。
「でも、やっぱりそれでも寝たら山岸さんや金澤さんの方が強いと思う。寝技っていうのは、そういうものなんだ。三年目の末岡さんも白帯から始めたけど、うちのナンバー5くらいにつけてるんじゃないかな」
私は聞いた。
「そういえば昨日、和泉さんに聞いたんですけど、山岸さんも今年七帝に出てくれるそうですね」
「ああ。五年目では佐々木さんも出てくれる。山岸さんと佐々木さんが出てくれないと今年はほんとうに困るんだ。あの二人がドッペってて助かったよ」
「ドッペってるってなんですか?」
「留年留年。ドイツ語だよ。山岸さんも佐々木さんも今日は来てなかったけど、体戻すためにこれから皆勤だと思うから道場来たときに教えてやるよ。佐々木さんも強いぞ」
「去年の主将ですよね。絞め技が得意な」
私は今日、道場に来る前に『北大柔道』をほとんど読んでいた。
「よく知ってるな。あの代は気合い入った人ばっかりだった」
「いまの四年目の先輩たちはどんな人なんですか?」
「六人いるけど、みんな一癖も二癖もあるなあ。下の学年はこう言ってるよ。冷血金澤、残酷岡田、陰険
杉田さんは悪口を言っているふうでもなく楽しそうだった。そして「金澤さんと乱取りしてみろ。体に触ると冷たい。体温が低い」と言った。
「ほんとですか」
松井が聞くと、杉田さんが笑った。
「おまえ馬鹿か。噓だ。態度が冷たいだけだよ」
松井が赤くなった。
「岡田さんは、あの関西弁まじりの人ですよね。ときどき『ひい』って言う」
私が言うと、杉田さんが大笑いした。
「おまえはよく特徴見てるなあ。あの人がいまの
最上級生のことを幹部といい、主将、副主将、ウェイトトレーニングなどの指揮をとる選手監督、そして部の雑務を仕切る主務という役職があり、他の旧帝大にも同じ役職がおかれ、選手監督を略して選監と呼ぶならわしになっていることを杉田さんが教えてくれた。そして「岡田さんは口が悪いし、練習じゃ下級生を落としまくるからなあ」と笑った。
「参ったしてもダメなんですか?」
松井が聞いた。
「だめだめ。よけいに怒って絞めてくるよ。とにかく絞めに入られたらおしまいだから守りを早く覚えろよ」
「落とすってなに?」
飛雄馬が聞いた。「絞め技で気絶させることだよ」と私が説明したが、意味がよくわかっていないようだった。
「陰険の永田さんてどの人ですか」
松井が聞いた。杉田さんが笑いながら言った。
「中量級で丸顔の。
イレブンを
「すごいな」
私が言うと、松井は鼻の下を人差し指の背でこすりながら照れた。今日すでに何度か見た癖だった。恥ずかしがると、その癖が頻繁に出た。歩きながら浪人時代の受験勉強のことを話した。
「松井君のアパートに寄っていこうかな」
「まだ片付いてないからなあ。汚いんよ」
帰ってもとくにやることがない私は松井の背中を押して強引についていった。戦前に建てられたのではと思われるほど古いアパートだった。二階に上がったアンモニア臭いトイレのすぐ横が松井の部屋だった。入って驚いた。狭い。
「これ何畳あるの?」
「二畳だよ。安かったんだ。家賃一万だから
「どこで寝るの?」
部屋の真ん中には
「そこだよ」
指したところは押し入れだった。松井の身長で脚が伸びきるとはとうてい思えなかった。
新品のテレビが生協から届いて廊下に置いてあった。段ボールから出して設置を手伝った。
「どこに置く?」
私が聞くと松井が「とりあえずこれをテレビ台にしておくよ」と段ボールを引っ繰り返した。その上にテレビを置き、室内アンテナを
「作れるの?」
「俺の親父、コックなんよ。だから親子丼だけ習ったんだ」
外に二人で食いに行くのも面倒なので作ってもらうことにした。炬燵に入って待っていると親子丼らしきものが出てきた。親子丼らしき味がした。食い終わってまた話した。
松井は獣医学部志望だと言った。
「でも最近、獣医へ移行するの大変らしいよね。教養部でいい成績取らないと難しいって聞いたことがあるけど」
私が言うと「大丈夫だよ」と松井がのんびりと言った。さすが共通一次八百九十八点は違うなと思った。
帰り際、松井が「明日は九時半から教養部のオリエンテーションがあるから行かなきゃだめだよ」と言った。私が入学式に出ていないことを知り、少し驚いたようだった。たしかに自分はオリエンテーションの存在すら知らなかった。
「めんどうだな」と私が言うと「明日行かないと後でよけい面倒になるかもしれないよ」と松井が言った。「じゃあ行ってみるよ」と約束して夜の十二時半に自分のアパートに帰った。久しぶりの柔道で疲れていたのですぐに眠れた。
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