第7話 罰ゲーム

 阿工藤不動産、狸小路店の朝礼のこと……。寅吉が社員の前に立って胸を反らした。


「全員注目!」


 大声をあげた彼の隣には、背丈の低い中年男性と狸に似た化粧の濃い中年女性がいた。スーツ姿の二人は海千山千のオーラを発している。


「突然だが、今日から仲間が増える。黄泉龍一おうせんりゅういちさんと、緑淵恋子みどりぶちこいこさんだ。阿工藤不動産では君たちが先輩だが、不動産業界では二人ともみんなの先輩だ。教わることも多いだろう」


 そう話すと、寅吉は隣に並ぶ二人に挨拶を促した。


 龍一が半歩前に出て頭を下げる。


「ヨミと書いてオウセンといいます。黄泉なんて縁起でもないと言われることが多いのですが、おかげで苗字だけはすぐに覚えてもらえます」


 彼は喜劇俳優のような人懐っこい笑みを浮かべた。


「私は反対です……」


 恋子が話しながら前にでる。


「……苗字を覚えてもらえることは滅多にありません。でも名前はすぐに覚えてもらえます。コイコでもレンコでもかまいません。お好きな方で呼んでください」


 彼女はニッと笑った。


 日香里は彼らの挨拶をぼんやり聞いていた。目の隅に映る哲夫の対抗心は燃えているようで、怖い顔をして二人を見ていた。昨日までは努力をしなくても彼がトップ営業マンだった。そこにライバルが二人も現れたのだから当然だろう。そんなことを日香里が考えていると寅吉ににらまれた。


「須能君、ぼんやりするな。毎日毎日ミスをして、どういうつもりだ。頑張って総合職試験にもチャレンジしてくれ」


「あ、ハイ……」


 彼は、あってないような試験を持ち出して日香里を叱咤しったした。先週面接を済ませた世里奈は、その試験に合格したことになっていた。


「明日はもう一人、若い並木君が合流してくれる。今年度は阿工藤不動産狸小路店の飛躍の年になるだろう。全員で協力し、そして競い合い、成果を出してほしい」


 寅吉の訓示が終わると、三人の営業社員は席を温める間もなく店を飛び出していく。今日からは、哲夫も厳しい生存競争の中に放り込まれたわけだ。そんな彼らを見送り、日香里はパソコンに向かって賃貸物件のデータの更新をする。


「どうして二人も雇うのよ? こないだ美人を入社させたばかりじゃない」


 それは彩弓の押し殺した声だった。


「彼らは出来高払いだ。稼いだ収益の半分が会社に入る。人件費は増えないんだよ」


「そうなの? それならいいけど……」


 まるで彩弓が経営者のひとりのように聞こえた。


「それどころか、彼らが定着したら、あのポンコツを首にする。並木君は仕事ができそうだからな」


 エッ!……日香里の呼吸が止まった。どう考えても、寅吉の言うポンコツは自分のことだ。日香里には聞こえていないと思っているのか、あるいは、わざと聞かせているのかわからない。良かれと思って世里奈を紹介したのが、結果、自分の首を絞めることになったと知って呆然とした。


 悲劇は重なるものだ。パソコンまでもフリーズした。驚きで手元が狂ったのだろう。自分でも、どのキーを押したのかわからない。仕方なく、再起動してデータを入れ直す。


「まだ終わらないのか?」


 バタバタしていると寅吉の声が襲ってきた。


「すみません。もうすぐ終わります」


「それが済んだら、先日、空室になった日の出アパートの掃除に行ってくれ」


「清掃会社にやってもらうのではないのですか?」


 驚いて訊いた。


「人手が増えたんだ。君の手は空いただろう。経費削減だよ」


 ポンコツはいらないと、改めて言われたような気がした。


 昼食を済ませてから、バケツに洗剤と雑巾、ワックスなどを入れ、モップを手にして日の出アパートに向かった。


 商店街の端に差し掛かった時だった。声をかけられた。


「ヨッ、どうした暗い顔をして?」


 目の前にある〝スポーツジム・狸小路〟のトレーナーの〝肉マン君〟だった。〝肉マン君〟は名前を知らないので勝手につけたあだ名だ。彼はいつもにこやかで、怒ったりむかついたりした顔を見たことがなかった。ぽっちゃりと脂肪のついた身体はとてもトレーナーには見えないのだけれど、ウエイトリフティングではそれなりの実力者らしい。もっとも本人の弁なので、事実かどうかは不明だ。そんな彼が日香里を見かけると、わざわざ外に出てきて声をかけてくる。


「こんにちは。……また、失敗しちゃって……」


「失敗するのは、生きている証拠さ」


 彼のポジティブな励ましに苦笑した。


「あまり嬉しくないことですね。でも、ありがとうございます」


「どこに行くの?」


「空き室の掃除です。失敗ばかりしているから、罰ゲームです」


「そうなんだ。不動産屋も大変だな。そうだ、手伝うよ。ちょっと、待っていて」


 彼はそう言うと、日香里が止めるのを聞かずに人気のないジムに飛び込んだ。そこが潰れてしまわないか、日香里は普段からとても心配している。


 ほどなく出て来た彼は、準備中のプレートを下げて鍵を掛けた。


「ダメですよ。店を閉めちゃ」


 日香里がそう言っても彼は聞かなかった。


「いいの、いいの。予約もなくて暇だから……」


 彼は日香里の手からバケツを取った。


「さあ、行こうか」


 ピクニックにでもするように楽しげに彼が歩き始める。慌てて彼に並んだ。


「今更だけど、須能さん、名前はなんていうの? 僕は浦城昴うらきすばる


「日香里、須能日香里です」


 名乗りあっただけで、距離が縮まった気がした。


「日香里ちゃんかぁ。いい名前だね」


「ありがとうございます」


 応じたものの、それが自分の本当の名前だという実感がなかった。

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