7)ゆびきりは土曜日に〈2〉*
◇
三十分しないくらいで、家の前に見知った車が駐まった。
そこから降りてきたのは、普段のボサボサ頭にワイシャツと白衣を着た姿とは程遠い、上品なスーツをビシッと着こなした正装姿の仁科。
髪型も普段とは違って綺麗にセットしてあって、羽織っているアウターやマフラーも高級品なんだろうな、というのは分かった。
「お待たせ」
玄関先まで迎えにきた仁科の姿に少しだけ見惚れてしまって、和都は慌てて視線を逸らす。
「……すみません」
「大丈夫だよ。挨拶したい奴には挨拶したし、車だからどうせお酒飲めないしね」
そう言って、大きな手が頭を撫でた。
少しだけ甘くて、どこか懐かしさを覚えるような香りが、ふわりと鼻をくすぐる。香水でも付けているだろうか。
学校で会っている時には嗅いだことのない匂いで、少しだけ戸惑った。
「話はうちで、ゆっくり聞くよ」
「……はい」
促されるまま車に乗って、仁科の自宅マンションへ向かう。
移動している間、緊張して何も話せずにいたが、仁科は何も言わなかった。
車窓から見える外の景色は、夜の黒の中にキラキラと散った街灯りが線を描きながら、どんどん後ろへ流れていく。
ぼんやりとそれを眺めていたら、あっという間にマンションに着いていた。
いつもの豪華なエントランスを抜けて、エレベーターを十五階まで上がる。
マンションについても、仁科の部屋へ入るまで、和都は無言のまま仁科にただ着いていった。
仁科はアウターを脱ぎ、着ていたジャケットをダイニングの椅子に掛けると、立ち襟シャツにベストを着た状態でリビングのソファに向かう。
「ほら、おいで」
ネクタイを緩めつつ、ソファの近くに立ち尽くしたままの和都の手を引いて、一緒に座ろうとした。
が、和都は俯いたままその場から動かず、掴まれた手をそっと離す。
いつもなら、人目を気にしなくていいここなら、すぐに遠慮なく抱きついていた。
でも、今はそれが出来ない。
していいのか、分からないから。
「……なにがあったの?」
さすがの仁科も、普段とは違うただならぬ様子を感じたらしい。差し出した手を引っ込め、仁科は一人ソファに腰を下ろすと、優しく尋ねた。
「えっと……その……」
和都は着たままのコートの、太ももの辺りをぎゅっと掴む。
緊張して、うまく言葉が出てこない。
「順番に言ってごらん。大丈夫。ちゃんと聞くから」
いつもと変わらない優しい声に後押しされて、和都は深呼吸してから口を開いた。
そう、順番に話していけばいいんだ。
「……ユースケに、先生とどうなったのかって、聞かれたの」
「どうなった、って?」
「付き合ってるのかどうか、って」
「あー……」
仁科がどこか気まずそうな顔をする。
思い当たる節があったらしい。
「でも。おれ、先生にそういうの、何も言われてないし。先生、婚約者の人もいるし。……だから、分かんないって」
声がだんだんと沈んでいく。
思い出すだけで、思い知るだけで、胸が苦しい。
「……それで?」
「そしたら、ユースケに好きだから付き合ってって言われて……」
「……うん」
「ユースケのこと、好きだけど。でも、先生とは違う好きだから。……だから、断った」
そこまで言って、空気を吸って。
感じたことのない胸の息苦しさを、ぎゅっと握りながら言った。
「おれは、先生が好きだよ」
鼻の奥がツンとして、視界が濡れてくる。
「……先生、は、」
言葉が詰まって、最後まで言えなかった。
胸がぎゅうぎゅうに押し潰れそうで、涙が溢れてくる。
「……そっか」
仁科はソファから立ち上がると、胸の辺りを抑えながら涙を流す和都にそっと近づいた。
そして、涙のこぼれ落ちる頬に手を伸ばして、そっと拭ってやる。
「ちゃんと言ってあげてなかったね、ごめん」
そう言うと、全身を包み込むみたいにぎゅっと抱きしめた。
「俺もちゃんと、お前が好きだよ」
耳元で囁くように言われる。
和都は目を見開いて、目と鼻の先にある仁科の顔を見た。
メガネの奥の目を優しそう細めて、少し照れたように笑っている。
「……よかったぁ」
気が抜けて、笑ったけれど、今度は嬉しい気持ちの涙が溢れて止まらない。
涙でぐちゃぐちゃになった和都の顔を、仁科が両手で包むようにして引き寄せ、唇を重ねる。
しばらく甘く噛み合うみたいなキスをして、ようやく唇が離れたと思うと、そのままソファまで手を引かれ、和都は仁科の膝の上に乗せられた。
そしてまた、ぎゅうっと包み込むように抱きしめられる。
「……不安にさせちゃったね。ごめんな」
「うん、でも、おれもちゃんと言ったことなかったなって」
眉を下げて顔を見合わせ、二人して笑ってまたキスをした。
ソファの上で、ただ抱き合ったまま。
学校にいる時のような消毒液の匂いとも、休日に会った時のコーヒーや煙草の匂いとも違う、すっきりとした甘い香りに包まれて、心地よくて落ち着く。
「春日クンには、悪いことをしちゃったな」
仁科がポツリとそう言った。
どこか曖昧な、ふんわりとした自分達の気持ちを、関係を、ハッキリとさせるきっかけを作ったのは、春日だ。
「おれも、ユースケに言われるまで、全然考えてなかった」
「まぁ来年受験だし、受験本格化する前にけじめっていうか、気持ちの整理とか、しておきたかったのかもしれないけどね」
「そっか。……でも、それもユースケらしいかも」
春日は難関大学を目指しているので、その可能性は充分にある。
「……でも、正式に付き合うってのは、俺の今の立場上、できないからなぁ、まだ」
「うん、分かってる」
いくらお互いを想い合っていても、今は先生と生徒の関係であり、仁科に至っては正式な婚約者もいる以上、公然とできることではない。
「んー、でも約束だけじゃなぁ……」
仁科は少し考えてから、ああそうだ、と立ち上がると、リビングの端にある作業用デスクの引き出しを開ける。
そして何かを取り出して、すぐにソファに戻ってきた。
「まぁ、そのうち渡すつもりだったけど、約束代わりってことで、はい」
和都の隣に座りながら、仁科は一本の鍵を手渡す。
差し込む部分があまり見ない形状をした、ちょっと変わった銀色の鍵。
「……何の鍵?」
「うちの合鍵」
「はぁっ?!」
「いつ来てもいいよ。ただし、一人で来ること」
「えぇ……」
確かに、このマンションの鍵なら、セキュリティ面も考慮された、このくらい複雑な形状の鍵になっていてもおかしくはない。
とはいえ、正式に付き合っているわけでもないのに、合鍵を渡されるとは思ってもみなかった。
「神社の件が終わってから、俺ずっと動き回ってただろ?」
困惑した顔で鍵をみつめる和都の頭を、仁科はいつものように優しく撫でながら口を開いた。
「う、うん。後始末があるって……」
「まぁ、それも色々あったんだけど、そのうちの一つに、お前の親と直接話をするってのがあって。実家や安曇の
「ええっ。なんで、そこまでして……」
確かに和都の母親は仕事の忙しさもあり、進路を決めるための三者面談等はできていない。
だからと言って、仁科が苦手とする人たちに頭を下げてまでやることなのだろうか。というか、そもそもそんなことが出来るのかも分からないが。
ただただ驚く和都を、仁科はじっと見つめて言った。
「だって、いろんな準備が整ったら、卒業した後、お前を海外の家や病院に閉じ込めるつもりだって言うんだもん」
「なにそれ、知らない……!」
絶句した。和都には全くの初耳だ。
「……やっぱり、聞いてなかったか」
仁科が呆れたように息をついた。
確かに母の小春には、顔を合わせれば家で大人しくしていろとしか言わず、勉強のことはおろか、将来や進路については一切聞かれたことがない。
「最近の出張先、海外だっていうのは、聞いてたんだけど……」
「……夏休み前に電話で話をした時あったろ。その時に聞かされてね。その様子だと、海外に住居を移すための準備も兼ねてるんだろうな」
いくら自分を嫌っているからって、相談もせずに勝手に決めるなんて。
母にとって、自分が一体何なのか分からなくなってくる。
「だから、そうさせないために手を回してたの」
不安そうな表情を見せる和都の肩を、仁科はそっと引き寄せた。
「先々週くらいにようやくお前の親と、後藤先生と、三人で直接面談ができてね。そんで、お前の親が海外にいる間とかは、俺がお前の保護者代理になるってことで、了承してもらったんだ」
「保護者……代理?」
「そ。だからその鍵はそうなってから渡すつもりだったんだけど、今あげてもそんな変わんないでしょ」
狛犬騒動が落ち着いてすぐ、残る『敵』は和都の親だった。彼の望む、自由な未来を阻害する、一番の強敵。
だからすぐに和都の母親の勤め先を調べ、安曇や実家の伝手を借り、社会的権力を駆使して、学校まで引き摺り出した。
使える手段は全部使った。
和都を自由に生かしてやるために。
「もうしばらくは、親代わりとしてそばにいるけど、気持ちは変わらないからね」
「……うん」
仁科は戸惑う和都の額に口づける。それから和都の握っていた合鍵にも唇を寄せた。
「卒業するまでにお前の気持ちが変わらなかったら、ちゃーんとプロポーズしてあげるから、それまではこれで我慢して?」
「はい……」
顔が熱くて、思わず目を伏せる。
思っていた以上に、自分は仁科に想われていたのだと思い知って、胸が苦しい。
「卒業といえば、卒業後の進路とか、志望校は決まったの?」
ふと思い出したように、仁科に言われて、和都は顔を上げた。
「あ、うん。
「祀桜大かぁ。なんか、図書館が充実してるんだっけ?」
「そう! あと市立図書館も近いから、いっぱい本読めるなぁって思って」
「……大学に何しにいく気だよ」
仁科が少し呆れたように笑う。
例え自由を得ても、和都は本の魅力には抗えないようだ。
「まぁでも、そこならうちからも近いし、卒業したら一緒に住んじゃう?」
「いや、それはさすがに早いでしょ……」
「そう? 大学行かない感じなら、そのまま嫁にもらうつもりでいたんだけどなぁー」
楽しげに言いながら、仁科は和都のサラサラの髪を梳くように撫でる。
「……なんか、卒業後の外堀を、めちゃくちゃに埋められてるような気がするんですけど」
「あら、バレちゃった?」
和都がじとっとした目で見つめると、にっこり笑って返されて、唇が唇に噛み付いてきた。
ふっと離れた唇が、耳元で囁く。
「大人の本気を舐めんじゃねーぞ」
「……大人気なぁい」
「うるせぇよ」
二人して見つめ合って、なんだかおかしくて、しばらく笑い合った。
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