聖女殺しは祈らない

岡本七緒

第1話 聖女の火刑


 世界の全てが自分に背を向けた瞬間を、コーデリアは生涯、忘れることはない。

 少女の祈りを、聖なる神々が無視した瞬間。

 なんの前触れもなく家族を奪われた挙げ句、目の前で姉が、生きたまま焼かれた日。

 その日、帝都の空は皮肉なほど青く、雲ひとつなく晴れ渡っていた。


「うそだ」

 息を切らし、帝都に駆けつけたコーデリアは、広場に渦巻く熱気に気圧され呟く。

 目の前に広がる、宴や祭にも似た喧騒。

 それは帝都ではさほど珍しくもない異端者の処刑アウトダフェの幕開けだった。

 宮殿前の広場を埋め尽くすのは、処刑を見物しに集まった、おびただしい数の群衆。

 あまりに大勢の見物人を持て余す衛兵や、肉や魚、パンや菓子を焼く屋台。

 それらを酒とともに、見物人たちへ売り歩く呼売よびうりたち。

 声を張り上げ、これから始まる処刑のあらましを語る叫びクライマー

 分厚い人垣でごった返す広場の奥、渦巻く熱狂の先に見えたのはーー手足を鎖につながれ、兵に連行されてゆく、コーデリアの姉の姿だった。

 中心にそびえ立つ背の高い柱と、うずたかく積み上げられたまき

 煌々と燃える松明トーチを掲げた、若き教皇。

 その奥で影のように控える、黒衣を身にまとう死刑執行人。

「ソフィア・レグルス。聖女を詐称せし魔女よ」

 教皇がおもむろに口を開く。

 朗々と響く声が紡いだのは、紛れもなくコーデリアの姉の名だった。

 眩いほど白い寛衣かんいを風になびかせ、教皇は高らかに罪状を読み上げる。

「汝は邪神のしもべとなり、聖なる結界を破壊した。民衆を惑わせ、世を乱した、非道なる大逆は許しがたく――」

 コーデリアは混乱する。

 告げられた罪状は、彼女が知る姉からは、おおよそ考えられないものだった。

「聖なる結界を……破壊した?」

 ありえない、と声にならない声をあげる。

 姉は聖なる結界で民を魔獣から守るため、聖女になったはずだった。

 焦燥に埋め尽くされてゆく脳の片隅で、コーデリアは異を唱える。

(なに言っているの⁉ 聖女を詐称って……姉さまを聖女にしたのは、あなたたちじゃない!)

 薪が積まれた火刑台を目の当たりにし、教皇に姉の名を呼ばれてもなお、コーデリアは現実を受け入れることができなかった。

(こんなの、何かの間違いに決まってる)

 混乱と恐怖を振り払うように、二日前から今に至るまで何度も思った。

 そう思わなければ、頭がおかしくなってしまいそうだった。

「偽聖女が、俺たちを騙しやがって」

「魔女を焼き殺せ!」

 広場を埋め尽くす群衆から、一斉にひときわ大きく喧噪があがった。

 罵声とともに酒瓶や石、骨付き肉の骨などのゴミが、火刑台に向かって宙を舞う。

 無数の叫び声が、空気をびりびりと震わせた。

 見物人たちにもみくちゃにされながら、少女は倒れずにいるのがやっとだった。

 めいめいに叫び立てながらも、皆の血走った目は一様に広場の奥……火刑台を見つめている。

 それに気づいたコーデリアの全身から、冷たい汗が噴き出す。

 この場に集まったおびただしい数の民衆が、姉の処刑を望んでいる。

 悪意や憎悪とともに、まつりのような興奮と熱気が膨れ上がってゆくのを感じ、少女の胃から何かがせり上がった。

 こみ上げる吐き気をこらえながら、コーデリアはマントの下に隠し持った、長剣のつかに手をかける。

 とたんに手のひらに刺すような痛みが広がり、コーデリアはうめく。

 この二日二晩、ろくな休息もとらず、全力疾走をしながら魔獣を斬り続けた彼女の手足の爪は、いくつか割れていた。

 息をするたび、体の至る所が軋む。

 コーデリアは薄々気付いていた。

 もはや自分には、剣を握る力が残っていないことに。

(それでも。たとえ、私の命にかえても……)

 姉を助けなければと、少女は歯を食いしばる。

 王家に逆らっても、世界の全てを敵に回しても。

 父と母を殺された今、せめて姉だけは守らなければ。

 そう思っているはずなのに、幾重もの人垣と飛び交う怒号を前に、コーデリアはその場から一歩も動けずにいた。

(どうして)

 何故、こんなことになったのか。

 絶望で黒く塗りつぶされてゆく頭の片隅で、コーデリアは事の発端を思い出す。

 二日前、少女が住む伯爵邸は襲撃を受け、両親を殺された。

 その時、屋敷に押し入った兵は、逃げ出すコーデリアの背に向かって、信じがたい言葉を投げた。

『逃げても無駄だ、伯爵の娘。レグルス家には族滅ぞくめつの命がおりた。お前の姉もじき、火刑となるだろう』

 何故、両親は突然殺されたのか。

 姉の身に一体何が起きたのか、コーデリアには何ひとつ分からなかった。

 わけが分からないまま、辛うじて追っ手から逃れ、剣を手に帝都へ向かう。

 だが、その道中はあまりに過酷なものだった。

 追っ手の目を避けるため、主要な街道は使えない。

 馬に乗ることも、馬車を使うこともできない。

 それでいて最短距離で帝都に着くために、聖なる結界の外……魔獣が出没する、危険な森や廃村を通った。

 襲いくる魔獣たちを斬り伏せるたび、コーデリアの体は汗と土ぼこり、返り血にまみれた。

 ほぼ不眠不休で二日二晩、馬車を使って三日かかる帝都までの道のりを、十五歳の少女は革靴の底が割れるまで走り続けた。

 姉を助ける、ただそれだけのために。

 そうして帝都にたどり着いたコーデリアが、目にしたものは――

ねえさま……」

 最愛の姉・ソフィアの変わり果てた姿だった。

 粗末な灰色の囚人服を着せられ、痩せこけた体。

 月光とうたわれた淡い金髪は、藁のように短く刈られていた。

 冬の湖のように深い青い瞳は、虚ろに宙をさまよっている。

 いつも朗らかな笑みを浮かべていた白い顔は青ざめ、一切の表情が抜け落ちていた。

 ソフィアは執行人のなすがまま、積み上げられた薪の上に立たされ、円柱に鎖で縛り付けられてゆく。

「やめて」

 コーデリアが絞り出した声は呆気なく、喧噪にかき消える。

 これから姉の身に何が起きるか想像した瞬間、吐き気がこみ上げ、唇がわなないた。

「父なる神、蒼き英雄の御名において〝魔女〟を火刑に処す」

 このガリレア帝国で、生きたまま火刑に処される者は異端者のみ。

 中でも「聖なる結界の乙女」を詐称した者は魔女とみなされ、本人のみならず、一族郎党に至るすべての者が粛正の対象となる。

「やめて……お願い」

 火刑台に火がつけられ、群衆から歓声が上がる。

 炎は爆ぜるように燃え上がり、瞬く間に囚人服を焦がしながら、ソフィアを包み込んだ。

 すると喧噪から一転、群衆の声がわずかに鎮まる。

 コーデリアは耳を澄ませた。

 ざわめきと炎が燃える音に混じって、姉の声が聞こえてくる。

「聖なる乙女、帝国を守護する結界の女神よ。皆をお守りください。どうか私の最後の願いをお聞き届けください」

 炎が燃え盛る火刑台から、祈りの言葉が響いた。

「魔なる獣、悪しき神、邪なる者たちから……すべての民をお守りくださ……」

 ソフィアは天を仰ぎ、声を絞り出す。

 美しく澄んだ声はかすれて濁り、耳を塞ぎたくなるような咳と苦悶の呻きが混じった。

 立ちのぼる煙に顔を歪め、炎に身をよじり焼かれながら、ソフィアの祈りは続く。

「あの娘、まさか祈っているのか」

「馬鹿な。魔女が聖句を……?」

 広場に集まった者たちの間に、困惑が広がってゆく。

「騙されるな。この期に及んで、聖女のふりをして助かろうとしているんだ」

 炎がひときわ大きく燃えさかり、ソフィアの全身を覆い隠す。

 コーデリアはかちかちと震える歯を噛みしめる。

 祈らなければ、と思った。

 姉は「聖女」だ。

 この世界で最も敬虔けいけんな乙女を、神が見放すはずがない。

 そう切実に願い、震える唇を開く。

「神よ、どうか」

 しかし祈りの言葉を紡げず、コーデリアはき込む。

 咳をするたび、からからに干上がった喉に、割れるような痛みが走った。

(神様、どうか姉さまをお助けください。私の命と引き換えてもいい、姉さまだけは!)

 傷だらけの手を組み、頭を垂れて一心に神へ祈る。

 しかし彼女の願いが神に届くことは、ついぞなかった。

「どうか……を……守り……くださ」

 祈りの言葉が途切れ、それきり姉の声が聞こえてくることはなかった。

 コーデリアははっと目を見開き、顔を上げる。

 燃え盛る炎と、秋空へと立ちのぼる煙の間から、変わり果てた姉の姿がのぞいた。

「ねえ……さま……」

 頭が痺れ、目の前が真っ白になった。

 広場のざわめきも風も、姉を包み燃えさかる炎も、全ての音が耳から遠ざかってゆく。

「……うそだ」

 風に乗って、肉や髪を焦がすにおいが漂ってくる。

 生身の人間を焼く異臭に耐えきれず、コーデリアは地面に膝をつき、嘔吐えずいた。

 吐いた胃液が気管に入り咳き込めば、目鼻に刺すような痺れが広がる。

 すると人垣の向こうから、

「皆の者、控えよ。これより皇帝陛下より直々に、お言葉を賜る」

 コーデリアはのろのろと立ち上がり、人垣の奥へと再び、痺れる目をらす。

 広場の奥で小山のようにそびえる、荘厳な石造りの「蒼き宮殿」。

 その三階の大きな窓が開け放たれ、バルコニーに人影が歩み出た。

 常人離れした視力をもつコーデリアでなければ、彼女と同じ位置にいた者には、その人影は星粒ほどの大きさにしか見えなかっただろう。

 なめらかな光沢と重厚感をまとう、天鵞絨ビロードの紺の外套マント

 頭上にいただく冠は、黄金とサファイアで彩られている。

 この国で皇家のみが唯一使用を許される、紺青ロイヤルブルーの色を全身にまとった初老の男――――

「皇帝陛下!」

 民衆からわっと歓声が上がる。

 続いて皇帝と同じように、紺青の正装をまとった皇后と皇太子が歩み出た。

「我が帝国の民よ。魔女は死に、悪は滅びた」

 低くしわがれた声が広場に響き、民衆はき立つ。

「皇帝陛下、万歳!」

 対照的に、コーデリアの心は凍え、ひび割れてゆく。

 潮騒にも暴風雨にも似た耳鳴りが、鼓膜の内側をどんどん大きくなってゆく。

(魔女じゃない……姉様は魔女なんかじゃない)

 骨が軋むほど強く拳を握り、少女は皇帝をにらんだ。

(――――ゆるさない、絶対に)

 バルコニーから広場を見下ろす皇帝と、その両隣に並ぶ皇后と皇太子。

 コーデリアは皇族たちの姿を、一人残さず網膜に焼き付ける。

(必ず、かたきは討つ。命に換えても、姉さまの仇を。でも……)

 少女は頭蓋骨が軋むほど、強く強く歯を噛みしめた。

 皇帝たちと自分との間を隔てる距離は、気が遠くなるほど遠い。

 そしておびただしい数の人間に遮られている。

 皇帝は民衆の歓声に右手を上げて応えると、言葉を続けた。

「そして神は我々に、新たな聖女をつかわした。イヴォール子爵令嬢、ラウラ・デ・カストル。前に出よ」

 コーデリアは耳を疑った。

 バルコニーの奥から、一人の女性が静かに進み出る。

 風に揺れるベールと、陽光を跳ね返すまばゆい蜂蜜色の金髪。

 華奢で小柄な体にまとう、純白の聖衣。

 新たな聖女の姿に、コーデリアは瞠目どうもくする。

「……ラウラ様?」

 白百合の紋が入った聖衣をまとった娘を、コーデリアは知っている。

 ソフィアと同じく聖女候補だった子爵令嬢で、二人は互いに「親友」と呼び合う仲だった。

(ラウラ様が次の聖女? じゃあ……どうして姉さまを助けてくれなかったの?)

 聖女――それは女神の祝福を受け、女神に代わって帝都を結界で守護する「聖なる結界の乙女」の称号だ。

 聖女の地位は皇帝や教皇に次いで高く、多くの特権を持つ。

 その中に罪人を放免し、罪を軽くする「免罪」という権限がある。

(ラウラ様が免罪を使えば、姉さまは火刑を免れたかもしれないのに――)

 ひときわ強い風が吹き抜け、ラウラの顔を覆っていたベールがひるがえる。

 その刹那、コーデリアの常人離れした視力が、ベールの下に隠れていた顔をとらえた。

 透き通るように白い肌に、人形のように整った美貌。

 遠目にも鮮やかな緑の瞳からは、幾筋もの涙が流れ、白い頬を伝っていた。

 淡い桜色の唇がわずかに開き、聖女は何かをつぶやく。

(えっ)

 コーデリアに、ラウラの声は聞こえない。

 実際に声を出したかすら、分からない。

 けれども彼女の唇の動きに、コーデリアの目は釘付けとなった。

 ラウラに気を取られていた少女は、見物人に肩をぶつけられ、尻餅をつく。

 そのはずみでフードが外れ、隠していた髪が露わになった。

 ぶつかった中年男が、コーデリアを振り返る。

 すると酒に酔っていた赤ら顔を、さっと青ざめさせた。

「おい! こいつ、赤髪だ!!」

 男が驚いたように声を上げると、周囲がどよめく。

 コーデリアはあわててフードをかぶり直すが、手遅れだった。

「なんと不吉な」

「瞳まで赤いぞ! 赤髪に赤眼……まるで古の悪しき竜だ」

 波が引くように、周囲の者たちは赤髪の少女から後ずさる。

 うかつだったと、コーデリアは歯噛みした。

 この帝国、特に帝都周辺では、邪神と同じ赤い髪や瞳を持つ者は、厄災をもたらす不吉な存在だと信じられている。

 普段なら、白い目で見られる程度ですむ。

 だが「魔女の火刑」が行われたばかりの今、居合わせた者たちは殺気立っていた。

「まさか魔女の手下か?」

「違いない。こいつも火あぶりにしちまえ!」

 あわてて立ち上がろうとしたコーデリアの額に、どこからか飛んできた石が直撃した。

 とっさに手で頭をかばうが、裂けた傷口から血がにじむ。

 立て続けに石や酒瓶を投げつけられ、そのうちのいくつかが当たった。

(魔女、ですって?)

 ぐらぐらと血が煮立つような怒りで、コーデリアの視界は蜃気楼のように揺れた。

 飛んでくる罵声や石にもひるまず、少女は決然と顔を上げる。

「姉さまは、魔女なんかじゃない」

 低く呟くと、自分を取り囲む者たちをにらんだ。

「ひっ……なんだ、このガキ」

「なんて言ったんだ。まさか、呪いの言葉じゃないだろうな」

「誰か捕まえろ!」

 見物人たちの中から、体格のよい男が数人、じりじりと近寄ってくる。

 コーデリアは立ち上がろうとしたが、体に力が入らなかった。

(死ねない。こんな所で、まだ私は)

 流れ出す血が目に入り、視界が赤くにじむ。

 耳鳴りがやまない鼓膜の内側で、母の言葉がよみがえった。

『コーデリア。もしもこの先、あなたが絶望した時は――』

 少女は奥歯を食いしばった。

 まだ、死ねない。

 自分にはまだ、成すべきことが残っている。

 疼くように痛み続ける右手で、剣を握りしめた、その時。

 コーデリアはすぐ背後に、何者かの気配を感じた。

 しかし彼女が振り返るより先に、後頭部に殴られたような、鈍い痛みと衝撃が走る。

「っ⁉」

「手を出すな。この者は、我が家の奴隷だ」

 聞いたことのない男の低い声が、すぐ背後から響く。

(奴隷⁉ こいつ、一体なにを言って……)

 左腕を掴まれ、とっさに振り払おうとした瞬間、目の前の景色がぐらりと揺れた。

 目を開いているはずなのに、視界が黒く塗りつぶされてゆく。

 何者かに体をかつぎ上げられる感覚とともに、コーデリアはふっと意識を手放した。

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