(2)噂話に花が咲く
「この肉包、美味いな」
ぴく、と耳が過敏に反応してしまったのは、この胸についた大量の脂肪のせい。
数十席はあろうかという店内は天井から桃型の提灯がいくつもぶらさがっており、昼時のためか光量は抑えられ、窓辺からさしこまれる遅く秋めきはじめた薄日とも相まって明るすぎずまた薄暗くもない。
黒を基調として統一され、透かし彫りの衝立やら洒落た卓子と椅子なども大変趣味がよい。
夕べの到着時には火もおとされ人気もなく、暗くてよくわからなかったが、案内された室は最上階。それも都随一の最高級の酒楼らしかった。
壁面には色味をおさえた
家具や卓子から何から何までどれも黒壇。
目を見はるのはやはり天蓋付の寝台だろう。
一度頭部をあずけると上げることすらも億劫になるほどふかふかの枕。
そしてよく沈んで寝返りもうてない絹のお布団。
そして寝室とを区切るようにして配置された大きな衝立には瑞々しい蓮花や二匹の緋鯉が今にも動きだしそうに生き生きとして画かれ、飾り棚は藤棚を模り、今しも花弁が舞散る様を螺鈿によって克明に刻まれ、まさに超絶技巧の造り。そこに高そうな壺などが置かれている。
おそらく特別室とやらだ。
広いし贅沢すぎるわで、やたらさわれないし逆に落ち着けない。
壺一個割りでもすればどこぞへ売り飛ばされるやも。個々それぞれが王宮にあってしかり級の代物ばかりだ。
貧乏性がうずく。で、結果、床に上掛けを敷いて長旅による疲れもあって爆睡。
おかげで身体のあちこちが痛くて寝起きは最悪なものであった。
起きぬけにすぐ卓子の上に山と積み上げられた書物に目をとおしていたが、目がチカチカとして集中できない。
てなわけで気分転換をかね一階の食事処まで降りてみると、何やら良い匂いが。
くんくんと、
「…………」
見るとどの卓子の上にも肉炒めとほんわかと湯気をたちのぼらせた蒸かしたての肉包が並べられている。
「……なぜに肉包……?」
憎々しい、もとい、肉肉しい手のひらにあまる大きくて白い一塊の肉包が、眼下で早く食べてくれと視覚のみならず鼻孔を刺激してくる。
確かに良い匂いだ。
「酒楼とはいえもっと高級な山海の珍味とか? 田舎じゃ食べられない珍しいものを食べてみたかったわ」
店で一番の人気の名物料理をと頼んだら目の前に並べられたのがこの二皿だった。
肉包にいたっては味よりその形状に難ありであるが、出されたものは喩え嫌いなものでも完食すが琳榎の心条。
それでもまだ手につける気になれず鳴神のごとくなく腹をさすりつつ、ツッと見渡す。
「それにしても人が多いわね」
昼時だというのに多くの人が酒をあおっている。
妓女をはべらせる富豪らしき一団の姿もポツポツとみられるが、大半は琳榎と同じ年のころの少年や少し年上のお姉さん、そして白髪の老人までがいる。
ここで小耳にはさんだ噂話によるとこの酒楼が男女とわず人気を博するのは、かつてこの酒楼に泊まって合格したという人物にあやかってのことらしい。
誰かしら書物を口の内で諳じており、そのただならぬ異様さが目にとまる。
(人生がかかっているのだもの、一生懸命なのは当然よね)
「わたしも負けてはいられないわ」
今日ほど数少ない特技のひとつが速読暗記でよかったとおもえたことはない。
何年も勉強してきた人たちには悪いがこちらも切実さにおいてはひけをとらない。
(丸暗記だって合格は合格よ)
できれば、のはなしだが。まずは手始めにこれからやっつける。
「いざ」
カッと見開き、その白くて柔い、ほっこりとする温いものへ手をのばす。
「はぁむ」
むしゃむしゃと忌々しい蒸かしたて肉包を頬張る。
「!」
肉包のくせして超絶美味し。
単なる肉包と思うなかれ、甘からず、しょっぱからずなゴロゴロとした叉焼が口の中でホロホロととける。
それがぎっしりと詰めこまれているのだから不味いわけがない。
名物に美味いものなしとはいうがこれは予想を裏切る美味さ。
箸休めの肉炒めに箸をのばす。
「!?」
くわえた箸ごと噛みしめて静止する。
お行儀などそっちのけだ。美味し。
葉物野菜と肉だけというシンプルな肉炒めながらこちらも文句なしに美味い。
味付けは塩と香辛料だけ。いゃ、もしかしたら薬剤の一種が配合された独自のスパイスか?
肉はとても軟らかく油っぽくもない。上質な肉だけあって特別な調理法をほどこさずとも噛めば噛むほど肉汁があふれる。
葉物と薄切り肉を交互にはさんで口に頬張れば歯ごたえが絶妙でその独特な食感までもが楽しめる。
これならもう一皿ぺろりと軽くいけそうだ。
(追加注文しようかしらーーーーでも女の子がはしたない?)
そろりと周囲を見回す。
「…………」
誰もかれも自分の世界に没頭して琳榎に注視するものとてない。さりとて人の目がきになるもの。
「あの……」
小さく声をあげた。
だが騒然とした店内ではすぐにかきけされてしまった。
ここで断念すべきか。いゃ、腹の虫がそれでおさまるはずがない。
頭を必要以上に酷使しているためかいつもよりお腹がすく。そうするとイライラがつのって集中力が低下してしまうといった悪循環。
その連鎖をたちきるためにも肉包を一皿追加、さらには肉炒めを三皿は最低追加したい。
滞在中の費用はすでに納められているとのことで気兼ねなくいくらでも食べられる。
わざわざ火をおこして煮炊きして、最後には洗い物の山の片付けーーーーでうんざり、といった手間もない。
勉強づけであるということをのぞけば、上げ膳据え膳で極楽のよう。
それでも。山暮らしは楽しかったなーーーー
連山でのあの日、今からだと二日前。
師の君との別れの挨拶もそこそこ。半ば追い出されるようにして廟を後にし、数時間かけて下山すると麓で待機していた軒車には護衛官数十名の姿が。碧京を見つけるやすぐに駆け寄った。
碧京へ一礼してのち、恭しい口上がのべられるかと思いきや。
『主上。お待ち申し上げておりました。で、この方が』
一団の長らしき武官が横目に琳榎を目視。
(この方? どの方よ!?)
まるで事前の打ち合わせがなされていたような口ぶりに、ふと違和感をおぼえる。
も、とりあえず琳榎は目礼してかえす。
が、プイとすぐに碧京にむけられてしまった。
世間でいうところのシカトというものなのか。
『うむ。手配は』
『万事お申し付けどおりに』
『では参ろう』
やはりそのようであった。
行きません、と大量の薬剤やら研究日誌とうを言い訳にごねられては困ると思ってか、琳榎の私物や廟にためこまれた大量の薬などは後日王都へ運ばれるためそのままでいいと言われ、数日分の下着と着替えだけを手にして下山したわけだが。
どうにも手際がよすぎる。
手配、その一言もそうだが、事前の準備が万端といった感じが気になって仕方がなかった。
『琳榎、乗れ。軒車は初めてか?』
一足先に軒車へ乗り込んだ碧京が手を差しのべた。
『……はい』
軒車どころか乗り物自体が乗った経験がない。碧京の手をとり、よっこらせ、と隣へ乗り込む。
『うかぬ顔だな』
『ぃぃぇ。手際がよろしいようで』
武官の物言いといい、琳榎が来ることは周知されていた、と考えれば合点もいく。
飼うのも捨てるのも飼い主の気分のまま、猫じゃあるまいし、とも思う。
『不満か?』
ーーそうか。私は師の君から捨てられた猫なのか、と府に落ちる。
飼い主が碧京に替わるだけのこと。元々そういう約束のもとで教えを構うたのだから文句を言えるような立場ではない。
むしろ行き場のなかった琳榎を慮ってのことと思えば何ともありがたいはなしだ。
『さ、行くなら参りましょう。で、どこへ参るのですか』
『ちいとばかり遠いが、王都・
『し、神市!?』
ここから神市までともなると陸路で三.・四日はかかるという。
『揺れるゆえどこかにつかまるがいい。ここから悪路が続くからな。何なら俺にしがみついてもいいのだぞ? 遠慮するな』
パッと手を広げる。
(そ、それだけは絶対にイヤっ!)
首が胴体とお別れになる。
『それは畏れ多いことです』
『そうか?』
出せ、の一声をうけ、馬に鞭が軽くうたれ軒車はゴトリゴトリと足早に動き出した。
軒車での道中で、これまでの経緯、今後の身の振り方など説明という名の言い訳がましいぐたぐたが続いた。
終始ご機嫌な碧京は琳榎と言の葉をかわすごとに高らかと笑う。
そうして日が暮れはじめると軒車は停車して船に乗り換え、夜を徹して丸一日は北上。
港へつくと再び軒車に乗り換え王都・神市にたどり着いた次第だ。
篝火のたかれ、すでに封鎖された城門をいくつも通過。街の火も消された深夜遅く、やっと軒車が止められた。それがこの酒楼だ。
降りろ、とせっつかれ言われるまま降りると
急いているためなのか『一室おさえてあるからそこで勉強に励め』とだけ指示され今に至る。
「…………ぅむむむ」
(よし、今度こそ!)
どうにも声だけでは心もとなく、給仕の妙齢の女性にむかって手をあげかけたその時、他から野太い声があがった。
「そこの姉ちゃん、酒だ、こっちに一つ頼む」
「あいよ」
せっかくの好機を失した。
がっかりして背中を丸めると胸の重みが加算され卓子にへばりつくような不恰好に。
惨めにはいつくばらせる重くのしかかる重力すらも恨めしい。
琳榎は邪念のこもった白い目線を側近くの男へむけた。
「…………」
すぐ右斜めの席。
見た感じでは三十代後半。男二人が顔をつきあわせるようにして向かいあっている。
(かなり酔っているみたいだけど大丈夫かしら、格好からして書生よね?)
あるいは高まる緊張をほぐしているのかも。
(今さらジタバタしても仕方ないってわけ? 余裕があっていいわね)
今の今、あくせくしている琳榎からすれば面白くない話しである。
だが次の瞬間、昼日中から酒をあおるような男からは想像だにもしない切実なる科白が噛みしめるようにつぶやかれた。
「あと五日だな」
文字の羅列を眺めているだけで滅入ってくるので気持ちは十分理解できる。
うんうんと頷いていると、そうした呟きが向かいあった男の気にさわったらしく、吼えるようにしてがなった。
「やめろ、最後の晩餐じゃあるまいし、酒が不味くなる!」
確かにその通りだ。せっかくのお料理の味さえ味気なくさせてしまう。
それを受け男は、悪い、と言って秋波をおくりつつ手套をきる。
その様子をから察するに気心のしれた旧知の仲といったところか。
ふと、がなってみせた男は閃き顔で口を開いた。
「そういえば聞いたか」
「何を?」
ちょぃと相方の男にむかい指を上下させる。
誰にも聞かれたくないのか。
相方の男が身を乗り出して耳を寄せる。
「大きな声では言えんが、今年だけの異例らしいんだが、特別な推薦状があるものだけ医官・官吏、その両方の受験資格がもらえるらしい」
へぇ、と男に続いて琳榎も頷く。
「何でも陛下のご命令で、昨年退官された薬膳長の後釜を今回合格したもののなかから選ぶらしい。医官・官吏、その両方の資格がなければ喩え陛下のご命令でも薬膳長の座にはすえられないからな。だから同時に行われるはずだった科挙をわざわざ日程をずらしたらしい」
双方の受験資格をもらえる上、上位合格者のなかからすぐさま高位の役職をもらえるというおまけ付き。破格の厚待遇。富くじで高額当選と等しく魅惑的。
「てことは、すでに陛下のお目にとまったものがいて、そのものを役職につけるために試験日をわざわざずらしたとか?」
「俺もそう思って又聞きしたやつに審議を確かめてみたんだ。するといたんだよ、それらしき人物が」
「誰だ?」
相棒の男同様、琳榎も固唾をのんで男のくちから語られるのをじっと待つ。
しかし男のくちから紡がれたのは思いもかけない人物の名だった。
「
ぎょとして琳榎は目をむく。
(し、師の君!?)
舌にまとわりついた肉の旨味もどこへやら、嘘おっしゃい、と男の胸ぐらを今にも掴みたい。
明らかなデマだ。
弟子の琳榎ですら耳を疑ったほどだ。男たちにすれば寝耳に水だったろう。
「陳子皇ってあの伝説の名医!? てか今も生きていたのかよ、噂では連山にこもって何百年。日夜研究をつづけ今ある薬のほとんどを世に知らしめたっていう
(だからデマよ)
そんなことのために免許皆伝させてくれたとは考えられない。
贅沢と権力に無関心な師の君が官吏になって甘い汁をすするとか想像だにもできない。
同姓同名、そうに違いない!
「…………」
がブリと当たり散らすようにして肉まんにかぶりつく。
「バカ。弟子だ弟子。陳子皇の推薦状をたずさえた代理だってやつが受験票をもらいにきたらしい。たしか女だ、連山あたりでは有名だとか。確か名をーーーー」
「
「そう! けったいな名の」
ブッと盛大に吹き出した。
(ーーわたし!?)
白い歪な塊が皿の上を転ぶ。
未だ完成の日の目をみぬ万能薬ではあるが、家庭用の常備薬程度ならと子皇から販売を許可され、二年ほど前から麓の街の薬問屋へおろしていた。
するとその効能ぶりにいち早くあずかり、実感できた麓の街では琳榎を薬仙娘々と呼ぶ人も少なくなかった。
だがその二つ名をまさか神市で聞くことになろうとは。
もとより神市に知り合いなどいるはずもない。
が、気になって周囲を見渡すと、琳榎になど気にもとめずにもくもくと肉包をかきこんでいる。
「…………」
自意識過剰、気恥ずかしいったら。
ホッと安堵したのも束の間、男同士が顔をつきあわせれば会話も下世話になっていく。
「なんだそれ、異名てきなヤツ? 袖の下でもつかませたんじゃないか?」
「ぁ、それ、俺も思った。最悪、色仕掛けとかもあり得るだろう。だって医官・官吏の両方を受験するんだろ? どちらか一方だけでも合格するのだってまさに奇跡」
だよな、と相づつ。
そして皮肉たっぷりに「さぞや才媛なんだろうよ」と嗤う。
「…………」
才媛。文才、もしくは才能のある才女を指す。
けれど琳榎の容姿は十人並みで、才媛さにおいても疑わしい。
さらに言えば袖の下にいたっては無一文。よってつかませようもない。
むしろそんな裏技がるなら勉強そっちのけで日雇いしたほうがなんぼも楽で。
などと一々否定しているうち、あらぬ方向へと移行していく。
「でも、佳人ならお近づきになって一生安泰ってのも悪くない」
(ーーーー!?)
ぞぞぞと肌が粟立つ。
「お前さ、そのヒモ気質、なんとかして今年こそ自力合格をめざせよ」
カッカと酔いにまかせ嗤う。
嗤えない。
な、なんて都はおそろしいの、寄生虫男、おそるべし、そう一つ学んだ。
結局最後に頼れるのは自分だけ。
陳子皇の弟子の名に恥じぬためにも。
「…………」
琳榎は残りの肉包をもくもくとかきこんだ。
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