薬仙娘々の官能恋愛事情
冰響カイチ
序章
貴人と何とかは高いところがお好き
りぃん、と語らうすぐそばを、そっと踏みしだく。
赤、黄、茶、黒、くすんだ緑の五色の葉で散り敷かれた道なき道は黒蜜のごとくドロドロとしてよく肥えた土独特に香り、道をふさぐ磐座やせりだした高木の根、さらにはごつごつと突き出た巌があるなど獣道よりもなお悪い。
何処よりともなく松茸やらがゆるゆると薫ってこの連山はまさに豊穣の秋色でくくられていた。
「やぁね、ここまで登ってからの山颪? 私の人生と同じくお先真っ暗ーーーーもとい真っ白か」
どうしよう、そう口ごちる。
登るべきか、留まるべきか、下山すべきか、悩みどころである。
ここは、
" ̄ ̄天、諸峰を見れば、時に出でて剱のごとき刃となり、また時に没して白き海となる。
連山、往々にして山下をのぞむれば、天下に名峰ならぶものなしーー"
そう謳われる、神、いわゆる神仙がすまう霊山にして薬剤の至宝庫とも称される。
昔から山颪は山頂へ近づくなかれという天啓とも謂われ、ことに連山は魔魅の巣窟であるとも。
実際それらしい妖獣が生息し、薬草を食んでいるためか個々の妖力も高い。昔話とはいえ、あながち眉唾物とはあなどれがたしだ。
「あぁ、免許皆伝したその先のことなんて何にも考えてなかったな」
師の君との約束事で、免許皆伝したのちはここを去り、独立する旨を誓いだてていた。
「この山で育ち、ここ以外何も知らない私に何処へ行けと? 」
「世界はなんと無慈悲なっ」
艶やかな枝葉によって小さく切りとられた穹は生憎の曇天で、小指の先ほどの山頂は白くくゆり深いまどろみのなかにある。
その白い濁りのようなものが、のそりのそりと降下して、九折りの道も狭に、椎の実や松ぼっくりがてんでに転がる茂った先を、いましも雲霧に没しようとしていた。
「あら? 何かしら」
はたと止めた視線のさきで琳榎は息をのむ。
颪の間に間に見えたのは、蹄を象るように押し切られた落葉。
てんてんと散在され、さらに奥へと続いている。
明らかに鹿や山鯨といった獣のものともちがう。一瞬のうちに枯れ葉を裂くほどの加重が加わった証拠。鋭い爪をもつ巨大な何かーーーー
「この丸みをおびた三本の蹄。おそらく
ゴックンと口腔にたまった酸いものを嚥下した。
英招とは細面の三本足、人面馬のことで人の言の葉を解す珍しい高位の妖鬼神で、俗にいうところの妖怪である。
その状は馬身に虎の文があり鵠(とり)のような白い翼をもち四海をめぐるとされる平圃の番人。
百騎単位の群れで行動する彼らは日没までの数刻を連山ですごすことを日課としていた。
よく見慣れた光景。
(けれど)
ツッと冷たいものが頬を伝った。
蹄をもつ妖怪ならもう一種、この連山にいる。
それを裏付けるようにあれほど鳴きしきっていた虫の音がいつの間にかやんでいる。
心なしか白濁のような山颪にさえ猩々緋に染色され、血だまりのような血臭が鼻につく。獣臭だ。
それも屍肉を食むような、肉食獣が発する腐敗臭が。
(だとしたら、人肉を好むという
「!」
カァと鳴きしきる一声にいりまじる羽音、葉を打ち散らして茶色いものが降りそそがれる。
突として枝葉にぶらさがっていた三つ目の鴉が一斉に飛びたったのだ。
(傲咽、に間違いない)
冷たいものが頤へと伝う。
逃げ場はない、そう覚悟を決めたその時。
【その、まさか、だとしたら?】
「ーーーー!?」
血という血が凍りつく。
それは誰からのものともしれぬ警告。琳榎の予感めいたものをあたかも肯定してみせた。
誰の声(もの)だろう、そう思って顔をあげる。
誰のものともわからぬ壮年の声(もの)。
聞き覚えがあるか、といえば否だ。
では、ふと、思う。これは人間の声(もの)なのかと。
妖怪のなかには人に化けるモノもいれば、英招のように言の葉を解し、或いは人間を惑わして最悪喰らおうとするモノもいて。
何よりここは禁足地で、この山へ足を踏み入れた者の末路がどうなるかなんて子供から大人まで誰もが知っている。
ゆえにただの人であろうはずもない。
(信じて…………いい?)
いゃ、いいわけがない、首を降って打ち消す。
琳榎が迷った素振りをみせると急き立てるように嘆息が吐き捨てられた。
【右だ、右の茂みに飛び込め。傲咽は右が死角だ】
確かに傲咽は目の前の標的に飛びかかる習性がある。どちらかといえば左寄りの目付き、だった、ようなきもする。
「なるほど。言われてみれば」
なおも声の主は淀むこともなくはっきりとした口調で的確に発してくる。
【今だっ】
促されたと同時に耳をつんざく風斬り音がこちらにむかって突進。
一瞬の躊躇が命取りになることがままあるのがこの連山。
もう迷っている
「えぃ!」
琳榎は身を翻した。
右の茂みへと飛びのいたとほぼ同時、それまで琳榎がいた足跡が、ドドッと怒濤の勢いで黒い巨大な塊が上書きしていく。
その痕を地鳴りが追い、突き上げる衝撃波で山津波が。
琳榎の小さな身が上下した。
とっさに枯れ草にしがみつく。
藁にも縋るとはこういうことだろう。
いつまでこうして突っ伏していただろうか。
しばらくすると、しん、と鎮まりかえった。
琳榎は薄く眼をあける。
「……傲……咽……は? 」
そう声も絶え絶えに絞り出すと、口から何か生まれそうにとくとくと食道をかけのぼってくる。
うっっ、と鼻を手でおおう。
鼻がもげかける、なんという悪臭。
傲咽と遭遇してよく無事だった、それでよしとしておこう。
琳榎は身内のものを静かにのみくだし、茂みごしにそっとのぞきみる。
「……行っ……た?」
胸の奥で鼓動がどくどくと脈うっている。
危険であるからと師の君からも口を酸っぱくしていわれていたが。
まさに牛か山鯨の猪突猛進さ。
そうだ。命の恩人、彼の声の主の機転がなければ危うかった。
お礼を言わねば。
琳榎は辺りをみまわす。
「どこを見ている」
ぐるりと一周見回すと、突として背後に気配があらわれた。
琳榎はとっさにふりかえる。
「ぁ、あなたは
「よっ!」
手套をきられた。
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