一章 かかしと妖精
正面から太陽が
深呼吸して空を見あげた。
今日は旅立ちの日だ。手綱を両手で握りしめ、前方を見つめる。
道はぬかるみ、馬車の
自分は今から、この道を一人で歩き出す。不安と
だがわずかな希望も、胸に感じる。
その時だった。
「アン!! 待って、アン」
背後から声がした。
アンが乗る箱形馬車の背後には、
アンは生まれてからずっと、母親のエマと二人で、旅から旅の生活をしていた。そのために半年もの間、同じ場所に
その村の方から、
「わっ、やば!」
首をすくめ、アンは馬に
「ジョナス! ありがとう。元気でね!」
「待ってくれ。アン。待って! 僕が
「そういう問題じゃないから──、気にしないで──」
大声を返すと、息切れしながらジョナスが
「じゃあ、じゃあ、待ってくれよ!!」
「もう、決めたから。さよなら!」
二人の
アンは今一度大きく手をふり、再び前を向いた。
「見守っていて……ママ」
今年の春先。元気と陽気がとりえだったエマが、病に
そしてその時、たまたま
よそ者のアンとエマに、村人たちは親切だった。
エマの病が治るまで村に逗留するようにと、村人たちは
けれど。エマの病は治らなかった。半月前に、帰らぬ人となった。
『自分の生きる道を見つけて、しっかり歩くのよ。あなたならできる。いい子ね、アン。泣かないで』
それがエマの、最後の言葉だった。
エマは今、ノックスベリー村の墓地の
こまごました雑用が終わったのは、エマが死んで半月後。それと同時に、アンは旅立ちを決意した。
三日前の夜。アンは世話になったアンダー家の人々に、旅に出ると告げた。
『アン。君が一人で旅を続けるのは無理だよ。君はこの村に残ればいいじゃないか。そして……そうだな。僕のお
旅立ちの決意をしたアンの手を握って、ジョナスはそう
『ずっと、気になっていたんだ。君のこと』
アンとジョナスは半年、同じ家に
ジョナスの整った顔立ちの中で、青い瞳はとりわけきれいだった。南の国から輸入される、高価なガラス玉のようだ。
好き嫌いを意識したことのない相手でも、その瞳で見つめられると、
求婚されるのが、
ジョナスに別れを告げると、ひきとめられると思った。だから早朝、こっそりと村を出ようとした。けれどやはり感づかれたのだろう。ジョナスは追ってきた。
「結婚……」
ぼんやりと、口に出してみる。まるで自分とは、
ジョナスは村で、女の子の人気を一身に集めていた。
彼の家が
ノックスベリー村のような
彼は、次期ラドクリフ工房派の
近いうちにジョナスは、派閥の長となるための
砂糖菓子派閥の長といえば、運が良ければ、
そんなジョナスは、村の
それに比べてアンは、十五歳の
ついでに言うと、財産といえば古びた箱形馬車一台と、くたびれた馬一頭だ。
裕福な金髪の王子様が、貧しいかかしに結婚を申し込んだ。夢みたいな話だ。
「まあね。王子様が、本気でかかしに
アンは
ジョナスはもともとプレイボーイで、女の子には特に優しい。その彼が、アンに結婚を申し込む気持ちになったのは、彼女の身の上に同情したとしか考えられなかった。
同情で結婚など、いやだった。それに王子様と結婚して、めでたしめでたし──そんなお
ジョナスは嫌いではなかった。だが彼と生きる人生に、
自分の足で生きている実感を
アンの父親は、アンが生まれて間もなく内戦に巻き込まれて死んだという。
けれどエマは女一人、アンを育て、生きてこられた。
それもこれもエマには、銀砂糖師という、立派な職があったからだ。
砂糖菓子職人は、ハイランド王国の至る所にいる。しかし王家が最高の砂糖菓子職人と認めた銀砂糖師は、ハイランド国内にごくわずかしか存在しない。
エマは
銀砂糖師の作る砂糖
王都ルイストンであれば、たくさんの
そこでエマは砂糖菓子を必要とする客を求めて、王国中旅をすることを選んだ。
旅は
──ママみたいな銀砂糖師になれれば、
昔から、ぼんやりそう思っていた。エマが死に、今後の自分の生き方を決めなくてはならなくなったとき、母親への
──わたしは、銀砂糖師になる。
しかし銀砂糖師になるのは、
毎年ルイストンでは、王家が砂糖菓子品評会を
エマは二十歳の時その品評会に参加し、王家勲章を
砂糖菓子は、
砂糖菓子は、結婚や葬儀、
砂糖菓子がなければ、
銀砂糖は、幸福を招き、不幸を
ハイランドが、まだ
銀砂糖で作られた美しい砂糖菓子には『形』という、神秘のエネルギーが宿るというのだ。
人間が銀砂糖や砂糖菓子を食べても、もちろん、寿命が延びることはない。
しかし妖精の寿命を延ばす神秘の力を、人間も、受け取ることができるらしかった。
実際、美しい砂糖菓子を手に入れ食せば、
それは人間が数百年かけ、経験から理解した事実だった。
王国が銀砂糖師という厳格な資格を規定したのも、そんな事実があるからこそ。
今年も例年どおり、秋の終わりに、ルイストンで品評会が開催される。
アンはそれに参加するつもりだった。
毎年たった一人にしか許されない、銀砂糖師の
現在国内にいる銀砂糖師は、エマが
簡単になれるものではない。
だが自信はあった。だてに十五年、銀砂糖師の仕事を手伝ってないつもりだ。
左右に小麦畑が広がる道を、馬車は進んだ。
日が高くなる
レジントンは、円形の広場を中心にして放射状に広がる城下町だ。高台には、レジントン州を治める州公の城があり、レジントンの町を見おろしている。
町中をゆっくりと馬車で進んでいくと、目の前に人だかりができていた。
人だかりのために、道はふさがれている。
「ねぇ、ちょっと。みんな、なにしてるの。道、ふさがってて馬車が通れないんだけど」
「いや……通ってもいいんだが。お
「あれって?」
農夫の
「こいつ、この性悪め!!」
狩人は声を
よく見るとその泥の固まりは、人間の
「あれは、妖精!? なんてひどい!」
アンが小さく悲鳴のような声をあげると、農夫がうなずく。
妖精は、森や草原に住む人間に似た生き物だ。大きさも姿も様々で多くの種類がいるが、背中に二枚の、半透明の羽があるのが
妖精には
王族や貴族、
ノックスベリー村のジョナスの家にも、掌くらいの大きさの、キャシーという名の妖精がいた。キャシーはジョナスの身の回りの世話をしたり、砂糖菓子の仕込みの手伝いをしていた。
「あの妖精狩人が使役してる、労働妖精だ。自分の片羽を
農夫は声をひそめ、妖精狩人をそっと指さした。
妖精狩人の手には、薄い羽が
妖精を使役するために、使役者は妖精の片方の羽をもぎ取り、身につける。
羽は、妖精の生命力の源だ。羽が体から
人間にたとえるならば、羽は心臓だ。
だから使役者は、片方の羽をもぎ取ることで、妖精を意のままに動かせるのだ。
しかし妖精とて、
「いくら妖精でも、あの仕打ちはひどい」「あの妖精、死ぬぞ」と人々は
アンはとなりの農夫や、周囲の男たちを見あげた。
「ちょっと、みんな! あんなひどい
しかし周囲の者は、自信なさそうに視線をそらす。
農夫が弱々しく呟く。
「
「妖精だからって、なに!? ぐずぐずしてたら、あの子死んじゃう。いいわ、わたしが行く!」
アンは農夫を押しのけて、一歩
「おい、お嬢ちゃん。あんたみたいな子供が、やめとけって」
「子供じゃないわ。わたしは十五歳。この国じゃ女の子は、十五歳から成人でしょ。わたしは立派な大人。ちゃんとした大人なのに、なぶり殺される妖精を見殺しにしたなんて、一生自分を
アンはしゃんと背筋を
妖精狩人は興奮しているのか、アンに気がつかない。妖精をブーツの底に踏みつけたまま、手にした妖精の羽を両手で握る。
「おまえの羽なんぞ、こうしてくれる」
「やめろよ、このやろう! やめろ!!」
妖精はそれでも勇ましく、小さな手足をばたばたと動かして、泥を
しかし妖精狩人の手は
妖精は泥の中で悲鳴をあげる。
「
羽を引きちぎろうと、妖精狩人の手に力がこもった
「ちょっと、失礼!!」
声とともに、ドレスの
油断しきっていた妖精狩人は、がくっと膝が折れる。体の
「てめぇ!!」
妖精狩人が
アンは軽く飛び
「ほら。これ。あなたのでしょう」
はっとしたように、妖精は羽をひったくった。泥にまみれた顔の中で、青い目だけは異様にぎらついて光っている。妖精はアンを見あげると、
「ケッ! 人間に、礼なんか言わないからなっ!!」
アンは肩をすくめる。
「まぁ、ね。わたしも、
「どうしてくれる
ごつい
アンは
「だっておじさん、あの妖精を殺すつもりだったんでしょう。それなら、いなくなるのと同じじゃない?」
「なんだと!?」
いきり立つ妖精狩人は、
しかし彼らを取り囲んだ野次馬が、
「だいの男が、そんな子供に手をあげるのか!?」
「その子の言うとおりだろうが!」
「あんた、ちょっと
野次馬の非難を受けて、男はひるむ。アンは
低く
「ありがとう。おじさんが
アンは「じゃあね」と軽く妖精狩人に
「まったく、頭に来る。ひどいことしすぎよ。妖精だからって、なんだっていうのよ」
妖精は姿こそ、少し人間と
だからエマも、けして妖精を使役しなかった。
妖精を使役しない。それがエマとアンの信条だった。だが───。
アンはふと、暗い表情になる。
「……でも。……わたしもこれから……ひどいことするんだよね……」
アンは再び、馬に
町の中心部に来ると、遊んでいる数人の子供を呼び止めて
馬車を降りると、円形広場に向かう。
広場には、テントが不規則に並んでいる。
テントは、布に
つんと
その
近くのテントに目をやる。
その
ここは妖精市場だ。
妖精
王都ルイストンへ向かうつもりならば、レジントンを経由すると少し遠回りになる。にもかかわらずこの町に立ち寄ったのは、この町の市場に、妖精市場が
アンは近くのテントに近寄ると、妖精商人に声をかけた。
「ねぇ。戦士妖精は、売っていないの?」
すると妖精商人は首をふった。
「うちは
「じゃあこの市場で、戦士妖精を扱っている人を知らない?」
「
「そうなの? まあ、とりあえず行ってみる。ありがとう」
礼を言うと、歩き出す。
妖精商人は妖精を、その能力や容姿によって売り分ける。
大半の妖精は労働力として、労働妖精と
外見が美しいもの
特に
アンは戦士妖精を買うために、妖精市場に来たのだ。
これからアンは砂糖
ノックスベリー村やレジントンがある王国西部から、ルイストンへ続く
エマとて、旅を続ける道中には
南に
しかしそれでは、今年の品評会には間に合わない。
アンはどうしても、今年の品評会に間に合いたかった。それはひどく感傷的な理由からだった。自分でもわかっていた。けれど、その感傷的な理由にすがり、なにか目の前に目標をかかげていなければ、足もとがぐらつきそうだった。
──絶対今年、銀砂糖師になる。わたしは、決めたんだから。
ぐっと視線をあげる。
ブラディ街道を行くには、護衛が必要だ。
けれど残念ながら、
そうなると
今年、銀砂糖師になりたいという大きな望み。そのためにアンは、「妖精を
教えられた辺りに来ると立ち止まり、ぐるりと見回す。
どこのテントで、戦士妖精が売られているのだろうか。
左のテントには、掌大の妖精が、籠に入れられて
右のテントには、小麦の
そして正面の、つきあたりにあるテント。そのテントの売り物は、妖精一人だけだった。
テントの下になめし
その妖精は、アンよりも頭二つ分ほど上背がありそうな、青年の姿だ。
黒のブーツとズボンをはき、
黒い
その背に、半透明の柔らかな羽が一枚ある。まるでベールのように、敷物の上に
これは愛玩妖精に違いない。貴族のご婦人が、観賞用に高値で買い求めそうだ。
さらりと額にかかる前髪の下で、妖精は目を
その姿を目にしただけで、背がぞくりとするような、快感めいたものすら感じた。
──綺麗なんてものじゃない……。
その長い睫に引き寄せられて見つめていると、ふと妖精が顔をあげた。
目があった。妖精は、アンをまっすぐ見つめた。
何か考えるように、妖精はしばらく
「見覚えがあると思ったら、かかしに似てるのか」
そして興味をなくしたように、ふいと、アンから視線をそらした。
「し…し、失礼な……花盛りの、
妖精の独り言に、アンは
「盛りも、たかがしれてる」
そっぽをむきながらも、
「なんて言いぐさ──!?」
その失礼な妖精を売っているのは、妖精商人の老人だ。テントの横でたばこを
アンが眉を吊りあげているのを見ると、妖精商人は、やれやれといったふうに口を開いた。
「悪いね、お嬢ちゃん。うちの商品は、口が悪い。通りがかりの人間に、だれかれかまわず悪態をつくんだ。気にせず、行ってくれ」
「気にするわよ! 余計なお世話かもしれないけど、こんなに口が悪くちゃ、愛玩妖精としては売れないわよ、きっと! 売るのを
「こいつは愛玩妖精じゃねぇよ。戦士妖精だ」
アンは目を丸くした。これが教えられた、戦士妖精を売るテントだったらしい。
だが信じられなかった。
「戦士妖精!?
「これも戦士妖精さ。こいつを狩るのに、妖精狩人が三人も死んだってほどの、
「さっきのおじさんが、不良品だって言ったわけよね。戦士妖精って言うけど、実は口の悪い愛玩妖精を売るために、戦士妖精だって言い張ってるだけじゃないの?」
「妖精商人は信用が第一だ。噓はつかねぇ」
アンは、妖精に視線を
妖精は再び、アンを見ていた。なにが
不敵な表情だ。確かに、おとなしい妖精には見えない。なにかやらかしそうな雰囲気はあるが、だからといって戦士妖精として役に立つほど、強そうにも見えない。
「わたし、戦士妖精が欲しいんだけど……この人以外、いないの?」
「戦士妖精は、扱いがむずかしい。一度に
「リボンプールまで遠回りしてたら、品評会に間に合わない」
親指の
「こら。かかし」
ふいに、妖精が口を開いた。アンはキッと妖精を
「かかしって、この、花も
「おまえ以外に、
「……買えって……め、命令……?」
妖精商人も
「こりゃ、いい! こいつが自分を買えなんぞと言ったのは、はじめて聞いた。このお嬢ちゃんに
「口が悪くなけりゃの話でしょ~」
しかし妖精商人が提示した金額は、確かに安かった。戦士妖精や愛玩妖精は数が少ないので、高価なのだ。百クレスは金貨一枚。それで戦士妖精が買えるのは、破格の安値だ。
「ねぇ、あなた。自分から買えって言うからには、戦士妖精として自信があるの?」
訊くと、妖精はちらりと目を光らせてアンを見あげた。
「俺に、なにをさせたい」
「護衛よ。わたしはこれから、一人でルイストンへ行くの。その道中を守って欲しいの」
妖精は、自信ありげに
「わけない。ついでにサービスで、キスくらいしてやってもいい」
「そんな高飛車なサービス、いらないわよ! しかも大切なファーストキスを、サービスなんかで
「お子様だな」
「悪かったわね! お子様で!」
できるならば、もっと
──仕方ない!! 多少、口が悪くたって、
ドレスのポケットに
「おじいさん。この妖精、買うわ」
「へへ、思い切ったね。お
商人は黄色い歯を見せて笑った。アンが金貨を差し出すと、妖精商人はその金貨をとっくり検分して受け取った。そして首にかけていた小さな
「じゃあ、羽を
妖精商人は小さな革袋の口を開けると、中から
アンの
光線の加減によって、七色の光を
「これが、彼の羽?」
「そうさね。証明してやろうか」
言うなり妖精商人は、羽の端と
妖精は体を抱えるようにして、全身を
「やめて!! わかったから、やめて!!」
アンの言葉に、妖精商人は力を
妖精の体から力が
妖精商人は羽を折りたたみ、元の袋に戻すとアンに
「これを
「でも
「眠るときは必ず、羽を服の下に
「それで、平気?」
「考えてみな。自分の心臓を、
確かにあの苦しみかたを見れば、おいそれと手出しはできないと思える。
相手を
「気をつけなよ。特にこいつは、今まで買われようとするたびに、この顔から想像もつかねぇ悪態を
「この人、そんなに
「買うの、やめるかね?」
アンは少し考えたが、首を横にふる。
「リボンプールに行く時間は、ないもの。買うわ」
「なら、いいかね。羽は、気をつけて
アンが
妖精は
「待ってろ。いつか、殺しに来る」
「そりゃあ、いいな。楽しみにしているよ」
妖精は立ちあがった。長身だった。
「とりあえず。わたしは、あなたを買ったから。よろしくね」
アンが言うと、妖精は
「金貨を持ってるとは、景気がいいな。かかし」
「かかしって呼ばないで! わたしは、アンよ」
アンと
「お嬢ちゃん、本当にこいつを使役できるのかい?」
「使役できるさ。なあ、かかし?」
と、答えたのは当の妖精だ。
「アンよ! アン・ハルフォード! 今度かかしって呼んだら、ぶん
「……
妖精商人の
「ええ! 大丈夫よ。心配しないで、おじいさん。さあ、あなたは
「ねぇ、あなた名前は?」
妖精はもてあましぎみに長い足を組んで、腕組みし、御者台の背もたれにもたれかかっている。ふんぞり返っていると言っていい。あくせく馬を
妖精はめんどくさそうに、ちらりとアンを見た。
「聞いてどうする」
「だってあなたのこと、どう呼べばいいかわからないじゃない」
「トムでもサムでも、人間流の好きな名前で呼べばいい」
妖精を使役する時は通常、使役者が妖精に名前をつけるものだ。しかしアンは、それがいやだった。自分の本当の名前を呼ばれないのは、
「わたしだったら、自分の本当の名前で呼んでもらいたいわ。あなたも、そうじゃないの? 勝手に名前をつけて呼ぶなんて、したくないの。だから、あなたの名前を教えて」
「どう呼ばれようが、関係ない。くだらないことを
妖精は、そっぽを向く。アンは彼の横顔をちろりと見て言った。
「じゃ、カラスって呼ぶけど?」
さすがに妖精も、ものすごくいやそうな顔をしてアンを見た。
「かかしの仕返しか?」
「そうよ。カラスさん」
妖精は
「シャル・フェン・シャル」
「それが名前?」
訊くと、頷いた。アンは微笑んだ。
「綺麗な名前ね。カラスより、ずっと
「全部が名だ。人間のような、
「そうなの? でもシャル・フェン・シャルって長すぎるから……、とりあえずシャルって呼ぶけど。それでいい?」
「好きなようにと、言ったはずだ。おまえは、俺の使役者だ」
「まあ……そうだよね」
あらためて妖精の口から言われると、気持ちのよいものではなかった。自分は
アンが操る箱形馬車は、レジントンの町を抜けた。ブラディ
ブラディ街道に近づいたのを感じながら、アンは口を開いた。
「わたし、護衛をしてもらうために、シャルを買った。けど一つ、約束する。ブラディ街道を抜けて無事にルイストンに
それを聞き、シャルは
「俺を解放すると言ってるのか?」
「そうよ」
するとシャルは
「金貨で買った妖精を、
「おめでたいってのは、失礼ね。わたしはただ、人間は、妖精の友達になれると思ってるの。友達になれるかもしれない人を使役するなんて、いやなの。わたしは
「友達? なれるわけがない」
冷えた言葉に、アンはため息をついた。
「そうかもしれないけど……。これはただ、ママとわたしの理想。でも理想だ、夢だって
「それほどのかかし頭なら、その馬鹿さ加減を、ルイストンに到着したら証明しろ」
「かかしって呼ぶなって言ったでしょう!?」
アンの平手が飛んだが、シャルはそれを軽くかわした。アンは
「あなた、そこまで馬鹿にしてるわたしに、なんで自分を買えなんて言ったの。わたしなら、馬鹿にしている相手に使役されるなんて、まっぴらごめんよ」
「人間なんぞ、どれも同じだ。それなら
「……なんだか……あなたと話してたら、とことん気分が
シャルが売れ残っていたわけが、よくわかった。
護衛にこれほど悪態をつかれたのでは、守られている方もたまったものじゃない。
アンは前方に、石ころの多い、
車輪が石ころを
空の色は
まばらな林はあるが、土地が
ブラディ街道沿いには、村や町が存在しない。しかし街道が
管理といっても、
一つは、年に一度、街道が植物に
二つめは、旅人が野営するための、
ブラディ街道は危険だが、それでも街道として機能しているのは、州公がこの二つのことを実行しているおかげだった。
アンは王国全土の
王国西部
宿砦は、石を積んだ高い
要するに旅人は
林に囲まれて建つ宿砦に、アンは馬車を乗り入れた。そして鉄の
半年ぶりに馬車に揺られると、さすがに
御者台の下に押しこんである、なめし
「あなたの
さらに
夕食は旅の先々を考えて、
アンは毛布にくるまると、林檎を
シャルはアンから少し
今夜は満月だった。月光が、シャルの顔を照らしていた。
月光で洗われた
背にある羽も、
シャルの背にある羽は、もぎ取られたものと
妖精の背にある羽は、温かいのだろうか。冷たいのだろうか。
「妖精の羽って、
訊きながら、手を
はっと手を引くと、シャルの
「触れるな。おまえの手にあるもの以外は、俺のものだ」
その冷たい
「ごめん。わたし、
妖精にとって、羽は命の源。人間にとっての、心臓と同じ。他人の心臓を握り、命令をきかなければ心臓を握りつぶすと
アンがやっていることは、そういうことだ。妖精から見れば、
そっとため息をつく。
──こんなこと、やだな。
こんな
例えばもし、彼と友達になれれば? そうすれば、彼を
「ねぇ、シャル。提案なんだけど」
アンは少し頭を起こした。
「昼間も言ったけど、わたしたち、友達になってみない?」
「
切って捨てるように答えると、シャルは顔を
アンはがっかりして、頭を毛布につける。
──すぐには、無理かもね。でも誠意を持って接してれば、いつかわかってくれるような気もするし。それにしても、何を考えて月なんか見てるんだろう? 綺麗な目をしてる……。
いつもと変わらない、野宿の風景だった。
アンは毛布にくるまり、エマは荷台に出入りして、
目の前にエマの姿を見て、ほっと
『あらあらどうしたの、アン。どこか痛いの?』
「違うの。いやな夢を見たの。ママが死んじゃった、いやな夢」
『馬鹿ね。そんな
エマの冷たい指が、そっとアンの首に触れる。その指はほっそりしていて、常に冷たかった。
その指がたまらなく
「ママ、お願い。どこへも行かないで!」
そう
夢を見ていたのだと自覚した。しかしアンが握りしめた冷たい指は、現実だった。息がかかるほど間近に、シャルの顔があった。
「な、なに!?」
握っていた指を押し離して、
──これはまさか、例の高飛車サービス!?
シャルはうっすら笑い、身を起こす。その
どうやら、シャル提案のサービスではなさそうだと
──いったい、シャルはなにを……? 彼は、今、首に……。
「今、首に……」
そこでアンは、自分の首にかけられている
「シャル。もしかして……羽を、
「もう少しだった」
悪びれることもなく、シャルは言った。
「やっぱり、盗もうとしたの? ひどい……」
「なにが?」
「言ったじゃない。わたし、シャルと友達になりたいと思ってたのよ。それなのに」
アンは、シャルと友達になりたいと思っていた。それなのに。その気持ちを裏切られた気がして、
「友達になりたい? 相手の命を握っておいて、お友達か?」
その言葉に、アンははっとした。
「俺は、おまえに買われた。使役される者だ。友達にはなりえない」
もしアンが自分の理想を実行しようとするならば、羽を返したうえで、友達になりたいと申しこみ、彼の協力を
しかし羽を返してしまうのは、正直怖かった。だからアンは友達になりたいと言いながら、相手の命を握りしめていた。我ながら虫がいい。そんな関係で、友達になれようはずはない。
羽を持っている限り、アンは使役者なのだ。
シャルは妖精ならば当然そうするように、使役者から羽を取り
裏切られたと思ったり、哀しんだりするのは、お
油断したアンが、使役者として
「わたしが、馬鹿なのね」
軽くため息をつく。アンは自分の気持ちを楽にするために「友達になれればいい」と考えていたにすぎない。自分の身勝手さと
「わたしは、ルイストンへ行かなくちゃならない。シャルに羽を返した上で『ルイストンまで守って』ってお願いするような、危険な
アンは目を閉じて深呼吸した。そして再び目を開いた。
「わたしがルイストンに無事に
無表情の妖精を見あげる。彼は何も答えない。
「ついでに言うと、それでもわたしは約束を守る。ルイストンに到着したら、羽を返す。そしたら今度こそあなたに、友達になれるかどうか
シャルはふんと鼻で笑って、背を見せた。彼の背で月光を
夜空を見あげて、彼はうそぶく。
「月が綺麗だな」
◆ ◇ ◆
──しくじった。
シャル・フェン・シャルは月に目を向けながらも、背後に横たわっているアンの気配を感じていた。
だが、
妖精狩人の手に落ちて、人から人に売られて。
シャルは常に、使役者を殺して、
しかしそれは、容易ではなかった。人間どもは
レジントンの
しかし戦士妖精を求めてくる客は、どいつもこいつも抜け目なく、冷酷そうだった。だから客が妖精商人と
今日は、どんな客が来るだろう。間抜けが来ればいい。そう願いながらぼんやりと座っていると、ふと鼻先に甘い
目をあげると、麦の
その少女が、戦士妖精を買いたいと言い出した。
アンが彼を買うと決めた
妖精をお友達のように扱う、お友達になろうと、なにやら子供っぽい
しかし思いのほかアンは
羽を盗もうとしたのだ。羽を痛めつけられるくらいの
だがアンは、罰を
不思議だった。何を考えているのか、わからない。しかし。
──何を考えているにしても、
これほど甘い小娘ならば、チャンスは山のようにあるだろう。焦ることはない。
七十年近く、人間に
ふとまた、甘い香りを感じた。ちらりと背後を見る。確かにアンの髪や指先から、その香りはする。思い出を
シャルは無意識に、指を
──リズ……。
背後で、アンが
背中ごしに、ちらりとアンを見る。彼女は目を閉じていた。
『ママ、お願い。どこへも行かないで!』
先刻、アンはそう叫んで目を覚ました。そのことに、ふと疑問を感じる。
──こんな小娘一人、旅をさせて。母親は何をしている?
シャルの指を
その感触が、なぜかくっきりと心に残った。
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