一章 かかしと妖精

 正面から太陽がのぼる。生まれたてのの光は、やわらかく白いアンのほおを、明るく照らした。

 ぎよしやだいの上で、アンはづなにぎった。綿めんのドレスのすそから、すうっと冷たい風がきこんだ。質素ながらも清潔な裾レースが、わずかにれる。

 深呼吸して空を見あげた。

 昨夜ゆうべの雨が、大気のちりを洗い流したらしい。秋の空は、高くんでいた。

 今日は旅立ちの日だ。手綱を両手で握りしめ、前方を見つめる。

 道はぬかるみ、馬車のわだちがいくつも盛りあがっていた。

 自分は今から、この道を一人で歩き出す。不安ときんちようは、せた体いっぱいに広がっている。

 だがわずかな希望も、胸に感じる。

 その時だった。

「アン!! 待って、アン」

 背後から声がした。

 アンが乗る箱形馬車の背後には、ぼくな石造りの家々が点在している。ハイランド王国北西部に位置する、ノックスベリー村だ。この半年、世話になった村だ。

 アンは生まれてからずっと、母親のエマと二人で、旅から旅の生活をしていた。そのために半年もの間、同じ場所にとどまったのはノックスベリー村がはじめてだった。

 その村の方から、きんぱつで背の高い青年がけてくる。ノックスベリー村で砂糖菓子店を営むアンダー家の一人息子むすこ、ジョナスだった。

「わっ、やば!」

 首をすくめ、アンは馬にむちを当てた。馬車が動き出すと、背後に向けて手をふった。

「ジョナス! ありがとう。元気でね!」

「待ってくれ。アン。待って! 僕がきらいなの!?」

「そういう問題じゃないから──、気にしないで──」

 大声を返すと、息切れしながらジョナスがさけぶ。

「じゃあ、じゃあ、待ってくれよ!!」

「もう、決めたから。さよなら!」

 二人のきよは、みるみるはなれる。ジョナスはじよじよに歩調をゆるめて、立ち止まった。息を切らしながら、ぼうぜんとこちらを見つめる。

 アンは今一度大きく手をふり、再び前を向いた。

「見守っていて……ママ」

 今年の春先。元気と陽気がとりえだったエマが、病にたおれた。

 そしてその時、たまたまとうりゆうしていたノックスベリー村で、身動きがとれなくなった。

 よそ者のアンとエマに、村人たちは親切だった。

 エマの病が治るまで村に逗留するようにと、村人たちはすすめてくれた。ジョナスの一家など、彼女たち親子に半年もの間、ただで部屋を貸してくれた。同業のよしみだったのだろう。

 けれど。エマの病は治らなかった。半月前に、帰らぬ人となった。

『自分の生きる道を見つけて、しっかり歩くのよ。あなたならできる。いい子ね、アン。泣かないで』

 それがエマの、最後の言葉だった。

 そうの手配や、こつきようかいへのまいそう手続きなど。雑務に追われているうちに、かなしみは心の表面をすべるように流れていった。哀しいと思うが、大声を出して泣けなかった。

 エマは今、ノックスベリー村の墓地のすみに眠っている。そう知っていながら、ぼんやりしたもやが心を満たしているように感じるだけだ。

 こまごました雑用が終わったのは、エマが死んで半月後。それと同時に、アンは旅立ちを決意した。

 三日前の夜。アンは世話になったアンダー家の人々に、旅に出ると告げた。

『アン。君が一人で旅を続けるのは無理だよ。君はこの村に残ればいいじゃないか。そして……そうだな。僕のおよめさんになる?』

 旅立ちの決意をしたアンの手を握って、ジョナスはそうささやいた。そしてやわらかな金のまえがみをかきあげると、微笑ほほえみながら、つやのあるひとみでアンを見つめた。

『ずっと、気になっていたんだ。君のこと』

 アンとジョナスは半年、同じ家にきした。だが親しく話をしたことは、ほとんどなかった。そんな相手にきゆうこんされるとは、思ってもみなかった。

 ジョナスの整った顔立ちの中で、青い瞳はとりわけきれいだった。南の国から輸入される、高価なガラス玉のようだ。

 好き嫌いを意識したことのない相手でも、その瞳で見つめられると、まどった。

 求婚されるのが、うれしくないわけはない。しかしそれでもアンは、旅立つことに決めたのだ。

 ジョナスに別れを告げると、ひきとめられると思った。だから早朝、こっそりと村を出ようとした。けれどやはり感づかれたのだろう。ジョナスは追ってきた。

「結婚……」

 ぼんやりと、口に出してみる。まるで自分とは、えんのない言葉に感じる。

 ジョナスは村で、女の子の人気を一身に集めていた。

 彼の家がゆうふくな砂糖菓子店であるということも、もちろん、人気の理由の一つではある。

 ノックスベリー村のような田舎いなかに住んでいても、ジョナスは、砂糖菓子職人のだいばつの一つ、ラドクリフこうぼう派の創始者の血筋にあたる。

 彼は、次期ラドクリフ工房派のおさに選ばれる可能性があるらしい。

 近いうちにジョナスは、派閥の長となるためのしゆぎようで、王都ルイストンへ行くのではないか。村では、もっぱらそううわさされていた。

 砂糖菓子派閥の長といえば、運が良ければ、しやくになる可能性だってあるのだ。

 そんなジョナスは、村のむすめたちからすれば、まさに王子様にも等しい存在だろう。

 それに比べてアンは、十五歳のねんれいにしてはがらだ。瘦せていて、手足が細くて、ふわふわした麦の色のかみをしている。行く先々で「かかし」とからかわれた。

 ついでに言うと、財産といえば古びた箱形馬車一台と、くたびれた馬一頭だ。

 裕福な金髪の王子様が、貧しいかかしに結婚を申し込んだ。夢みたいな話だ。

「まあね。王子様が、本気でかかしにこいするはずないもんね」

 アンはしよう混じりにつぶやくと、馬に鞭を当てる。

 ジョナスはもともとプレイボーイで、女の子には特に優しい。その彼が、アンに結婚を申し込む気持ちになったのは、彼女の身の上に同情したとしか考えられなかった。

 同情で結婚など、いやだった。それに王子様と結婚して、めでたしめでたし──そんなおとぎばなしのおひめ様が、生きがいのある人生だとは思えない。

 ジョナスは嫌いではなかった。だが彼と生きる人生に、りよくを感じない。

 自分の足で生きている実感をみしめる、そんな生活がしたかった。

 アンの父親は、アンが生まれて間もなく内戦に巻き込まれて死んだという。

 けれどエマは女一人、アンを育て、生きてこられた。

 それもこれもエマには、銀砂糖師という、立派な職があったからだ。

 砂糖菓子職人は、ハイランド王国の至る所にいる。しかし王家が最高の砂糖菓子職人と認めた銀砂糖師は、ハイランド国内にごくわずかしか存在しない。

 エマは二十歳はたちの時に銀砂糖師になった。

 銀砂糖師の作る砂糖は、つうの砂糖菓子職人が作ったものとは、比べものにならない高値で売れる。だが田舎の村や町に留まっていては、高価な砂糖菓子はひんぱんに売れない。

 王都ルイストンであれば、たくさんのじゆようがある。だが王都には有名な銀砂糖師が集まっているから、彼らとの競争に勝ちくのは大変だ。

 そこでエマは砂糖菓子を必要とする客を求めて、王国中旅をすることを選んだ。

 たくましくて底抜けに明るいエマが、好きだった。

 旅はこくで危険だったが、自分でかせぎ、自分の足で歩いているごたえがあった。楽しかった。

 ──ママみたいな銀砂糖師になれれば、てき

 昔から、ぼんやりそう思っていた。エマが死に、今後の自分の生き方を決めなくてはならなくなったとき、母親へのと尊敬が、決意となってアンの胸の中にいた。

 ──わたしは、銀砂糖師になる。

 しかし銀砂糖師になるのは、なみたいていのことではない。それもよく知っていた。

 毎年ルイストンでは、王家が砂糖菓子品評会をしゆさいする。銀砂糖師になるためには、その品評会に参加し、最高位の王家くんしようを勝ち取る必要がある。

 エマは二十歳の時その品評会に参加し、王家勲章をじゆされた。そして銀砂糖師と名乗ることを許された。

 砂糖菓子は、砂糖シユガー林檎アツプルから精製される銀砂糖で作られる。銀砂糖以外の砂糖で、砂糖菓子を作ることはない。銀砂糖以上に、砂糖菓子が美しいできばえになる砂糖は存在しないからだ。

 砂糖菓子は、結婚や葬儀、たいかん、成人と、様々な儀式で使われる。

 砂糖菓子がなければ、すべての儀式は始まらないとまで言われる。

 銀砂糖は、幸福を招き、不幸をはらう。甘き幸福の約束と呼ばれる、聖なる食べ物。

 ハイランドが、まだようせいに支配されていた時代。妖精たちは銀砂糖を使って作られた砂糖菓子をせつしゆすることで、寿じゆみようを延ばしたと伝えられている。

 銀砂糖で作られた美しい砂糖菓子には『形』という、神秘のエネルギーが宿るというのだ。

 人間が銀砂糖や砂糖菓子を食べても、もちろん、寿命が延びることはない。

 しかし妖精の寿命を延ばす神秘の力を、人間も、受け取ることができるらしかった。

 実際、美しい砂糖菓子を手に入れ食せば、たびたび、時ならぬ幸運がいこむのだ。ちがいなく、幸運がやってくる確率があがる。

 それは人間が数百年かけ、経験から理解した事実だった。

 王国が銀砂糖師という厳格な資格を規定したのも、そんな事実があるからこそ。

 おうこう貴族たちは、最も神聖で美しい砂糖菓子を手に入れ、自分たちに強大な幸福を呼びこみたいのだ。国のあんねいいのる秋の大祭のおりには、砂糖菓子の出来不出来で、国の行く先のきつきようが決まるとさえ言われる。

 今年も例年どおり、秋の終わりに、ルイストンで品評会が開催される。

 アンはそれに参加するつもりだった。

 毎年たった一人にしか許されない、銀砂糖師のしようごうだ。

 現在国内にいる銀砂糖師は、エマがくなり二十三人だと聞いている。

 簡単になれるものではない。

 だが自信はあった。だてに十五年、銀砂糖師の仕事を手伝ってないつもりだ。



 左右に小麦畑が広がる道を、馬車は進んだ。

 日が高くなるころに、ノックスベリー村の周辺で最も大きな町、州都レジントンにとうちやくした。

 レジントンは、円形の広場を中心にして放射状に広がる城下町だ。高台には、レジントン州を治める州公の城があり、レジントンの町を見おろしている。

 町中をゆっくりと馬車で進んでいくと、目の前に人だかりができていた。

 人だかりのために、道はふさがれている。

 かたをすくめて、ぎよしやだいを降りた。こちらに背を向けている農夫の肩を、軽くたたく。

「ねぇ、ちょっと。みんな、なにしてるの。道、ふさがってて馬車が通れないんだけど」

「いや……通ってもいいんだが。おじようちゃん。あんたあれをっ切る勇気があるか?」

「あれって?」

 農夫のわきの下をくぐるようにして、アンは人々が見ているものをのぞきこんだ。

 どろのぬかるみの中に、くつきような男の姿があった。背に弓をくくりつけ、こしにはちようけんをさげている。かわのブーツをはき、毛皮のベストを着ている。かりゆうどだろう。

「こいつ、この性悪め!!」

 狩人は声をあらげながら、何度も何度も、泥の固まりを踏みつけている。泥の飛沫しぶきがあがる。泥の固まりは踏まれるたびに、ギャッと声をあげる。

 よく見るとその泥の固まりは、人間のてのひらほどの大きさで、人の形をしていた。うつぶせているその背中からは、泥をはじくはんとうめいうすい羽が一枚生えている。

「あれは、妖精!? なんてひどい!」

 アンが小さく悲鳴のような声をあげると、農夫がうなずく。

 妖精は、森や草原に住む人間に似た生き物だ。大きさも姿も様々で多くの種類がいるが、背中に二枚の、半透明の羽があるのがとくちようだ。

 妖精にはとくしゆな能力があり、うまく使えきすれば、様々な仕事をさせることができる。

 王族や貴族、たちは、目的により、たくさんの妖精を使役していると聞く。

 しよみんでも中流の家庭には、家事を手伝わせる妖精が一人くらいいるものだ。

 ノックスベリー村のジョナスの家にも、掌くらいの大きさの、キャシーという名の妖精がいた。キャシーはジョナスの身の回りの世話をしたり、砂糖菓子の仕込みの手伝いをしていた。

「あの妖精狩人が使役してる、労働妖精だ。自分の片羽をぬすんで、げようとしたんだよ」

 農夫は声をひそめ、妖精狩人をそっと指さした。

 妖精狩人の手には、薄い羽がにぎられていた。泥まみれの妖精の背にある羽と、ついになっていた一枚だろう。

 妖精を使役するために、使役者は妖精の片方の羽をもぎ取り、身につける。

 羽は、妖精の生命力の源だ。羽が体からはなれても、妖精は生きていられるという。だが羽が傷つけられると、すいじやくして死ぬ。

 人間にたとえるならば、羽は心臓だ。だれしも心臓をわしづかみにされていれば、きようにおののく。心臓を握る者には、逆らえなくなる。

 だから使役者は、片方の羽をもぎ取ることで、妖精を意のままに動かせるのだ。

 しかし妖精とて、れいでいたいわけはない。使役者の目を盗み、自分の羽を取りもどして逃げようとする者は多い。

「いくら妖精でも、あの仕打ちはひどい」「あの妖精、死ぬぞ」と人々はささやきながらも、だれ一人動かない。

 アンはとなりの農夫や、周囲の男たちを見あげた。

「ちょっと、みんな! あんなひどい真似まね、とめなくていいの!?」

 しかし周囲の者は、自信なさそうに視線をそらす。

 農夫が弱々しく呟く。

可哀かわいそうだが。妖精狩人は、しようが荒い。仕返しがこわいし……それにあれは、妖精だ……」

「妖精だからって、なに!? ぐずぐずしてたら、あの子死んじゃう。いいわ、わたしが行く!」

 アンは農夫を押しのけて、一歩み出した。

「おい、お嬢ちゃん。あんたみたいな子供が、やめとけって」

「子供じゃないわ。わたしは十五歳。この国じゃ女の子は、十五歳から成人でしょ。わたしは立派な大人。ちゃんとした大人なのに、なぶり殺される妖精を見殺しにしたなんて、一生自分をじるわ。じようだんじゃない」

 アンはしゃんと背筋をばし、ずんずんと妖精狩人の方へ歩いていく。

 妖精狩人は興奮しているのか、アンに気がつかない。妖精をブーツの底に踏みつけたまま、手にした妖精の羽を両手で握る。

「おまえの羽なんぞ、こうしてくれる」

「やめろよ、このやろう! やめろ!!」

 妖精はそれでも勇ましく、小さな手足をばたばたと動かして、泥をねあげた。キンキンした、かんだかい声でる。

 しかし妖精狩人の手はようしやなく、羽を引きしぼった。

 妖精は泥の中で悲鳴をあげる。

ぬす妖精なんぞ、殺してやる」

 羽を引きちぎろうと、妖精狩人の手に力がこもったしゆんかん、アンは妖精狩人の背後に立っていた。腰を落として、構えた。

「ちょっと、失礼!!」

 声とともに、ドレスのすそがぱっと撥ねる。アンは、妖精狩人のひざうらを片足で強くり飛ばした。アンのとくわざ、必殺、膝カックン。

 油断しきっていた妖精狩人は、がくっと膝が折れる。体のきんこうくずした。口を「お」の形に開いたまま、泥の道に顔からたおれこむ。

 うまたちがどっと笑うのと同時に、ブーツの底から解放された妖精が、ぴょんと跳ね起きた。アンは男の頭を飛びえると、彼の手からばやく妖精の羽をもぎ取った。

「てめぇ!!」

 妖精狩人がわめきながら、泥まみれの顔をあげる。

 アンは軽く飛び退いて、ぼうぜんと立ちつくす妖精に、取り戻した羽を差しだした。

「ほら。これ。あなたのでしょう」

 はっとしたように、妖精は羽をひったくった。泥にまみれた顔の中で、青い目だけは異様にぎらついて光っている。妖精はアンを見あげると、

「ケッ! 人間に、礼なんか言わないからなっ!!」

 き捨てるように言うと羽をかかえ、野次馬の足もとをけた。わっと声をあげて道をあける人々をしりに、妖精はしつぷうのような速さで町外れに向かって姿を消した。

 アンは肩をすくめる。

「まぁ、ね。わたしも、にくい人間の仲間だもんね」

「どうしてくれるむすめ!! 大事な労働妖精を、逃がしやがったな!!」

 ごついあごから泥水をしたたらせ、喚きながら妖精狩人が立ちあがる。

 アンはようせい狩人に向きなおり言った。

「だっておじさん、あの妖精を殺すつもりだったんでしょう。それなら、いなくなるのと同じじゃない?」

「なんだと!?」

 いきり立つ妖精狩人は、うでをふりあげた。

 しかし彼らを取り囲んだ野次馬が、いつせいに非難の声をあげる。

「だいの男が、そんな子供に手をあげるのか!?」

「その子の言うとおりだろうが!」

「あんた、ちょっとばんすぎるよ!!」

 野次馬の非難を受けて、男はひるむ。アンはおくすることなく、まっすぐ男を見あげる。

 低くうめくと、妖精狩人はあげた手をおろした。

「ありがとう。おじさんがやさしい人で良かった。こんな優しいおじさんなら、これからは妖精にも、優しくしてくれるよね。よかった!」

 いやみたらしくにこりと微笑ほほえみかけると、妖精狩人はおこっているような笑っているような、なんともいえない表情になった。

 アンは「じゃあね」と軽く妖精狩人にあいさつして、やんやとめそやす野次馬の間を抜けて馬車の御者台に戻った。ふんぜんつぶやく。

「まったく、頭に来る。ひどいことしすぎよ。妖精だからって、なんだっていうのよ」

 妖精は姿こそ、少し人間とちがう。だが感情と意思を持ち、人語を話す。人間と変わらないとアンは思う。そんな人々を奴隷のように使役することに、良心が痛まない方がどうかしている。

 だからエマも、けして妖精を使役しなかった。

 妖精を使役しない。それがエマとアンの信条だった。だが───。

 アンはふと、暗い表情になる。

「……でも。……わたしもこれから……ひどいことするんだよね……」

 アンは再び、馬にむちをくれて馬車を進めた。

 町の中心部に来ると、遊んでいる数人の子供を呼び止めてぜにわたした。そしてしばらくの間、馬車を見張ってくれるようにたのんだ。子供たちは、快く引き受けてくれた。

 馬車を降りると、円形広場に向かう。

 広場には、テントが不規則に並んでいる。

 テントは、布にじゆうったものだ。独特のあぶらくささがある。そのテントの下には、食材や布や銅製品など、様々な品物が並べられている。市場だ。人でごった返している。

 つんとっぱくて甘いかおりで鼻をくすぐるのは、温めた葡萄ぶどうしゆを飲ませるテント。秋から冬にかけての、市場名物だ。

 かたれあうほど混雑した市場を通り抜けると、人通りの少ない場所に出た。

 そのいつかくかんさんとしていた。店はかなりの数出ているが、客がきよくたんに少ない。

 近くのテントに目をやる。

 つたを編んだかごが、テントの横木につるされていた。籠の中には、てのひらだいの小さな妖精がいる。背には、はんとうめいの羽が一枚。籠はずらりと、五、六個も並ぶ。籠の中に座る小さな妖精は、うつろな目でこちらを見ていた。

 そのとなりのテントには、子犬ほどの大きさの、毛むくじゃらの妖精が三人。首輪でくさりつながれていた。背には透明な羽が一枚きり、しおれたようにぶらさがっている。毛むくじゃらの妖精たちは、歯をむき出してアンをかくした。

 ここは妖精市場だ。

 妖精かりゆうどは、森や野原で妖精をり、妖精商人に売る。妖精商人はその商品となる妖精の片羽をもぎ取り、適当な値段をつけ、妖精市場で売りさばく。

 王都ルイストンへ向かうつもりならば、レジントンを経由すると少し遠回りになる。にもかかわらずこの町に立ち寄ったのは、この町の市場に、妖精市場がへいせつされていると知っていたからだ。

 アンは近くのテントに近寄ると、妖精商人に声をかけた。

「ねぇ。戦士妖精は、売っていないの?」

 すると妖精商人は首をふった。

「うちはあつかってねぇよ。そんな危なっかしいもの」

「じゃあこの市場で、戦士妖精を扱っている人を知らない?」

いつけんだけあるぜ。あっちのかべぎわのテントにいるじいさんが、扱ってるけどな。やめときなおじようちゃん。ありゃ、不良品だ」

「そうなの? まあ、とりあえず行ってみる。ありがとう」

 礼を言うと、歩き出す。

 妖精商人は妖精を、その能力や容姿によって売り分ける。

 大半の妖精は労働力として、労働妖精としようして売る。

 外見が美しいものめずらしいものは、観賞用として、あいがん妖精と称して売る。

 特にきようぼうなものは、護衛や用心棒に使えるので、戦士妖精と称して売る。

 アンは戦士妖精を買うために、妖精市場に来たのだ。

 これからアンは砂糖品評会に参加するために、ルイストンへ行く。

 ノックスベリー村やレジントンがある王国西部から、ルイストンへ続くかいどうは、ブラディ街道と呼ばれる。危険な街道だ。街道沿いにはれ地が続き、宿場町や村が存在しない。土地が貧しいために、食いめたすえにとうぞくとなるやからも多く、またじゆうも多い。

 エマとて、旅を続ける道中にはけて通った街道だ。

 南にかいして、安全な街道を選んでルイストンに向かう方法もある。

 しかしそれでは、今年の品評会には間に合わない。

 アンはどうしても、今年の品評会に間に合いたかった。それはひどく感傷的な理由からだった。自分でもわかっていた。けれど、その感傷的な理由にすがり、なにか目の前に目標をかかげていなければ、足もとがぐらつきそうだった。

 ──絶対今年、銀砂糖師になる。わたしは、決めたんだから。

 ぐっと視線をあげる。

 ブラディ街道を行くには、護衛が必要だ。

 けれど残念ながら、しんらいできる護衛はなかなか見つからないものだ。

 そうなるとせんたくは、戦士妖精しかない。妖精は、羽を持っている主人に逆らえない。護衛としては、最も信頼できる。

 今年、銀砂糖師になりたいという大きな望み。そのためにアンは、「妖精を使えきしない」という信条を曲げようとしていた。

 教えられた辺りに来ると立ち止まり、ぐるりと見回す。

 どこのテントで、戦士妖精が売られているのだろうか。

 左のテントには、掌大の妖精が、籠に入れられてり下げられている。労働妖精として売られているのだろう。

 右のテントには、小麦のつぶのように小さな可愛かわいらしい妖精が、ガラスびんに入れられて、たくの上にいる。あの大きさでは労働力にはなるまいから、愛玩妖精だろう。子供が玩具にして遊ぶために売られているのだ。

 そして正面の、つきあたりにあるテント。そのテントの売り物は、妖精一人だけだった。

 テントの下になめしがわしきものかれ、妖精がその上にかたひざをたてて座っている。足首に鎖が巻かれ、地面に打ち込んだ鉄のくいに繫がれている。

 その妖精は、アンよりも頭二つ分ほど上背がありそうな、青年の姿だ。

 黒のブーツとズボンをはき、やわらかなうわを着ている。黒で統一された装いは、妖精商人が、商品価値を高めるために着せたものだろう。妖精の容姿がきわだつ。

 黒いひとみに、黒いかみするどふんがある。の光にさらされたことがないようにすら見える白いはだは、妖精のとくちようだ。

 その背に、半透明の柔らかな羽が一枚ある。まるでベールのように、敷物の上にびている。

 れいな容姿をした妖精だった。そこはかとなく、品も感じられる。

 これは愛玩妖精に違いない。貴族のご婦人が、観賞用に高値で買い求めそうだ。

 さらりと額にかかる前髪の下で、妖精は目をせている。まつげに、午後のけだるい光がおどる。

 その姿を目にしただけで、背がぞくりとするような、快感めいたものすら感じた。

 ──綺麗なんてものじゃない……。

 その長い睫に引き寄せられて見つめていると、ふと妖精が顔をあげた。

 目があった。妖精は、アンをまっすぐ見つめた。

 何か考えるように、妖精はしばらくまゆを寄せていた。が、すぐになつとくしたように、呟いた。

「見覚えがあると思ったら、かかしに似てるのか」

 そして興味をなくしたように、ふいと、アンから視線をそらした。

「し…し、失礼な……花盛りの、としごろの女の子に向かって」

 妖精の独り言に、アンはにぎこぶしを固めた。

「盛りも、たかがしれてる」

 そっぽをむきながらも、ようせいがずけっと言った。

「なんて言いぐさ──!?」

 その失礼な妖精を売っているのは、妖精商人の老人だ。テントの横でたばこをかしていた。

 アンが眉を吊りあげているのを見ると、妖精商人は、やれやれといったふうに口を開いた。

「悪いね、お嬢ちゃん。うちの商品は、口が悪い。通りがかりの人間に、だれかれかまわず悪態をつくんだ。気にせず、行ってくれ」

「気にするわよ! 余計なお世話かもしれないけど、こんなに口が悪くちゃ、愛玩妖精としては売れないわよ、きっと! 売るのをあきらめて、がしてあげたら!?」

「こいつは愛玩妖精じゃねぇよ。戦士妖精だ」

 アンは目を丸くした。これが教えられた、戦士妖精を売るテントだったらしい。

 だが信じられなかった。

「戦士妖精!? うそでしょう? どうみても、愛玩妖精として売られるほうがとうだわ。わたし、戦士妖精を見たことあるけど。ものすごく大きくて、岩みたいにごつかった」

「これも戦士妖精さ。こいつを狩るのに、妖精狩人が三人も死んだってほどの、いつぴんだ」

 しんもあらわな表情で、アンはうでみした。

「さっきのおじさんが、不良品だって言ったわけよね。戦士妖精って言うけど、実は口の悪い愛玩妖精を売るために、戦士妖精だって言い張ってるだけじゃないの?」

「妖精商人は信用が第一だ。噓はつかねぇ」

 アンは、妖精に視線をもどした。

 妖精は再び、アンを見ていた。なにがおもしろいのか、うすわらいをかべている。

 不敵な表情だ。確かに、おとなしい妖精には見えない。なにかやらかしそうな雰囲気はあるが、だからといって戦士妖精として役に立つほど、強そうにも見えない。

「わたし、戦士妖精が欲しいんだけど……この人以外、いないの?」

 くと、妖精商人は首をふった。

「戦士妖精は、扱いがむずかしい。一度にいつぴきしか扱えないさ。わしが売っているのは、こいつだけ。ついでに言うと、この妖精市場で戦士妖精を売ってるのは、わしだけだ。六十キャロン北のリボンプールに行けば、戦士妖精を売ってる妖精商人が、もう一人いるがね」

「リボンプールまで遠回りしてたら、品評会に間に合わない」

 親指のつめんで、アンはうなった。

「こら。かかし」

 ふいに、妖精が口を開いた。アンはキッと妖精をにらんだ。

「かかしって、この、花もじらう十五のおと。ワタクシのことかしら!?」

「おまえ以外に、だれがいる。ぐずぐず迷うな。俺を買え」

 いつしゆん、アンはぽかんとした。

「……買えって……め、命令……?」

 妖精商人もおどろいた表情をしたあとに、腹をかかえて笑いだした。

「こりゃ、いい! こいつが自分を買えなんぞと言ったのは、はじめて聞いた。このお嬢ちゃんにひとれでもしたか? どうだい、お嬢ちゃん。こりゃあ買うしかねぇだろう。大特価で百クレスだ。この口の悪ささえなけりゃ、愛玩妖精として売りたいくらいだからな。愛玩妖精なら三百クレス出しても、欲しいってやつはいるはずだ」

「口が悪くなけりゃの話でしょ~」

 しかし妖精商人が提示した金額は、確かに安かった。戦士妖精や愛玩妖精は数が少ないので、高価なのだ。百クレスは金貨一枚。それで戦士妖精が買えるのは、破格の安値だ。

「ねぇ、あなた。自分から買えって言うからには、戦士妖精として自信があるの?」

 訊くと、妖精はちらりと目を光らせてアンを見あげた。

「俺に、なにをさせたい」

「護衛よ。わたしはこれから、一人でルイストンへ行くの。その道中を守って欲しいの」

 妖精は、自信ありげにしようする。

「わけない。ついでにサービスで、キスくらいしてやってもいい」

「そんな高飛車なサービス、いらないわよ! しかも大切なファーストキスを、サービスなんかでうばわれたら、たまったもんじゃない」

「お子様だな」

「悪かったわね! お子様で!」

 できるならば、もっと真面目まじめでおとなしそうな戦士妖精がいいに決まっていた。しかし、リボンプールまで遠回りしている時間はない。アンは決断した。

 ──仕方ない!! 多少、口が悪くたって、ぜいたく言ってられない。

 ドレスのポケットにっ込んであった、あさぶくろを取り出す。その口を開き、銅貨の中にまぎれたゆいいつの金貨を握る。

「おじいさん。この妖精、買うわ」

「へへ、思い切ったね。おじようちゃん」

 商人は黄色い歯を見せて笑った。アンが金貨を差し出すと、妖精商人はその金貨をとっくり検分して受け取った。そして首にかけていた小さなかわぶくろをはずす。

「じゃあ、羽をにんかくしな」

 妖精商人は小さな革袋の口を開けると、中からてのひらほどの大きさにたたまれた、とうめいな布のようなものを取り出す。そのはしを持って一ふりすると、たたまれていたものがはらりと広がる。

 アンのたけほどもある羽が、目の前に現れた。

 光線の加減によって、七色の光をはじく半透明の羽は、れるのがためらわれるほど美しかった。折りたたまれていたにもかかわらず、布のように、しわやよれがない。手を伸ばしてそっと触れると、絹に似たかんしよくがした。そのなめらかさに、ぶるりとふるえがくる。

「これが、彼の羽?」

「そうさね。証明してやろうか」

 言うなり妖精商人は、羽の端となかほどを握ると、引きしぼるように力を込めた。そのたん、テントの下にいた妖精がうめいた。

 妖精は体を抱えるようにして、全身をこわばらせていた。歯を食いしばる。

「やめて!! わかったから、やめて!!」

 アンの言葉に、妖精商人は力をゆるめた。

 妖精の体から力がけ、地面に片手をつく。彼は顔をあげると、妖精商人をぎらりと睨む。

 妖精商人は羽を折りたたみ、元の袋に戻すとアンにわたした。

「これをはだはなさず、首にかけるんだ。とにかく、気をつけなよ。この袋があんたの手から離れたら、妖精は、なにをしでかすかわからねぇよ。わしのしりあいで、使えきしていた戦士妖精に羽を取り戻されて、殺された男がいる。戦士妖精はきようぼうだ。凶暴だから、戦士妖精として売れるんだ。羽を取り戻したら、ただ逃げ出すだけじゃすまねぇ。使役者を殺す可能性が高い」

「でもねむるときとか、どうすればいいの? くびかれたりしないの?」

「眠るときは必ず、羽を服の下にかくして、いてるんだ」

「それで、平気?」

「考えてみな。自分の心臓を、わしづかみにしている相手だ。殺したひように、そいつがギャッと力を入れて、心臓を握りつぶされたら……。特に妖精の羽はもろいからな。こわくてめつ真似まねはできねぇ。羽を握られてるってことは、妖精の本能にうつたえるおそろしさだからな。今のこいつの苦しみようを、見ていたろう」

 確かにあの苦しみかたを見れば、おいそれと手出しはできないと思える。

 相手をきようと苦痛で支配することを実感し、妖精を使役することへのゆううつかんが増した。

「気をつけなよ。特にこいつは、今まで買われようとするたびに、この顔から想像もつかねぇ悪態をきまくって、客をおこらせて売れ残ってるような奴だ。こいつがお嬢ちゃんに買われようとしてるのは、なんの気まぐれかしらねぇが、せきだ」

「この人、そんなにやつかいなの!?」

「買うの、やめるかね?」

 アンは少し考えたが、首を横にふる。

「リボンプールに行く時間は、ないもの。買うわ」

「なら、いいかね。羽は、気をつけてあつかうんだ。こいつに絶対、取られないようにしな」

 アンがうなずくと、妖精商人は、妖精の足からくさりを外しにかかる。

 妖精はやいばのような薄笑いを浮かべて、妖精商人にささやく。

「待ってろ。いつか、殺しに来る」

「そりゃあ、いいな。楽しみにしているよ」

 ぶつそうあいさつを受け流すと、妖精商人は鎖を外した。

 妖精は立ちあがった。長身だった。を受けてにじいろかがやく羽が、ひざうらまでびている。

「とりあえず。わたしは、あなたを買ったから。よろしくね」

 アンが言うと、妖精はれいな顔で微笑ほほえんだ。

「金貨を持ってるとは、景気がいいな。かかし」

「かかしって呼ばないで! わたしは、アンよ」

 アンとようせいのやりとりを聞いて、妖精商人は不安そうな顔をした。

「お嬢ちゃん、本当にこいつを使役できるのかい?」

「使役できるさ。なあ、かかし?」

 と、答えたのは当の妖精だ。鹿にしたような顔で見おろされ、アンはさらにった。

「アンよ! アン・ハルフォード! 今度かかしって呼んだら、ぶんなぐるから!」

「……だいじようかね」

 妖精商人のつぶやきに、アンは妖精を睨みながら、鼻息もあらく答える。

「ええ! 大丈夫よ。心配しないで、おじいさん。さあ、あなたはいつしよに来て」



「ねぇ、あなた名前は?」

 ぎよしやだいの上から馬にむちを当て、アンはとなりに座る妖精に訊いた。

 妖精はもてあましぎみに長い足を組んで、腕組みし、御者台の背もたれにもたれかかっている。ふんぞり返っていると言っていい。あくせく馬をあやつるアンと妖精と、どちらがえらそうかと言えば、妖精のほうが百倍偉そうだった。

 妖精はめんどくさそうに、ちらりとアンを見た。

「聞いてどうする」

「だってあなたのこと、どう呼べばいいかわからないじゃない」

「トムでもサムでも、人間流の好きな名前で呼べばいい」

 妖精を使役する時は通常、使役者が妖精に名前をつけるものだ。しかしアンは、それがいやだった。自分の本当の名前を呼ばれないのは、くつじよく的だと思うからだ。

「わたしだったら、自分の本当の名前で呼んでもらいたいわ。あなたも、そうじゃないの? 勝手に名前をつけて呼ぶなんて、したくないの。だから、あなたの名前を教えて」

「どう呼ばれようが、関係ない。くだらないことをくな。勝手に名前をつけて、勝手に呼べ」

 妖精は、そっぽを向く。アンは彼の横顔をちろりと見て言った。

「じゃ、カラスって呼ぶけど?」

 さすがに妖精も、ものすごくいやそうな顔をしてアンを見た。

「かかしの仕返しか?」

「そうよ。カラスさん」

 妖精はまゆをひそめた。そしてしばらくのちんもくの後に、ぽつりと言った。

「シャル・フェン・シャル」

「それが名前?」

 訊くと、頷いた。アンは微笑んだ。

「綺麗な名前ね。カラスより、ずっとてき。シャル・フェン・シャルって、どこが名前で、どこが名字なの?」

「全部が名だ。人間のような、せいと名の区別はない」

「そうなの? でもシャル・フェン・シャルって長すぎるから……、とりあえずシャルって呼ぶけど。それでいい?」

「好きなようにと、言ったはずだ。おまえは、俺の使役者だ」

「まあ……そうだよね」

 あらためて妖精の口から言われると、気持ちのよいものではなかった。自分はれいを買って使役しようとしているのだという、罪悪感が強くなる。

 アンが操る箱形馬車は、レジントンの町を抜けた。ブラディかいどうへ向けて歩を進める。

 しゆうかく直前のたわわに実った小麦畑が姿を消して、まばらな林が、道の左右に姿を見せ始めた。

 ブラディ街道に近づいたのを感じながら、アンは口を開いた。

「わたし、護衛をしてもらうために、シャルを買った。けど一つ、約束する。ブラディ街道を抜けて無事にルイストンにとうちやくしたら、シャルに羽を返す」

 それを聞き、シャルはしんげにアンを見た。

「俺を解放すると言ってるのか?」

「そうよ」

 するとシャルはいつしゆんおどろいたような顔をしたが、すぐにのどの奥でくっくっと笑いだした。

「金貨で買った妖精を、がす? そんなおめでたい人間、いるのか?」

「おめでたいってのは、失礼ね。わたしはただ、人間は、妖精の友達になれると思ってるの。友達になれるかもしれない人を使役するなんて、いやなの。わたしはしんらいできる護衛が今すぐ必要で、仕方ないからシャルを買った。でも必要がなければ、使役したくない。もちろん、ほかの人間に売ったりするのもいや。だから羽を返すの。こうやってわたしの旅につきあってもらう間も、できればつうの友達みたいにしたいの」

「友達? なれるわけがない」

 冷えた言葉に、アンはため息をついた。

「そうかもしれないけど……。これはただ、ママとわたしの理想。でも理想だ、夢だってだれも実行しなければ、いつまでっても理想のままよ。だからわたしは、実行するわ」

「それほどのかかし頭なら、その馬鹿さ加減を、ルイストンに到着したら証明しろ」

「かかしって呼ぶなって言ったでしょう!?」

 アンの平手が飛んだが、シャルはそれを軽くかわした。アンはくやしくて、したくちびるむ。

「あなた、そこまで馬鹿にしてるわたしに、なんで自分を買えなんて言ったの。わたしなら、馬鹿にしている相手に使役されるなんて、まっぴらごめんよ」

「人間なんぞ、どれも同じだ。それならけに使役されたほうが、俺も楽だ。おまえはここ数年目にした中で、だんとつに間抜けそうだった」

「……なんだか……あなたと話してたら、とことん気分がってくるわね……」

 シャルが売れ残っていたわけが、よくわかった。

 護衛にこれほど悪態をつかれたのでは、守られている方もたまったものじゃない。

 そでぐちのレースをらす風が、急に冷たくなった。

 アンは前方に、石ころの多い、れた街道が延びているのを認めた。それがブラディ街道だった。馬車はゆっくりと街道に入った。

 車輪が石ころをみ、背の高い箱形の荷台は、しんどうで大きく左右に揺れる。

 空の色はんでいたが、空気は冷えている。ブラディ街道の周辺は高い山脈に囲まれており、山脈からき下ろしてくる風は、高地の冷気を運んでくるのだ。

 わたす限り、かわき色づいた草葉が鳴るこうだ。

 まばらな林はあるが、土地がせているのは一目りようぜんだった。

 ブラディ街道沿いには、村や町が存在しない。しかし街道がつらぬいている各州の州公たちが、自州を通過する部分をそれぞれ管理している。

 管理といっても、とうぞくの取りまりや、じゆう対策をしてくれるわけではない。州公がやることは、たった二つ。

 一つは、年に一度、街道が植物にしんしよくされないように手を入れること。

 二つめは、旅人が野営するための、宿しゆくさいと呼ばれる簡単なとりでを造ること。

 ブラディ街道は危険だが、それでも街道として機能しているのは、州公がこの二つのことを実行しているおかげだった。

 アンは王国全土のしようさいな地図を持っていた。旅には不可欠なもので、エマはことに地図を大事にした。新しい情報は地図に書き加え、地図の情報を常にこうしんしていた。

 王国西部さい地図を取り出して、近場の宿砦の位置を確かめた。そしてかたむきはじめると、その宿砦を目指して急ぎ、なんとかにちぼつまでにはたどりつけた。

 宿砦は、石を積んだ高いかべを、真四角にめぐらしただけの砦だ。屋根はない。門の部分にはくさりで操作する、上下式のてつがある。草のしげる内部は広く、ゆうに馬車五台が入る。

 要するに旅人はへいの中に逃げ込んで、盗賊や野獣から身を守るのだ。

 林に囲まれて建つ宿砦に、アンは馬車を乗り入れた。そして鉄のとびらを閉じた。

 半年ぶりに馬車に揺られると、さすがにつかれた。早々に休むことに決めた。

 御者台の下に押しこんである、なめしがわしきものと毛布を二人分取り出す。一つは自分用に、馬車のわきいた。そしてもう一組は、シャルにわたした。

「あなたのる場所、自分で選んで。それを敷いて寝てね。それに夕食はこれよ。少なくて申し訳ないけど、旅でぜいたくできないから」

 さらに葡萄ぶどうしゆを満たした木のカップとりんを一個、シャルに渡す。

 夕食は旅の先々を考えて、けんやくした。

 アンは毛布にくるまると、林檎をかじり、あっという間に平らげた。しんを遠くへほうりながら、葡萄酒を一気にあおった。冷たい苦みが胃の中に落ちると、すぐに熱に変わる。少し耳が熱くなったのを感じながら、敷物の上に丸まった。

 シャルはアンから少しはなれた場所に敷物を敷き、ひざに毛布をけて座っていた。手には葡萄酒のカップを持ち、月を見ている。

 今夜は満月だった。月光が、シャルの顔を照らしていた。

 月光で洗われたようせいは、さらにたんれいさがみがかれていた。つゆれる、宝石のつややかさだ。

 背にある羽も、けたおだやかなうすみどりいろに光る。

 シャルの背にある羽は、もぎ取られたものとちがって、彼の気分によっても色やかがやきがみように変化しているように見える。

 妖精の背にある羽は、温かいのだろうか。冷たいのだろうか。

 しようれてみたくなった。

「妖精の羽って、れいね。さわっていい?」

 訊きながら、手をばしかけた。するとシャルの羽がふるえてビリビリっとわずかに鳴り、続けてばたばたっと二、三度草の上をたたいた。

 はっと手を引くと、シャルのするどい目がこちらを見ていた。

「触れるな。おまえの手にあるもの以外は、俺のものだ」

 その冷たいいかりに、アンは自分が、彼の羽をにぎっていることを思い出す。そして羽は妖精にとって、命に等しい大切なものだということも思い出す。

「ごめん。わたし、けいそつだったね」

 なおに謝り、シャルの横顔を見ながら、胸の前に下げられているかわぶくろひもを握った。

 妖精にとって、羽は命の源。人間にとっての、心臓と同じ。他人の心臓を握り、命令をきかなければ心臓を握りつぶすとおどす。

 アンがやっていることは、そういうことだ。妖精から見れば、あくの所業だろう。

 そっとため息をつく。

 ──こんなこと、やだな。

 こんな真似まねをしないで、シャルにお願いを聞いてもらえないだろうか。

 例えばもし、彼と友達になれれば? そうすれば、彼を使えきする必要はない。彼にお願いして、なつとくしてもらい、彼女の望みのために協力してもらえるだろう。

「ねぇ、シャル。提案なんだけど」

 アンは少し頭を起こした。

「昼間も言ったけど、わたしたち、友達になってみない?」

鹿か」

 切って捨てるように答えると、シャルは顔をそむけた。

 アンはがっかりして、頭を毛布につける。

 ──すぐには、無理かもね。でも誠意を持って接してれば、いつかわかってくれるような気もするし。それにしても、何を考えて月なんか見てるんだろう? 綺麗な目をしてる……。

 まぶたが重くなり、アンはうとうとねむりはじめた。



 心地ここちよいくらやみで、アンは夢を見ていた。

 いつもと変わらない、野宿の風景だった。

 アンは毛布にくるまり、エマは荷台に出入りして、いそがしく働いている。

 目の前にエマの姿を見て、ほっとあんした。安堵したついでに、熱いものがほおに一筋流れた。

『あらあらどうしたの、アン。どこか痛いの?』

「違うの。いやな夢を見たの。ママが死んじゃった、いやな夢」

『馬鹿ね。そんなこわい夢を見るのは、体調がよくないのね。熱をみてあげるわ』

 エマの冷たい指が、そっとアンの首に触れる。その指はほっそりしていて、常に冷たかった。けやすい銀砂糖をあつかう時、指先を水で冷やすからだ。

 その指がたまらなくいとしく、はかなく思えた。アンは思わず、冷たい指を握りしめた。

「ママ、お願い。どこへも行かないで!」



 そうさけんだ自分の声で、はっと気がついた。

 夢を見ていたのだと自覚した。しかしアンが握りしめた冷たい指は、現実だった。息がかかるほど間近に、シャルの顔があった。くろかみが、アンの頰に触れそうだった。

「な、なに!?」

 握っていた指を押し離して、ね起きた。

 ──これはまさか、例の高飛車サービス!?

 シャルはうっすら笑い、身を起こす。そのみは冷ややかだ。

 どうやら、シャル提案のサービスではなさそうだとさとる。

 ──いったい、シャルはなにを……? 彼は、今、首に……。

「今、首に……」

 そこでアンは、自分の首にかけられているかわひもが、えりからはみ出していることに気がついた。その革紐は、シャルの羽を入れた袋をり下げている革紐だ。

「シャル。もしかして……羽を、ぬすもうとしたの?」

「もう少しだった」

 悪びれることもなく、シャルは言った。

「やっぱり、盗もうとしたの? ひどい……」

「なにが?」

「言ったじゃない。わたし、シャルと友達になりたいと思ってたのよ。それなのに」

 アンは、シャルと友達になりたいと思っていた。それなのに。その気持ちを裏切られた気がして、かなしくなる。そのアンの目を見て、シャルはくすりと笑った。

「友達になりたい? 相手の命を握っておいて、お友達か?」

 その言葉に、アンははっとした。

「俺は、おまえに買われた。使役される者だ。友達にはなりえない」

 もしアンが自分の理想を実行しようとするならば、羽を返したうえで、友達になりたいと申しこみ、彼の協力をあおぐ。そうしなければならないはずだ。

 しかし羽を返してしまうのは、正直怖かった。だからアンは友達になりたいと言いながら、相手の命を握りしめていた。我ながら虫がいい。そんな関係で、友達になれようはずはない。

 羽を持っている限り、アンは使役者なのだ。

 シャルは妖精ならば当然そうするように、使役者から羽を取りもどそうとしただけだ。

 裏切られたと思ったり、哀しんだりするのは、おかどちがい。

 油断したアンが、使役者としてけなだけなのだ。

「わたしが、馬鹿なのね」

 軽くため息をつく。アンは自分の気持ちを楽にするために「友達になれればいい」と考えていたにすぎない。自分の身勝手さとおろかさに、気がついた。

「わたしは、ルイストンへ行かなくちゃならない。シャルに羽を返した上で『ルイストンまで守って』ってお願いするような、危険なかけはできない。だからあなたを使役するって心に決めたのに、どこかで甘さがあった。友達になりたいなんて、……馬鹿なことを言ってた」

 アンは目を閉じて深呼吸した。そして再び目を開いた。

「わたしがルイストンに無事にとうちやくできるように、協力してもらえれば羽を返す。そう約束しても、信用できないから盗もうとしたの? それともいっときでも、人間に使役されるなんていやだから、盗もうとした? どっちでもいいけど、これからわたしは油断しないから、そのことは覚えてて」

 無表情の妖精を見あげる。彼は何も答えない。

「ついでに言うと、それでもわたしは約束を守る。ルイストンに到着したら、羽を返す。そしたら今度こそあなたに、友達になれるかどうかくわ。それまで、わたしは、あなたの使役者」

 シャルはふんと鼻で笑って、背を見せた。彼の背で月光をはじく羽は、ざんにも一枚きりだ。

 夜空を見あげて、彼はうそぶく。

「月が綺麗だな」


    ◆ ◇ ◆


 ──しくじった。

 シャル・フェン・シャルは月に目を向けながらも、背後に横たわっているアンの気配を感じていた。きんちようが伝わってくる。この様子では、再び彼女が眠ったとしても、シャルの気配が近づいただけで目を覚ますだろう。今夜は再び、羽を盗むのは無理だ。

 だが、あせっていなかった。

 妖精狩人の手に落ちて、人から人に売られて。

 シャルは常に、使役者を殺して、げ出すことばかりを考えて過ごしていた。

 しかしそれは、容易ではなかった。人間どもはれいこくで、用心深かった。

 レジントンのようせい市場に売り出されてからは、できるだけ間抜けな人間に買われようと努力した。間抜けなやつが買ってくれれば、そいつを殺すか、もしくはそいつの目を盗み羽を取り戻して、逃げ出せるだろう。

 しかし戦士妖精を求めてくる客は、どいつもこいつも抜け目なく、冷酷そうだった。だから客が妖精商人とこうしように入るたびに、できる限りの悪態をついて客をおこらせた。

 今日は、どんな客が来るだろう。間抜けが来ればいい。そう願いながらぼんやりと座っていると、ふと鼻先に甘いかおりを感じた。銀砂糖の香りに似ている気がした。

 目をあげると、麦の色のかみをしたせた少女が、じっとこちらを見ていた。

 その少女が、戦士妖精を買いたいと言い出した。せんざいいちぐうのチャンスだ。

 アンが彼を買うと決めたしゆんかんには、内心笑った。

 妖精をお友達のように扱う、お友達になろうと、なにやら子供っぽいたわごとを口にしているむすめけんを血でよごすまでもない。これならば、簡単に羽を盗めるとんだ。

 しかし思いのほかアンはびんかんで、気づかれた。

 羽を盗もうとしたのだ。羽を痛めつけられるくらいのばつを、受けるだろうと思った。

 だがアンは、罰をあたえなかった。それどころか、ルイストンに到着したら羽を返すことを再度約束し、そしてその後に友達になろうと言った。

 不思議だった。何を考えているのか、わからない。しかし。

 ──何を考えているにしても、鹿だ。

 これほど甘い小娘ならば、チャンスは山のようにあるだろう。焦ることはない。

 七十年近く、人間に使えきされ続けてきたのだ。自由になるのが一日先になろうが、三日先になろうが、かまわない。

 ふとまた、甘い香りを感じた。ちらりと背後を見る。確かにアンの髪や指先から、その香りはする。思い出をげきし、官能をあおるような、銀砂糖の香り。

 シャルは無意識に、指をくちびるに当てた。遠い昔に知っていた甘い感覚。羽をやさしくでられる快感。優しい指。そのかんしよくを背筋に思い出し、我知らずいきれる。

 ──リズ……。

 背後で、アンががえりを打った。それにはっとして、唇から指をはなす。

 背中ごしに、ちらりとアンを見る。彼女は目を閉じていた。

『ママ、お願い。どこへも行かないで!』

 先刻、アンはそう叫んで目を覚ました。そのことに、ふと疑問を感じる。

 ──こんな小娘一人、旅をさせて。母親は何をしている?

 シャルの指をにぎった手は、いかにもたよりなかった。

 その感触が、なぜかくっきりと心に残った。

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