第28話 【三石月数美】享年79歳 その弐

為乙さんと過ごせる日々が急激に減ってきて、とうとうあたしは捨てられてしまうのかと不安になっていたの。


勇気を出して連絡をして、返ってきた答えは、


「子供がもう一人産まれてしばらく会えそうにない」という言葉だったわ。


そう、あたしが居ても奥方様のことも抱いていたのね。


あたしは強がって為乙さんに終わりにしましょうと言って電話を切ったわ。


好きだったのかしら……少しくらいはあたしの事、彼は。


丁度いい関係性だと思っていても、あたしの方が奥さんよりも大事にされていると勝手に優越感に浸っていたことにその時気がついたの。


不倫なんて所詮は他人のまま。


急激に寂しさが込み上げてきた頃、弟が離婚して帰ってきたわ。


そう、結婚しても離婚すれば他人、いいえ、結婚していようが血が繋がっていようが繋がって居まいがあたし以外は他人なのよ。


弟が帰ってきた事で、弟は落ち込んでいて仕事にも行かなくなり、ママはそんな弟に付きっ切りだったわ。


あたしは色んな過去を吹っ切るために、隣の県で一人暮らしを始めたの。


一人になってみて分かったことは沢山あったわ。


ママが血の繋がりのないあたしたち姉弟のために家事をどれだけしてくれていたのか。


家に帰ってきた瞬間の誰の気配もない静かさに。


ごはん一つちゃんと炊くことのできない己の今までの甘えに。


為乙さんとは外食ばかりだったから食事を作ることなんて一度もなかったわ。


家に帰れば当たり前のようにごはんが用意されていて、洗濯もされていたのよね。


赤の他人であるあたしたちの為にどれだけママが寝る間も惜しんで育ててくれたのかがやっと分かった気がしたわ。


愛人をやめたので、家の近くで仕事を探して居た時、色んな求人情報を見て連絡をしていたのだけれど、


いつの間にか若い時間は残酷にも過ぎ去っていて、あたしは40手前になっていたから、なかなか仕事が見つからなくて、少し焦っていたわ。


そのせいか、番号を打ち間違えてしまったの。


「もしもし?」と話し始めると、


「もしもし?どなたでしょう?」と返ってきておかしいな?掛けたのはクリーニング屋さんだったはずなのに……と思い、はっ!として慌てて、


「あ、ごめんなさい番号間違えちゃったみたいです。すみません」と言ったわ。


声の主はとても優しい声で、


「いえいえ、そんなこともありますよね。では」と電話を切ったの。


その後改めてクリーニング屋さんに連絡して軽い面接を受けてすぐに採用していただいたので仕事に精を出していたつもりだったわ。


でも、時折寂しさが募って、自分一人ではどうしようもなくなってまた電車に乗ってしまいたくなるほどだったけど、当時とは違いもう若くもないしと思い悩んだ時に、あの優しい声の主の事を思い出したの。


「先日は間違い電話ごめんなさい。あなたの声があまりにも頭に残ってまた聞きたくなっちゃってかけてしまいました」そう直接言えてしまうほど寂しかったあたしに彼は、


「そんなこと言って貰ったらドキドキしちゃいますよ」と可愛い返事をしてくれたわ。


それから、ほぼ毎日と言っていいくらい電話で話をしていたの。


些細な日々の出来事や彼の姪っ子さんの話を。


話す回数が増えれば増えるほどに、会いたさが募っていったわ。


でも、あたしから会いたいなんて言うのは恥ずかしい。


すると、彼はあたしに会うためにダイエットを始めたと言ってくれたの。


あたしは嬉しくて、そんな彼に早く会いたくて、


「嬉しいけど、私太っちょさんでもあなたのこと嫌いにならないから無理しないでくださいね」なんて言ってしまったわ。


あたしは彼がダイエットを頑張ってくれているならば、料理を頑張ってみようとその日から色んな料理に挑戦してみたのだけれど、あれもこれも一から何も知らないあたしに作れるものなんてせいぜいカレーライス程度。


でも、カレーライスじゃなんだし、色々手を付けても中途半端なものしかできないし、一つの料理を何度も作ってみようと、ホワイトシチューをただただ毎日練習していて、これは美味しく作れるようになった!と自信が持てた頃、


「会いませんか?」と彼から連絡が来たの!


焦らされるように声しか知らない彼に会えると思ったら居てもたっても居られず、


「私も会いたいです。会いに来てくれますか?」と家に呼んでしまっていたわ。


「今すぐ行きます」と彼は車を飛ばして待ち合わせ場所のファミリーレストランの駐車場であたしを見つめて緊張しているような素振りを見せていたの。


つい可愛い!と思って


「くまさんみたいでなんか安心する」と言って抱きしめてしまったわ。


「数美さんなんて綺麗な人なんだ。会いたかったです」そう言ってくれて抱きしめ返してくれた彼はまだ女性を知らなかったわ。


それを聞いてあたしは内心でとても嬉しくて早く彼と結ばれたいと思ってしまったの。


他の女性を知らない、あたししか知らない彼に今までの不毛な関係とは全く違う可能性を感じて、アパートで食事とお酒で少し勢いをつけて、何も知らない彼をあたしが弄り何度も白く温かい愛を勢いよく出しながらも、いつまでも硬いドクンドクンと脈打つような彼を自らあたしの濡れた場所に誘ったわ。


あたしが彼を受け入れたいと思ったのは彼のたった一言


「生きていて良かった」とあたしの料理を口にして言ってくれたからだったの。


親元から離れず何もできず、不毛な不倫関係なんかで大事な若い時間を使い果たした40近いあたしなんかで、生きていて良かったなんて言って貰えてこれ以上嬉しい言葉はないと思っていたのに、


彼は


「数美さん結婚前提で一緒に暮らしましょう」と言ってくれたわ。


恋人も友達も要らない、猫と家族だけ居ればそれでいいと思っていたあたしは結婚なんてきっとしないと思っていたのに、彼ならあたしと結婚してくれる。


彼ならきっと他の女の人を作ったりしない。


そう心から思えて、


「嬉しいです。仕事の関係もあるからここで良ければ来てくれたら私幸せです」とクリーニング屋さんのお仕事もあるし、電車に乗るとまたあたしは踏み外してしまうかもしれないから、彼に来てもらう事にしたの。


彼はどんな仕事をしているのか分からなかったけど、生活費を入れてくれて毎日あたしを抱いてくれて、愛の言葉を恥じらうことなく伝え続けてくれたのに、


彼のためにする家事も大好きだったのに、なぜか突然彼に飽きたわけではないけど、たった一度抱かれる事を体調不良で断った後から、歯車が掛け違ってしまったように、今までの幸せな時間は何だったんだろう?と、


優しくて一途な彼の嫌なところが見えて来るようになってしまったわ。


愛の言葉もお互いに言わなくなってしまって、不安が過ったのよ。


傷つきたくなくて言ってしまったわ。


「私はあんたのお母さんじゃないのよ!出て行ってよ」と。


これは相手を試す言葉でしかなかったの。


だってあたししか知らない男性なんだもの。嫌だ!一緒に居たい!と言って欲しかった。


でも、彼は翌日には荷物をまとめて出て行ってしまった。


なんて事を言ってしまったのかしら。


あたしだけを見てくれていた貴重な人だったのに。


でも、男性は別れたらだいたい3か月もすれば


「最近どうしてる?元気か?」とか打診してくるものよね。


きっとそうに違いないと自分に言い聞かせて、また一人の暮らしに戻ったけど、


彼は何か月経っても連絡して来てくれない。


なんで追いかけてくれないの?そんなにあっさりと離れてしまうものなの?


来ないと言えば、そう、月のものも来ていないことにその時ふと気がついた。


彼への急な感情の変化は妊娠によるものだったの。


どうしよう。彼に連絡しなきゃ。


もう追い出してしまってから何か月も経っているのに、自分の子だと思ってもらえるかしら?


産婦人科に行くと14週目と言われ産むかどうかは早めに判断するようにと言われた。


振るえる手で電話をすると電話に出たのは若い女の人だった。


はっ!として「すみません間違えました」と言って切ろうとすると声の主は


「お兄ちゃんのお知り合いですか?」と言っていたけれど、彼にはお姉さんが居るとは聞いていたけれど妹さんがいるとは言われていないから純粋に間違えたのかと思って、


「いえ、間違えてしまっただけです」と切ってしまった。


その後、改めて番号を確認したけれど、間違ってはおらず、あの若い子はもしかしたら姪っ子さんだったのかもしれないと思いつくまでにしばらく時間がかかってしまったあたしは、お腹の子をどうするか悩んでいた。


すると、電話が鳴って、彼かもしれない!と思ってすぐに出ると、


「あ、久しぶり数美どうだ?元気にしてるか?」と為乙さんからの連絡だったの。


「お子さんはお元気?奥様とも仲良くされている?」と穏やかな仮面を被りながら返事をしたわ。


「俺はやっぱり数美が居ないとだめだ。俺の女に戻ってくれ」と言われた。


「奥さんと別れるつもりはあるの?」と聞くとビックリしたように、


「お前からそんな言葉が出るとは思わなかった……離婚はしない。でもお前が必要だ」


何て都合のいい女扱いを受けているのかしら。


「あたしの若い時を散々無駄にしてくれて、そんな簡単に戻ってくるとでも思っているの?」と聞くと、為乙さんは諦めたように電話を切った。


お腹の中には為乙さんではない彼との子がいる。


為乙さんからは戻ってこいと連絡が来ている。


お腹の中の子のお父さんは何で連絡をくれないのかしら。


さて、あたしはこの子を産むか、堕してしまうのか。


姪っ子さんだったとしても、今度はちゃんと話をしようと、もう一度電話をかけてみた。


「おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上おかけ直しください」


彼の電話番号が変わってしまっていた。


住所、だいたいの場所は聞いていたから近くまで行って、一か八か探してみよう。


随分と大きなお屋敷でアポを取らずに相手していただけるのかしら?と思ってウロウロしていたら、


「あのー」と女の子が話しかけてきたの。


「あ、あたし三石月数美みついしづきかずみと申します。音梨夕愬さんとお付き合いさせていただいていたのですが夕愬さんはご在宅でしょうか?」と聞くと、少女のような彼女はどうぞと屋敷に案内してくれたわ。


そこには真っ白な布に包まれた骨壺と彼の遺影があったの。


「お兄ちゃんは建前上心臓の病気でって事になってるけど、自殺してしまいました」と言われ頭が真っ白になってふらつくあたしを彼女は心配そうに支えてくれたわ。


彼が頑なに語らなかった仕事や家系の事を少しだけ姪っ子さんに聞いて、あたしは今この家にお腹の子の事を言えば、産んでも奪われてしまう恐怖を感じたの。


彼にお線香だけ上げさせてもらって、あたしは帰路について涙を流しながらこの子を産もう、どんな手を使ってでも幸せにしようと心に決めて、為乙さんに復縁の連絡をしたわ。


その頃、お腹はそこまで目立って居なかったから、すぐに為乙さんと肉体関係を持って為乙さんの子が出来たとだけ伝えると認知は出来ないが子供とあたしの生活費は保証すると言ってくれたの。


ズルいのは分かっていたけど早産に見せかけて一人で産んで育て始めたわ。


子供の名前は三石月夕みついしづきゆうと付けたの。


夕は成長していくにつれ、自閉症のようなものがあるように見えたわ。


それでも、あたしはどんなことがあってもこの子を守り切ろうと心に決めて、夕愬さんのことを思い出しながら、援助を為乙さんから貰い続けて、貧しい思いをさせないように、愛情が不足しないようにと大事に育ててきたの。


病院の先生からも自閉症であるという診断が出て、夕は養護学校に通い、大人になった頃には作業所に通所するようになったわ。


あたしはもうすっかり歳を取って、夕の最期をどうしたらいいのかそればかりを考えていたのに、人生は残酷ね。


為乙さんの奥様が亡くなられて、それから5年ほどで為乙さんも亡くなってしまったの。


息子さんたちからは相続に関わらないでくれと言わんばかりの口止め料のようなお金を渡され、途方に暮れそうになったあたしの頭を夕がそっと撫でてくれた。


ふと、見上げるとその顔はまるで夕愬さんが


「生きていて良かった」と言ってくれた時の顔に似ていたわ。


「もうひと頑張りしようか夕!」と言うと、ブンブンと腕を振ってニコニコとしながら「わーあ」と言っている。


「生きていて良かった」ありがとう夕愬さん、為乙さんそして、ママ。


生まれてきてくれて傍に居てくれてありがとう夕。

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