第六十一話 朝の訪問者


 唯の母親である沙織との会話を済ませた拓也は、その場で別れることとなった。

 まだまだ不安なところは残っているし、全てが解決したわけではないが……今の自分にできることは、限界までやり切ったつもりだ。


 も何とか了承はしてもらえたし、あとは本当の意味で俺の頑張り次第だ。


「…つっかれた……!」


 そうして自宅に戻ってきた拓也は、風呂にも入らずに倒れ込むようにしてベッドに沈み込む。

 今日くらいは仕方ないだろう。一日の中で様々なことが起こりすぎた。


 唯の過去を聞くところから始まり、その思いを受け止めた。そしてその後は沙織との接触を図り、それぞれの内情を知った。

 間違いなくこれまで生きてきた中でもトップレベルの密度を誇った日だと断言できる。


 自分が望んで行動した結果とはいえ、これほどまでのことになるとは思ってもいなかった。

 布団に体重を預けながら今日のことを振り返っていれば、次第に重くなっていく瞼に抗うこともできずに睡魔にやられそうになる。


(…唯の誕生日か………とにかく……俺に……できる…こと、を………)


 ようやく落ち着いた状況になったことで気が緩んだのか、意識が強制的にシャットダウンされていく。

 抵抗する気力も残されていない拓也の体はその欲求に素直に応じ、眠りについていった。





     ◆





「…やくん。………拓也くん、起きれる?」

「ん……」


 温かな日差しを感じながら、沈んでいた意識が覚醒していく最中、どこか聞き慣れた少女の声を遠くに感じた。

 その声に従って、朦朧とする視界を無理やり開いていけば……拓也の目の前に唯がいた。


「おはよう。ぐっすりだったね」

「……唯か。かなり寝過ごしちまったな……」


 まだ寝ぼけている頭を必死に回しながら起き上がれば、柔らかな笑みを浮かべている唯が嬉しそうに微笑んでいる。

 まるでその反応が面白いとでもいうようにクスクスと笑っているので、彼女の態度に疑問符が浮かぶが………


「全然寝過ごしてないよ? まだ朝だからね」

「は? まだ朝って……まじかよ」


 てっきりもう昼になっているものだとばかり思っていたので時計を確認してみれば、示されている時刻は午前七時。

 …いや待て。早く起きたことはいい。


 それよりも目下直面している問題は、今この場に唯がいるということだった。


 普段から唯は、大体昼前になってから拓也の家に来ている。

 そこから軽く昼食を作り、お互いに勉強や雑談などをしながら、それぞれの好きな時間を過ごすのが大まかな流れになっていた。


 なので拓也も、ここに唯がいるということは当然時刻は昼に近いのだろうと思っていたのだが……その予想は外れていた。

 理解の追い付かない状況に困惑していると、それを見ていた唯が順を追って説明してくれる。


「うふふ。せっかくいつでも来てくれていいってお墨付きをもらっちゃったからね。だったら朝からお邪魔させてもらおうかなって思って来ちゃった!」

「あー……なるほど」


 悪戯を成功させた子供のような表情を浮かべながら、唯は楽しそうにコロコロと笑っている。

 確かに好きな時に来ていいと言ったのは他ならぬ拓也自身なので、そう言われればそれ以上は何も言えなかった。


「それにしても……着替えずに寝ちゃったの? 駄目だよ、ちゃんと寝る準備はしないと」

「昨日は倒れるように寝てたからな……そんな余裕もなくてさ」


 考えなければならないことも多かった先日は、身支度を整える暇すらなかった。

 結果的にまともに布団すらかけずに眠り込んでしまっていたが、風邪をひかなかったのは幸運だっただろう。


「そんなに疲れてたんだね……一応朝ごはんは作ったけど、食べれそう? 食欲あるなら用意しちゃうけど」

「ああ、朝食は普通に食べれる……って、朝飯まで作ってたのか!? それって相当早い時間から来てたんじゃ……」

「家にいても暇だったしね。それに、朝から拓也くんと一緒に居られるならこれくらいなんてことないよ!」

「そ、そうか……唯がいいならいいんだけど、無理はすんなよ?」

「うん! じゃあ朝ごはん準備してきちゃうね!」


 混じり気のない好意を正面からぶつけられ、朝から顔が熱くなるが……唯はそれを気にした様子もなく、リビングへと戻っていった。


「……着替えるか、とりあえず」


 色々と流れが急すぎて未だに状況を飲み込み切れていないが、ひとまず服を替えて冷静になろう。

 昨日から着続けていることもあり、汗で濡れた服を脱げばそれなりにさっぱりとした気分になれた。




「おはよう……っと、おお。すごい良い匂いがする」

「あっ、おはよう! ちょうど準備もできたよ!」


 軽く支度を整えてリビングに入れば、その瞬間に鼻腔を抜ける豊かな香りが飛び込んできた。

 その匂いの元を辿れば、テーブルの上に唯が作ってくれた朝食が並べられており、半ば無意識の内に食欲が刺激されてくるようだった。


 並べられているのは白米に味噌汁、そして鮭の塩焼きとシンプルながら栄養バランスがよく考えられているメニューだった。


「冷めないうちに食べてね! 私も一緒に食べよーっと」

「そんじゃお先に、いただきます」


 席に座って手を合わせたら、彼女のお手製の朝食を口にしていく。

 ぶっちゃけてしまうと拓也は朝は食欲が湧きずらい方なのだが、なぜか唯が作ってくれた料理に限ってはそれが一切ない。

 それどころかほとんど夢中になって食べられるくらいであり、味の方も文句のつけようもないくらいに完璧なものだ。


 鮭の身は少し箸を入れただけで割けるくらいに柔らかく、その塩気の塩梅も実にちょうどいい。

 まさに程よい味付けといったものを体現した美味であり、これ以上ないくらいに拓也の好みの味でもある。


 そしてそんな拓也の様子を、目の前に座っていた唯は両手で頬杖をつきながらニコニコと見守っていた。


「ん? ああ、味はしっかり美味いし相変わらず完璧だぞ。こんなものを朝から食えて幸せ者だよ、俺は」

「ありがとね。…でも幸せなのは、私も同じかな。こうして一緒に朝から過ごせる人がいるのが、こんなに嬉しいとは思わなかったからね」

「…そうか」


 心の底からの喜びを表すように笑顔を浮かべている唯は、その周辺にもあふれ出すように幸せなオーラを広げており、それを一身に向けられた拓也としては若干やりづらい。

 紛れもない好意で言ってくれているので嬉しくはあるのだが、それでもやはり照れくささも同時に湧きあがってしまうのだ。


「それと一つお願いがあるんだけど、いいかな?」

「お願い? 俺にできる範囲なら聞くけどなんだ?」

「実はね、これからも今日みたいに朝ごはんを作ってあげたいんだ! 今まではお昼から来てたけど、それだと昼食と夕食しか作れなかったでしょ?」


 その提案に一瞬逡巡してしまう。

 拓也からすれば、彼女が朝に来ようが昼から来ようが特に大きな問題もないので別に否定はしないが、それでは唯のスケジュールが圧迫されないのかという不安も出てくる。


「……朝からか。俺としては拒否する理由もないけど、それだと唯の負担がでかすぎないか? ただでさえ早起きして、その上料理の用意をするのは」

「だいじょーぶ! 普段から早起きには慣れてるし、それに料理だっていつもやってることだからね。大した負担でもないんだよ」

「…それなら、まあ……いいのか?」

「やった! じゃあ明日からはそうさせてもらうね!」


 …なんとなく強引に押し切られたような気がしないでもないが、唯が非常に満足そうなのでそんなこともどうでもよくなってきてしまう。

 彼女の要望というだけであっさりと了承しているあたり、相当に毒されてきているのがよくわかる。


 そんな自分に思わず苦笑も漏れるが……まあいいか。

 それこそ唯が無理をしていると思ったらやめさせればいい話だし、そのラインを見極めることができない彼女でもない。

 それに何より、あれだけ嬉しそうな顔をしている唯を止めるような真似はしたくなかった。


「あ、でも私が朝から来るからって無理して起きなくても良いからね? 夏休みなんだから遅くまで寝てたい時だってあるだろうし、そこは自由にしてていいから!」

「…そこは、規則正しい生活習慣をしろって言われるところだと思うんだけどな」

「ここに来るのは私がしたいと思ったから来るだけだし、拓也くんまでそれに付き合わせちゃうのはまた違うでしょ? 朝ごはんもまた温め直せばいつでも食べられるし、そこは気にしなくていいからね」

「…まあ、俺もできる限り起きるようにはするよ。唯も一人で朝飯を食べるなんて味気ないだろうし、そこは頑張るさ」


 そう言うと、唯は数秒ポカンとしたように呆気にとられた後、拓也の発言の意図を理解したのか頬を緩ませ、上がっていく口角を抑えきれないようだった。


「…どうかしたのか?」

「う、ううん! 何でもない! …何でもないけどほんと、そういうところなんだよねぇ」

「何がだよ……」

「今は分からなくてもいいよ。…ただ、私が勝手に嬉しく思ってるだけだから」

「はぁ……」


 よくわからないことを言ってくる唯に困惑するが、それ以上追及したところで答えなんて教えてもらえないことは分かり切っているので、特に言及もしない。

 二人で囲む食卓。朝の陽ざしが差し込む朝食には、穏やかな空気が流れているのだった。

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