第2話

「いらっしゃいませ」

『喫茶メロウ』を訪れたイクミは真っ直ぐカウンター席に向かい、左から二番目の席に座る。ここがいつも座る場所だった。他に客はいない。

「マスター、コーヒーを」

「はい。いつものですね」

 白髪白髭でイートンコートを着たマスターは慣れた手つきでコーヒーを淹れる。

 今日は天気が良い。朝から気分も良い。今から美味しいコーヒーも飲めるのだから、とても良い日だ。

 イクミは機嫌良くマスターの手元を見つめる。

 丁寧で無駄のない所作が美しかった。

 いつまでも見ていられる風景だな、そんなことを思っていた。

 だが次の瞬間、その心地良さは脆くも崩れ去ることになる。

 遠く聞こえた救急車のサイレンは瞬く間に近づき、店の前を通り過ぎていった。

 通り過ぎて、行ったはずだった。

だがイクミの頭の中ではずっとサイレンが鳴り響き続けている。

ピーポー

 ピーポー

 ピーポー

 ピーポー

 頭の中をぐるぐると。

 そしてその音は大きくなり、あっという間にイクミの周りをとり囲む。

ざわっと胸に嫌な感覚が広がる。

 喫茶店にいたはずなのに、そこはいつの間にかアパートの一室になっていた。

目の前には倒れた人。その周りには慌てふためく両親の姿があった。

 イクミは声を出すこともできず、ぎゅっと自分の肩を抱いた。

 パパとママの邪魔をしちゃいけない。

 子どもの姿に戻ったイクミはただそれだけを感じ、部屋の隅で存在を消す努力をした。

 すると、そんな幼いイクミの肩をそっと抱く腕があった。

 イクミは顔を上げる。誰だろう……? 知らない人だった。白髪白髭のその男性は優しく微笑んでいる。

「大丈夫。これを飲んでごらんなさい」

 差し出されたカップにイクミはゆっくり口をつける。

「……苦い」

「ゆっくり飲むと良いですよ」

 微笑む男性。イクミはゆっくりと、ゆっくりとそのコーヒーを飲んだ。

 温かな液体が体の中を浸透していく。

 そしてそのほろ苦さが徐々に頭をはっきりとさせていった。

 全てを飲み終える頃、イクミは喫茶店のカウンター席に座っていた。

 カウンターの中では何事も無かったようにマスターがコーヒーを飲んでいる。

「今のは……?」

 こんな時いつもならどうしようもないくらいの嫌な感覚が残るところだが、今日はコーヒーの香りだけがそこにあって、まるで感覚を塗り替えてくれているようだった。

 不思議と気持ちが落ち着いている。

 先程の男性は確かに今目の前にいるマスターだった。

 一体何が……?

 疑問に感じたが、気味悪い感じはしなかった。むしろ気分はスッキリしていた。

イクミは席を立つ。

「またお待ちしています」

 マスターの声を背に店を出た。

 あの日、幼いイクミが実際にマスターと会っていたわけではなかった。イクミの『思い出の中』でマスターが嫌な記憶をコーヒーの香りや味とともに塗り替えたのだ。

 不思議な体験だったが、イクミにとってはそれが真実でそれが全てだった。

 忘れられない出来事。その心に恐怖を焼き付けて離さなかった思い出。

 だが、その恐怖心が今は和らいでいる。

 いつもなら過呼吸になってもおかしくない状況なのだが、不思議と今は怖くなかった。

 イクミは空を見上げ思いきり伸びをする。

 雲ひとつない空が青く澄んでいた。

 『喫茶メロウ』の看板を見てイクミは思う。「やっぱり今日は良い日だ」と。


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