真実 その3

 一見しただけで重みを感じられる鉄製の扉を肩で押し開ける。いくらか錆び付いた蝶番のせいもあってか、見た目以上の重さがあった。


 やや上方を征く数多の雑踏に掻き消されることなく、金属の軋む不快な音が鼓膜を揺らす。


 尾崎は把手から手を離し、背後に控える牧田にアイコンタクトを送ると、彼女は無言のまま頷き答えた。


 更にその後ろには瀬谷と、途中で合流したシオリの姿があった。

 前線の刑事たちは眼に見える緊張感を漂わせていたが、後方の二人はやはり、至って平然としている。


「……行くぞ」


 その場にいる他の三人が辛うじて聞き取れる声量で尾崎が狼煙を呟く。




 尾崎は重心の全てを右脚に乗せ、苛烈なタックルで扉を押し開き、素早く地下室に突入した。それに続いて、牧田が彼の背中をカバーする。


 薄暗い地下室内には、乱暴に開け放たれた入り口からの日光に反射する輝きがいくつもあった。

 それが壁面に所狭しと並べられた夥しい数の刃物だと気が付くのに、そう時間はかからなかった。


 直後、狭所が無人であることを認める。




「いませんね」


 部屋を飛び出した尾崎を横目に、牧田は落ち着いて室内を観察し始める。


 一際目立つのはやはり壁面の刃物だが、部屋の中央に据えられた腰ほどの高さの大きな台も相当な存在感を放っていた。


 一面ステンレスに覆われた表面は美しく磨き上げられているが、ここで行われていたであろう凄惨な犯行は、強烈な吐き気を催すのに充分だった。


 その台の端には、乱暴に脱ぎ捨てられた明るい茶色のトレンチコートがかけられている。

 牧田はそのコートに確かな既視感を覚えた。いよいよ疑いの余地すらなく、佐藤がここにいたことの証左に他ならない。


 この地下室に足を踏み入れるまで、僅かに灯され続けていた彼女の希望は消えたが、これを機に却って、牧田の胸中は落胆や悲哀よりもむしろ、余計な迷いをきっぱりと断ち切れたことで、すっと澄み渡った。


 ——佐藤くん……絶対に許さないから……。






 足元には黒いプラスチックの破片が放射状に広く散らばっていた。

 その中心には色彩の濃い緑を下地とした電子基盤が剥き出しになった、古い携帯電話だったものがあられもない姿で果てていた。


 部屋の隅には、一人暮らしに適するサイズの冷蔵庫と思しきやや縦長の箱がひっそりと置かれている。




「ダメだ、上じゃさすがに見付けられん」


 尾崎が肩を落としながら地下室へと降りてくる。


 上に架かる万世橋を征く人物は多く、その中から知った顔を探し出すことは叶わなかった。

 彼に続いて瀬谷、シオリが入室する。


「あのコート、彼の物で間違いありませんね」


 今朝見たばかりのキャメルカラーのコートを一瞥した瀬谷は、真っ先にそれを訊ねた。


「はい」牧田が短く答える。


 焦って着て出るのを忘れただけか、発信機に気付いたか。いずれにせよ、佐藤の正確な現在地と動向を知る術はなくなってしまった。






 そんな中、シオリが無数のプラスチックの欠片の上を無遠慮に進み始める。


 ばりばり、ぱきぱきと鳴る小気味のいい足音は、地下室の隅に近付くにつれ小さくなり、やがて最奥でしゃがみ込む。彼女の眼の前にはワンドアの冷蔵庫があった。


 シオリは何の感慨も、現場を荒らすまいとする配慮もなく把手を手に取り、おもむろに扉を開ける。




 それと時同じくして、瀬谷が声を上げた。


「皆さん、こちらへ」


 彼が指し示したのは冷蔵庫の真向かいの壁。

 その下方には、ぎりぎり人一人が通れるか否かというほどの小さな扉が存在した。その古ぼけた様からして、この謎の部屋が設けられた当時のものだと想像される。


 その扉は誰かが慌てて出て行ったのか、中途半端に開いていた。


「ここから逃げたのか。どこに繋がってるんだ? てか何だここは」


「ここを進めば、恐らく地下鉄、銀座線が通るトンネルに行き当たるはずです」


「地下鉄だと?」


 尾崎は純粋に驚きを口にしたがそれを横目に、牧田は既に何も言わずその扉を潜ろうとしていた。


「お、おい牧田っ。参ったな、俺絶対通れないぜこんなの……」


 尾崎の言う通り、隔絶された地下室の隠された小さな扉は、彼が有する巨体の侵入を許さない。

 牧田はそれを意に介さず先へと進んでゆく。




「では、こうしましょう」見かねた瀬谷がここである提案を持ちかけた。


「僕はこのまま、牧田さんと共に彼を追います。尾崎さんはシオリを連れて秋葉原駅へ向かい、銀座線のホームまで降りてきてください」


「ああ、分かった。牧田を頼む」


 瀬谷はそのまま駆け出しそうだった尾崎を引き留め、ジャケットの中から一枚のカードを取り出す。


「尾崎さん、これを」




 尾崎はそれを受け取りしげしげと眺めたが、薄暗い地下室内で辛うじて読み取れるのは「ASIO」のアルファベット四文字のみであり、それが一般的な身分証の類いでないこと以外は、いまいち判然としない代物だった。


「何だこれ」


「シオリに倣って言うなれば、“ジョーカー”です。きっと役に立ちますよ。では後ほど」


 そう言い残すと瀬谷は両袖を少し捲り上げ、一切の躊躇いもなく埃と蜘蛛の巣で隅々まで飾り付けされた古い地下道を降りていった。






「尾崎警部」


 地下道には眼もくれず、一人黙々と冷蔵庫の前でしゃがみ込んでいたシオリに呼ばれ、尾崎は振り返る。


 視線の先ではシオリが大きなガラス瓶を胸の高さまで持ち上げていた。

 中身は濁った——透明度の著しく低い液体で満たされているようだったが、やはり室内の光度では色まで識別することはできない。


「これ。まず一つ目の答え合わせ」


 ごとり、と陶器の鈍い音と共に、それは部屋の中央の台に乗せられた。


 そして、シオリは蓋を開けた。


 やや湿った空気中のあらゆる分子が真空状態を保っていた瓶の内側へと流れ込む。やがて空気中から欠けた部分は、瓶の中身から溢れる異臭で置換された。


 嗅覚の奥を突き刺すような、不本意ながら覚えのある強烈な酸性の匂いと、僅かな腐臭。

 もはや中身は眼で確かめるまでもなかった。


「マジかよ……」


 生きとし生ける全てに巡り流れる、赤黒い魂の通貨。

 瓶の大きさからして約五百から七百ミリリットルはあろうかという悍ましい量の血液は既に充分に酸化し、いよいよ腐敗の段へと移行する最中にあった。


 真空が破られた今、それはリンゴが地に落ちるよりも早く、加速度的に腐蝕の一途を辿っている。


「し、シオリちゃん。もう分かったからそれ早く閉めてくれねえか……」


 ところがシオリはそれに返事をすることも、行動で答えることもせず、あまつさえ顔を——鼻が血液に浸らんばかりに近付けると、めいっぱいに息を吸うような動作をしてみせた。


「AB型Rhプラス。大島さんのものだね」


「まさか舐めたりしてないだろうな……?」尾崎は無意識に右手を口元に当てながら訊ねる。


「してないよ」


 シオリはえずくどころか眉を顰めることもなく、からりと笑って答えた。


「それで、瀬谷は?」


「二人はそこの地下道を通ってあいつを追ってる。俺たちは秋葉原駅まで行って、上から追えとのお達しだ。急ごう」


「はーい」


 シオリは血液で満たされたガラス瓶をきちんと密閉し、元あった冷蔵庫の中に戻しながら答えた。




「ところでさっきカードを渡されたんだが、あれは何に使うんだ?」


「あー、瀬谷貸したんだ。それはねぇ、何しても取り敢えず許してもらえる魔法のカードだよ」


 彼女の言う通り素直にその言葉を受け取るならば、いわば現代における免罪符、ないしは葵の印籠のような代物だと想像できる。


 にわかには信じ難いが、未だなお得体の知れない二人組であることを尾崎は再認識すると、不思議と全くの嘘八百でもないように思えた。


「これは“ジョーカー”とは呼ばないのか?」


 数分振りの外は恐ろしく冷えていた。今朝までは澄み切っていた冬空もだいぶ機嫌を損ねている。


 尾崎は万世橋の地下室の扉を乱暴に閉め、階段を登りながら少しばかり気の緩んだアイロニーを挟んだ。


 この局面にもなって少々不真面目な台詞であることを尾崎は自覚していたが、多少の冗談は時として過ぎた緊張をほぐしてくれることもまた経験から学んでいた。


 そして、この小さな探偵もどきにはそれが通用することを、彼は知っている。


「まぁ、そうとも言うね」それは尾崎の予想とは裏腹に、どこか含みのある返事だった。

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