虚偽 その5

 捜査本部で行われた緊急会議では、どす黒く、眼に見えるほどに重たい空気が澱んでいる。


 いくつかの会議室の垣根を取り払った大部屋には何十もの刑事や捜査関係者が寿司詰めにされており、彼らはこぞって自らの脚で得た情報を公開し功を急いた。


 その一番後方には壁に凭れた尾崎と、堅苦しく屹立しメモを取る牧田の姿もあった。




「——なお、現場からは身元不明の指紋や血痕、その他が複数確認されています。現在解析中ですが、以上の点から同一犯と断定するのは尚早かと思われます」


 殺気と疲労に塗れた背広たちと相対する捜査本部長の三堂は、その他の意見が出ないことを確認すると、ようやく重たく閉じられていた口を開いた。


「犯人の思惑など、どうでもいいことです。重要なのは、このような事件を立て続けに三件も許してしまった事実。犯人が同一であろうと模倣であろうと、我々がすべきことは何も変わりません。証拠が残っているのなら、それを頼りに徹底的に追うのです。一刻も早く犯人を捕らえる為、各自総力を尽くしなさい。その過程にて起こる物事に対しての責任は、全て私が請け負います」




「いやはや、すっかりおおごとだな。真相知ったら、こいつら全員泡吹いて倒れるんじゃねえか?」


 並んで立つ牧田にだけ聞こえるように、尾崎が苦言を呈する。


「それもそうですけど……そもそも、どうやってことを収めるんでしょう……?」


「……確かに」




 三堂の隣に座る厳つい男が幾らかの言葉の後、解散の令を出すと、今まで大人しくしていた背広たちが一斉にわらわらと動き出した。


 二人が待ち望んだ一世一代の好機。

 ここで目星を付けられないと、今後彼らが散り散りになってからでは全てが水の泡になってしまう。


 ——どこだ。どこにいやがる……。


 ——誰か、怪しい人……。


 身体中の全神経を、この広い室内で蠢く数十の一挙手一投足全てに向ける。

 表情、動作、仕草、声、そこに第六感まで乗せ、精神を研ぎ澄ます。




「……こにいやがる……てんだ……」


 あらゆる騒音、雑音に紛れた密やかな怒気。

 その他無数に犇く刑事や捜査官たちはそれに一瞥もくれず、各々の捜査方針や今後の動きを考え、共有することに没頭している。

 身内同士の衝突などという、ありふれた些事にいちいち気を取られていては捜査もままならない。


 一歩引き俯瞰していたからこそ、二人はそれを聞き逃さなかった。


 ——左前方。だいぶ遠い。こりゃ確かに、気ぃ張ってないと分からんな。


「牧田」


「はい。聞こえました。誰かがいないみたいですね」






 スマートフォンを握りしめ項垂れたまま会議室を出ようとする男は、注視して探すまでもなく、すぐに見付けることができた。


「稲川」


「ああ、尾崎さん……おはようございます」


 稲川は心ここに在らずといった状態だった。異変を察した尾崎は自らの用件を一度引っ込め、彼の身を案じる。


「どうした、大丈夫か」


「今朝のご遺体、誰だか聞いてないんですか?」


 二人は顔を見合わせ、無言のやり取りで互いに突き刺さった罪悪感を共有する。


 彼は遺体の顔までは見ておらず、聞かされているのは「クニモト」という名前だけで、その遺体の正体を知らない。

 厳密には遺体ですらないはずなのだが、この事実は稲川にとって知る由もないものだった。


 尾崎は稲川に対して、何をどう伝えるべきかを必死に考えた。




 シオリは作戦の内容は絶対に他言するなと念を押した。それは相手に手の内を晒さない為の、まさにジョーカーであるからに他ならない。


 何より、疑いたくはないが稲川が完全にシロと言い切れない現状において、次の一言は作戦の成否に大きく関わることになる。




「稲川。俺たちに任せて、今日は休んどけ」


 本当は誰も死んでないんだから、と心の中で言葉を続け、彼に休むよう促した。


「いえ、そういうわけにもいかないんで」


 尾崎の言葉もあってか、心なしか稲川の顔はほんのり明るさを取り戻した。


「あ、ええと。じゃあ一つだけ。稲川さん、さっき誰かに電話かけてませんでしたか?」


 隙を見て牧田が切り込む。


「佐藤です。今朝から連絡つかなくて。二人は何か知りませんか」




 牧田があんぐりと開いた口を右手で塞ぐ。


 ——佐藤だと? あのへらへらした調子者が……人殺し……?


 果たして、佐藤のような半端な人間にそのような大逸れた行動ができるのだろうかと、怒りや驚きよりも先に疑問が芽生える。


 直後、それらを振り払った尾崎は徹底的な懐疑の視点を定めた。事実、彼らの視界内で怪しい動きをしているのは佐藤以外に見受けられない。何より、迷っている時間もない。


「し、調べてきます」牧田は小さく頭を下げ、大きな会議室を後にする。




 ——佐藤くんが殺し……? 分からない。分からないなら、確かめるしかない。


 彼女は何度も自分を律するよう言い聞かせながらフロアを駆けた。






「ダメです。追えませんでした」


 牧田は単身、捜査情報支援センターに乗り込み、半ば強引に彼らの協力を得て佐藤の現在地をスマートフォンのGPSから割り出そうとしたものの、目的の反応はどこからも発せられていなかった。


 特別な感情こそ抱いてはいなかったが、やはり同期として、どこか信じたいと願っていた牧田の想いは脆くも崩れ去ろうとしていた。


 ここまで疑いが深まってしまった以上、その想いを修復するには絶対的な無実の証明でしか不可能であった。




「細工をしたか、自分で壊したってとこか。いよいよクサいな」


「佐藤くんが十字殺人鬼だったとしたら……私は今まで一体何を……」指を組むとじんわりと汗が滲み、彼女の心境をより一層沈ませる。


「気持ちは分かる。だが普通に考えてみろ。仕事ほっぽった挙句、追われないように自分のスマホぶっ壊して……怪しむなってのが無理な話だ。まぁ万が一、あいつも追う側だったんなら、そん時は心の中で謝ればいい」


 背負っている感情は依然として重いままだったが、彼女は短く「そうですね」と零す。


「それに佐藤だけじゃない。戸上とかいう警官もだ。あいつも充分怪しい。そろそろ下行ってもういっぺん確認してくるか。悪いが、牧田はそのまま佐藤に絞って調べててくれ」


「……分かりました」






 今日こそはエレベーターに乗り込み、階下へと降りる。尾崎は籠に揺られながら、私情や先入観を抜きに、佐藤が十字殺人鬼である可能性を努めて客観的に考えた。


 ——どっか半端で抜けてる印象がありながら、俺が知る限りあいつが大きくトチったところは見たことがない。人当たりの良い綺麗な表の顔と、欲に塗れた薄汚い裏の顔。それを見事に切り替えながら人間社会に溶け込む……俗にいうシリアルキラーってやつか。日本じゃあまり聞かないが、海外のそういう連中も外面は結構良かったりするしな。仕事のできるあいつなら抜け目なく演じ分けられるかもしれん。




 籠の外へ出てロビーへ向かっているごく短い道中、この日も尾崎がはじめに見かけたのは、眼の前を横切ろうとする和泉だった。


「あ。和泉さん、ちょっといいか」


「お、お疲れ様ですっ、尾崎警部」彼女は変わらぬ様子で尾崎に向かって丁寧に敬礼をする。


「戸上、今日はいるか?」


 質問に対し、和泉は隠すことなく困惑を露わにした。


「そ、それが……昨日警部がいらっしゃる前に出たきり見てないんです。今日は出勤すらしていなくて……」


「マジか」思わず本音がそのまままろび出る。


 昨日今日で姿を眩ました人間が二人もいる。

 それぞれの事情など知る由もないが、今の尾崎からすれば「疑ってください」と言わんばかりの行動に他ならない。


 ふと、戸上の性格や普段の様子を全く知らないことを思い出し、後輩である彼女にそれを訊ねた。


「なぁところで、戸上ってどんなやつなんだ?」


「ええと……戸上さんとしっかりやり取りしたのは、私がここに配属された日に挨拶して回った時だけで。とても静かな方、というか……誰とも積極的に話してるところを見たことがないんですよね……」


「要は影が薄いってやつか?」


 和泉はそれを言外に肯定する。後輩なりに気を遣った返事だった。


 ——彼女の言う通りの性格なら、多分他に聞いても似た答えしか返ってこないだろうな。こっちは打って変わって、とことん目立たずにこそこそしてるタイプか。


 この時点で、戸上も十字殺人鬼の容疑者に加えられた。


 尾崎のスマートフォンが内ポケットで振動する。

 和泉に礼を言ってから画面を確認すると、針の穴を通すかの如く狙い澄ましたタイミングで、いよいよ瀬谷から電話がかかってきた。


「エラくいいタイミングじゃねえか。盗聴でもしてるのか?」


『恐れながら』


「……嘘だろ?」


『はい。嘘です』

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