現在 その2

 頭に巻き付けたライトが、土の地面と買ったばかりのシャベルを照らす。


 住宅街にぽつんと点在する豊かな自然の中心は、灯りがなければ半歩先すら見えないほどの漆黒に包まれている。




 午前三時半。瀬谷は一心不乱に地面を掘り進めていた。


 もう一つの灯りはじっと待っていることができず、彼から少し離れたところでうろうろしながら周囲を観察している。


「あまり頭を上に向けるな。光を見られて通報でもされたらどうするつもりだ。手伝う気がないのなら大人しくしていろ」


「頑張ってー。肉体労働は瀬谷の役目。わたしは頭脳労働担当だから」


「残念だが、そんな分担をした覚えはない」


「それで、どれくらい進んだ?」


 がさがさと落ち葉を踏み締めながらシオリが近寄る。


「まだ一メートル程度だろう」


 踏み固められていない土とはいえ、身一つで人間一人分が収まるだけの穴を掘り起こすのは想像以上に骨の折れる作業だった。


 人里離れた山奥でならまだしも、都会の中心となると事前に掘り起こしたものに蓋をしておく必要があるだろうと、瀬谷は手を止めることなく推測した。

 穴を掘っている間ずっと、傍に死体を置いておきたくはないはずだ。


「あともう一メートルくらいかな。ファイトだよ瀬谷」


 心のない声援が真隣から投げかけられる。「わたしは絶対に手伝わないから」と宣言しているのと何ら変わらない。


 瀬谷は辟易としながら、黙々と桜の樹の下を掘り続けた。






 こつ。


 シャベルの先端が“何か”に触れた。これまで何度か大きめの石に当たったが、それと比べると音の高さや感触が異なるのは明らかだった。


 石ほど響かない。石ほど硬くない。


“何か”を覆っている色の濃い土を払うと、汚れた黒い布のようなものが先端にかかるが、それはただの布切れではないようで拾い上げることはできず、へたりと元の位置へ戻る。


 ——五割未満。引いてしまったか。


 彼の心は悲嘆で満たされた。






 丑三つを越えたものの闇は明け切らぬ午前四時二十分。


 何の変哲もない静かな住宅街は、突如としてさながら繁華街のような品のない輝きで煌々と照らされた。無機質な赤い光の明滅が繰り返される。

 サイレンこそ鳴っていないが、現場に集まっている無数の人間が発する様々な雑音によって一帯は騒然としていた。


「それで、お兄さん。こんな時間に、そんな小綺麗でオシャレなスーツ着て、女の子まで連れて。何でここで土なんか掘ってたの」


 所轄で当直をしていた還暦間近と思しき警官が瀬谷に詰め寄る。

 その表情からは、彼がクロだと確信していることと、最大級の厄介ごとを持ち込まれ心底迷惑だと思っていることが読み取れた。




 しかし向けられた質問に対し、ご丁寧にかくかくしかじか答えたところで埒が開かないのは眼に見えていたので、彼は身分証の提示と警察関係者であることを明かし、助け舟の到着を待つことにした。




「瀬谷さんっ、シオリちゃんっ」


 しばらくして、先に到着したのは牧田だった。


 彼女は規制線をくぐると小走りで瀬谷の元へ駆け寄り、彼に張り付いて離れない警官に手帳を見せる。

 警官はそれでもなお不承不承としていたが、最終的には怪訝な視線を残して去っていった。


「牧田巡査だー。おはよう」


「助かりました」


「い、いえ。ご迷惑を——それより、詳しく聞かせてもらえますか。何でここに……」


 ようやく束縛から解放された瀬谷は掌で公園の奥を示し、現場へ進むよう促す。




 それを視るなり、シオリが阿吽の如く先を歩き始め先導を担った。牧田は黙ってその後に着く。

 背後を歩く足音が聞こえず何気なく振り返ると、瀬谷はその場に留まったきり微動だにしていなかった。


「案内と説明はシオリから。僕はここで尾崎さんを」


 そう言うと、彼は三十度ほど腰を折り曲げた。






「眠い?」


「う、うん。寒い……ですね」


「へ?」


 彼らの素性を多田から明かされてから半日も経たないうちに二人きりになり、理解が整いきらない牧田はシオリとの接し方に悩んだ。妙な気を張ってしまい、ぎこちなさを感じてしまう。


 多田の口ぶりからは、恐らく自分が彼女らの素性を知っていることはイレギュラーである可能性も高い。

 そう思うと余計に緊張感が増し、動揺が表れてしまいそうな不安に駆られた。


 ——大丈夫、今まで通りにしてればいい。そう……平静を保つ。それだけ。


「聞いてる?」


「ひゃいっ……え……? す、すみません……ちょっと考えごとを、してました……」


 二秒前の決意も虚しく、牧田はこの上ない動揺を含んだ返事をした。猛烈な羞恥が全身をくすぐる。


「あはっ、ひゃいだって。全然話聞いてなかったけど大丈夫?」シオリはけたけたと笑った。


「ごめんなさい……大丈夫です……」


「次は聞いててねー」






「まず昨日、お昼に國本さんと会ったの。それで幾つか質問して、まずここに来ることに決めた。“木を隠すなら森の中”、“桜の樹の下には死体が埋まってる”って感じで。そしたらー……、ほらあの光ってるとこ。あそこにおっきい桜があったの」


 シオリはここから一段上がった盛り土の上を指差した。


 論理性の欠片もない、そもそも推理として破綻している言葉がぽろぽろと飛び出てくる。本来なら一笑に伏すまでもないただの戯言だが、牧田は黙って続きを聞いた。


「その樹の下の地面を調べたら他の土と地質が違うのが分かって、それで瀬谷に掘ってもらったの」


「地質が違うって……?」


「例えば、今歩いてるこの土。この表面はとても自然なもの。太陽に当たったり雨に濡れたり、落ち葉が腐ったり虫や微生物が食べて分解したり、その虫の糞とか死骸もそう。それが自然に堆積した結果がこの地表環境を生み出した」


 彼女は地面を強調するように途中で跳ねながら、二人が歩いている土の組成を噛み砕いて説明する。


 そうこうしているうちに、人骨が発見された件の樹へ辿り着いた。


 三台の投光器に照らされた深さ二メートルほどの大きな穴を幾人もの捜査官が取り囲み、各々やり取りを交わしている。

 中には牧田の見知った顔もいた。


「でもね、この樹の辺りの表面はそれが極端に乱れてたの。日照時間も栄養素もバラバラでガタガタ。明らかに他の土と違う年代のものがごちゃ混ぜになってた」


「ええと、つまり……?」


「だいたい百年前の土が、ここ数年で掘り起こされて表面に積もってたってこと。そうなると、埋まってるものは死体かタイムカプセルくらいでしょ?」


「そんな……」有り得ない、と言いかけたが、彼女の眼下に遺体が埋まっていたのは紛れもない事実だった。


 根拠のない推論と、にわかには信じ難い暴論を同時にぶつけられた牧田は、それらを咀嚼し理解するのに精一杯で、シオリが探すと意気込んでいた人物を思い出すまでに数秒の時間差が生じた。

 遅れて、最悪のシナリオが脳内を無秩序に駆け巡る。


「そんな、まさか……じゃあこの遺体って——」






「沙織じゃ……ない……!?」


 早朝から全力で走ったおかげで息を切らした尾崎は、瀬谷の言葉をそのまま鸚鵡返しした。


 考えたくはなくとも、「探しに行く」と言って出かけた彼らが遺体を見付けたとなれば、最も恐れていた結末が執拗に彼を追い駆け回すのは必然である。


 ところが瀬谷は尾崎の憂いを裏切った。


「僕が掘り起こした白骨遺体は、國本さんが証言した服装とは全く異なる黒いコートをまとっていて、かつ、そのボタンは一つ外れていました。そして、外れたというより引きちぎられたボタンは、昨日の昼まで証拠品として警視庁で保管されていました。今は、ここに」


 瀬谷はジャケットの内ポケットからパウチのついた透明なビニールを取り出した。中にはこれといった特徴のない大きめな黒いボタンが入っている。


「ま、待て。一体何が言いたい」


「これは六年前に失踪したとされている、犬飼 夏生さんのコートのボタンです」


「犬飼……」




 見付かった遺体は沙織ではない。


 それは尾崎個人にとっては悪いニュースではないことは確かだが、つまるところ、新たな殺人事件の犠牲者が発見されたことに他ならない。


 ——素直に……喜んでいいものだろうか。


「取り敢えず……現場見せてくれるか」






 覚悟を決めながらも恐る恐る穴を覗き込んだ尾崎の胸中では、先の瀬谷の発言の信憑性が高まったのを感じた。


 丁寧に掘り抜かれた地面の底には、ウールかカシミヤで織られたであろう黒いチェスターコートに包まれた人骨が寝そべっている。

 コートに縫い付けられた二つのボタンの間には、不自然な感覚が開いている。真ん中のボタンがなくなっていると考えるのが妥当だった。




 尾崎は落ち着きを取り戻しはしたものの、未だ若干の不安定さが見て取れる。


 瀬谷は彼にほんの少しでも休むよう進言した。どちらにせよ苦であることが分からないほど瀬谷も愚かではないが、それを理解した上でも声をかけずにはいられなかった。


「まぁ……何にせよ、まだ五時前だ。周りに聞き込みってわけにもいかん。それに発見者はお前さんたちだしな。この場は任せて、俺らは一度引き上げよう」


 尾崎は踵を返して、落ち葉の絨毯の上をゆっくりと戻る。


 先を行く彼は垂頭し、今にもそのまま前のめりに倒れそうだった。

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