過去 その4

「ん。牧田は?」


「調べ物があると言って出て行かれました。詳しいことまでは」


「そうか……ってことは、誰が行くかは決まってないのか?」


「はい。我々だけで動いていいのであれば、すぐにでも出られますが」


 シオリは上座の一人がけソファで膝を抱えながら、不規則な順番で前後左右にゆらゆらと揺れている。


 相変わらず、何を思考しているのかは全く以て推察することができないが、どことなく手持ち無沙汰であろうことだけは、尾崎にも辛うじて理解できた。




 失踪事件当時、もちろん尾崎も担当していたとはいえ既に五年の時が流れている。動くのであれば、不毛な問答を避ける為にも目立たずに行動したい。

 となると、いつどこにいても圧倒的な存在感を垂れ流してしまう彼には少々骨が折れる。


 何よりも、これは公私でいうところの私であり、公では依然大きな問題を抱えたままでいる。


 自らの手で再び姪を探すことができない歯痒さを堪えつつ、尾崎は断腸の思いで沙織の捜索を自称探偵たちに任せることに決めた。


「なら……二人で行ってきてくれるか」


「分かったー。二日で見付けるよ」


「もしその間に何か動きがあれば連絡してください。こちらからも逐次メッセージを送りますので」


「ああ、助かるよ。例の忌々しいカードの鑑識結果も、分かり次第すぐそっちに回す。これが國本さんの住所と連絡先だ。電話口は母親だったが、彼女には連絡を入れてくれるそうだ。それと一応言っておくが、もし國本さんの精神状態が芳しくなければ、無理に突かないでやってほしい」


「ええ、もちろん細心の注意を払います。それでは」


「いってきまーす」




 支部の扉から半身を乗り出して、二人が遠ざかって行くのをぼんやりと見つめる。


 ——思えば、あの子の背中をこうして見送るのは初めてだったか。


 尾崎の心がほんの一瞬だけ郷愁で満たされた時、もう一度その機会が訪れるかもしれないという一縷の希望が差し込む。

 現実は甘くないと理解していても、一切の情け容赦ない残酷な暖かさが彼を包んだ。


「沙織を……よろしく頼む」


 独り言ちて、尾崎は捜査支部で牧田の帰りを待つことにした。






 あらかじめ國本に直接電話を入れると、彼女は声のトーンこそ落ち気味だったが、狼狽えることなく快く取材に応じた。

 既に母親から言伝があったのだろうと思い至り、瀬谷は方々へ感謝の念を抱いた。


 國本は五年前と変わらず三軒茶屋に住んでいると聞かされていた為、事前に選定しておいた駅にほど近い喫茶店の名前を挙げる。

 こちらもすんなりと了承されたので、時間の指定は彼女に委ねることにした。




『では、ちょうど十二時でよろしいですか? あそこのカレーライスは是非食べていただきたいので』




 声は決して明るくはないが生気を感じさせないほどでもない。これは彼女の素なのか、それとも精一杯の空元気なのか。

 瀬谷は判別に迷ったがその選択は後回しにして肯定の意を示し、幾つかのやり取りを経て電話を切った。




 尾崎の言う通り、國本が心に浅からぬ傷を抱えていることは想像に難くない。程度にもよるが、言動には注意を払う必要がある。


 直後、瀬谷は自分と並んで歩く存在を再認識し、憂鬱に襲われた。

 しかし、五年も前の失踪者を捜索するに当たってシオリは不可欠。どうにか穏当にことが運ぶようにと、彼は小さく祈った。


「約束は十二時だ。それまでに寄りたいところはあるか」


「証拠品保管庫」


 シオリは喰い気味に答えた。






 指定した店の前に着くと、シンプルで小綺麗な格好をした女性が所在なさげに周囲を見回していた。


 駅が目と鼻の先にある為それなりに往来はあるが、立ち止まって誰かを待っているような人物は他にいない。


「國本 雪奈さんでお間違いありませんか」


「あ。はい。國本です。わざわざ来ていただいてすみません」


 彼女は後頭部で一つに結われた栗毛色の髪を揺らしながら頭を下げる。


「こちらこそ、突然お呼び立てして申し訳ありません。僕は瀬谷と申します。こちらはシオリ。尾崎警部の代理で参りました」


「シオリです。よろしくね」


「寒いですし、取り敢えず入りましょうか」


「はーい」


 ——おや。


 瀬谷は心の中で首を傾げた。






 店の扉を開いた瞬間、心地の良い苦味とそれを引き立てる程度の酸味が、風に流れて外へ出て行く。


 瀬谷は思わず眼を閉じて、店に漂っていたふくよかな香りを堪能する。主張こそ激しいが、全く嫌味のないコーヒー豆の香りだった。遅れて、スパイスの独特な芳香が後からやってくる。


 趣きのあるレトロな店内は昼時にも関わらず、常連と思しき老夫婦が入って左奥のテーブル席に着いているだけだった。


 右側に設けられたカウンター席の内側には初老の男が立っていて、背後の壁面にはあらゆる銘柄が記されたガラス瓶が所狭しと並んでいる。


「いらっしゃい。適当にかけて」


 カウンター内の店主はぶっきらぼうに歓迎してくれた。

 偏屈で頑固者の大将が寡黙に切り盛りする旧き良き居酒屋。その喫茶店版、と言ったところか。


 瀬谷は期せずして——ただ近かったからという理由だけでこの店を指定したのだが、結果的に思いがけぬ発見をした自身の判断に賞賛を贈りたくなった。




 三人は特に示し合わせたわけでもなく、一番手前のテーブル席を選んでそれぞれかける。


 店内を物珍しそうに忙しなく見回すシオリとは対照に、瀬谷はコーヒー豆の瓶が並んだ棚を凝視していた。


「いい香りでしょう。カレーとコーヒーに拘ってるお店なんです。もし場所を指定されなかったら、私もここを選ぶつもりでいました」


 店内での第一声は、國本の微笑み混じりの声だった。


 それが自分に向けられたものであると気が付いた瀬谷は、入り口でうっかり落としてきた“仕事”の二文字を、思考の壁に思い切りよく叩き付けた。






「いえ、顛末を一からお話ししてもらうつもりはありません。何度も何度も、同じ話をなさってお辛かったでしょう」


 國本はやや虚を突かれ、瀬谷を見遣る。


 彼の言う通り、違う人間が来る度に同じ話をしてきた國本には、無意識のうちに「こういうものだ」という擦り込みがされていた。

 確かに初めこそ苦痛だったがそれも次第に薄れていき、そのうち気に留まらないようになっていた。


「その代わり、彼女——シオリの質問に答えていただきたいのです。もちろん、無理強いはしません。答えたくなければ仰ってください。失礼な話ですが、中には不躾な質問もあると思いますので、その時は突っ撥ねてくださって結構です。如何でしょう、ご協力願えますか」


「わ……分かりました」


 國本は食後のコーヒーを楽しむ段になってようやく、相対する瀬谷という男から一切の表情が読み取れないことに気が付いた。


 先の発言も捜査や取材の協力というより、どちらかと言えばカウンセリングに近いものを連想させる。


 ——何より、この……シオリさん。何となく沙織に似てる……。


 今ひとつ形になりきらない疑問符を浮かべたまま、國本は呼吸を整えながらシオリの言葉を待った。






「今訊きたいことは四つ。答えによっては一つ増えるかもしれないし、減るかもしれない。始めてもいい?」


 シオリを中心に空気の流れが変わる。

 溌溂としたどこか懐かしい雰囲気の少女は一転、別人のように精神が研ぎ澄まされていた。


「はい、大丈夫です」


「それじゃあ、ええと……まず、この辺りに大きい樹が生えてるところってある?」


「き……? 杉とか檜とか、ですか?」


「そ。品種は何でもいいよ」




 シオリの一つ目の質問は、國本が予想していた遥か外縁からやってきた。この時点で、もはや彼女が今までに受けてきたあらゆる聴取とは一線を画すことは明白となった。


 國本は想定外の質問に戸惑いつつも、その内容を真剣に考えてから答えた。


「城址公園、でしょうか。色々な種類の樹がたくさん植えられています。駅から五分程度のところに……」


 言うや否や、瀬谷がスマートフォンを操作し始めた。

 十中八九、公園の場所を検索しているのだろうと思われる。


 何故調べれば分かることを、わざわざ今このタイミングで訊かれたのか。國本は疑問をぶつけようとしたが、シオリは矢継ぎ早に次の質問を投げかけた。


「ふむ、そっか。じゃあ次は、沙織さんがいなくなる前に望んでたことを知りたい。何か思い当たるものはありそう?」


 今度こそは想定していた類の質問だったにも関わらず、國本は自然とシオリから目線を逸らしてしまった。


 ——思い当たるどころか、忘れもしない。叶えてあげられなかった沙織の小さな望み。私の大きな後悔の始まり。


「叔父さんへの贈り物を、探したいと……私に……」


 束の間の静寂が訪れる。

 そこから先に言葉が続かないことを確認すると、シオリは質問を再開した。


「ありがとう。三つ目の質問ついでに訊くけど、今の精神状態はどう? 五年も経って掘り返すのはやっぱり辛い?」


「そう、ですね……」


 國本は俯いたまま答えた。瞳が潤んでいるわけでも、赤らんでいるわけでもないのに、何故か顔が上げられない。


「でも、掘り返してるわけじゃありません。私にとってはずっと、昨日のできごとのままですから……」声が震える。


「もしかして罪悪感もある? それはあなたが持つべきものじゃないと思うけど」


「もちろん……ありますよ。あの時こうしてたらって、何度考えたことか……」




 その答えを聞くと、シオリは「ふぅん」と溜め息でもついたかのように肩をかくんと落とした。

 何気なく戻した視線の先の表情は得心がいったようでもあり、同時に何かが腑に落ちないとでも言いたげな色をしている。


 感情の読み取り難さは、徹頭徹尾無表情を貫く瀬谷ばかりに眼が行きがちだったが、シオリはシオリで意味合いの異なる感情の不明瞭さがあった。


「ところで、犬飼 夏生って知ってる?」


 またしても、カードを裏返したようにがらりと異なる声色で新たな質問が投げかけられる。


 犬飼。

 國本は、自身が有する記憶の引き出しのどこかに、その名前が仕舞ってある気がした。どこでその名前を聞いたのだろうかとしばし考える。


 しかし最近聞いた名前ではないということ以外、今ひとつ判然としない。


「すみません。聞き覚えはあるのですが、お力になれるようなことはきっと何も……」


「そっか。分かった」


 答えを聞いたシオリはあっさりと引き下がると、何やら思案に耽り始めた。


 


 突然生まれた奇妙な間に困惑した國本は、ここで堪らず口を挟む。


「あの、質問はもう終わりですか? こんな答えで良かったんでしょうか」


「うん、大丈夫。そもそも失踪事件のことを訊きに来たわけじゃないんだ。今までの質問はついで」


 またしても予想だにしない返答に、國本の口はしばらく開いたまま塞がらなかった。


 更に驚かされたのは、彼女の隣に座っている瀬谷すらもそれを把握していなかった様子でシオリのことを睨み付けていたことだった。


「私が國本さんに会いたかった一番の理由は別にあるんだ」


 全てにおいて斜め上の言動が、さも当たり前のように降りかかった時間。


 それが結末に向かっていると直感した瞬間、國本は臓物をひっくり返されるような緊張に震え、途端に自らを包む空気が重く感じた。


 


 そして、シオリが口を開く。


「ちょっと死んでもらっていい?」

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