樹幹 その5
第三の殺人を未然に防ぎ事件を解決するには、手持ちのカードは少な過ぎる。
瀬谷の内心は穏やかではなかった。
先日の古屋殺しの犯人は男だった。シオリの推測する次の被害者には当て嵌まらない。
首謀したのは女だったが、いずれにせよ今はどちらも檻の中。それでも十字を模り殺せるのであれば、いよいよ犯人は超能力者か何かだとするのも冗談ではなくなってくる。
温かいカップからそそり立つ濃厚な蜂蜜の香りとは裏腹に、丹念に研がれた鋭い爪で心臓を鷲掴みにされているような焦燥感が彼の精神を苛む。
「シオリ」
「んー」
相変わらず瀬谷の方を見ることなく、ラップトップに喰い付いたまま怠惰な返事で答える。
「何か犯人に辿り着けそうなものは見付からないのか」
彼女の視線は画面から逸れ、そのまましばらく当て所ないまま宙空を漂う。やがて発せられた無神経な一言は瀬谷の神経を逆撫でた。
「ない。何もかもが足りないよ。本当はイヤだけど、捕まえるにはヘマするのを待つしかない」
「犯人像は。それだけ捜査資料を読み込んでるんだ、ある程度絞れているだろう」
「うーん……」
歯切れの悪い唸り声は、三人の視線を彼女に集中させるのに充分な間を生んだ。
「元々事勿れ主義で目立つのが嫌いな人間だけど、時々自己顕示欲とか承認欲求が暴走して精神的に不安定になるタイプ。今までその都度どうやって発散させてたのかは知らないけど、ある時突然、加虐嗜好に目覚めて人を殺すようになった。だから“目的があって殺す”んじゃなくて、“殺すこと自体が目的”。それでいて上手いこと誤魔化しながら普通に人間社会に溶け込んでる。要するに、典型的なサイコパス。まぁここまでは多分誰でも分かる」
シオリは「待ってね」と呟くと再びラップトップに視線を落とし、いくつかの操作するとぴたりと手を止め、尾崎の顔を凝視した。
「一つ訊きたいことがあるんだけど」
「お、おう」
「解剖とかエンバーミングの時って、血はどうしてるの?」
「どうしてる、とは?」
「わざわざ死体に残った血液量なんて量らないよね」
「ああ……俺もあんまり詳しくはないが、解剖台に排水溝が付いてるくらいだし、特に理由がなければ調べるのに必要な分を採るだけだろうな」
「そっか。それなら、ちょっとこれ視て」
シオリは手元のラップトップをくるりと回す。画面には五人分の遺体が映し出されていた。
「これ、左から順に古い事件の遺体の写真。右に行くにつれて、少しずつ死斑の面積が小さくなってるの分かる?」
指摘されて気付く程度だが、確かに背部に残されたおどろおどろしい紫色の濃度と範囲は、新しいものになるにつれ徐々に薄れ、狭まっている。
「だんだん残ってる血液が減ってる……?」それを最初に口にしたのは牧田だった。
「そ。つまり、これでまた一つ仮説が立てられる。さっきわたしは“殺すのが目的”って言ったけど、多分それだけじゃない。こいつの目的には“血を使う”ことも含まれてる。儀式用なのか、テイスティング用なのかは知らないけど」
これまでの口調と何ら変わらないままに発せられた想像を絶する猟奇的な言葉に、牧田の血の気がざっと引いた。
内臓を滅茶苦茶に掻き混ぜられるような猛烈な不快感が腹の奥底から湧き上がる。
「……それが本当なら、ネットやら何やらで騒がれてる“吸血鬼説”ってのも馬鹿にできないってか? ふざけてやがるな」
「まぁ吸血鬼が実在するかどうかは置いといて、そう考えれば辻褄は合う気がしない? 何人も殺してるうちに血に興味が湧いて、エスカレートした結果血を全部抜き取った。それと同時に肥大化していった自己顕示欲の為に、今回はわざと衆目に晒されるように事件を起こした。わたしには、それ以外あんまり思い浮かばない」
「まさに人の皮を被った鬼といったところか」
「万が一シオリちゃんの言う通りだったとするなら……想像しただけで吐き気がします……」
「大体、死体から抜かれた血に正しい使い道があるなんて考える方がおかしいよ。献血じゃないんだし」
尾崎は激しい葛藤に苛まれた。
もはや何が正常なのかは分からないが、犯行の流れとしてはシオリの仮説は全く筋が通らないとも思えない。
反面、そんな常軌を逸した異常な犯罪者を、推理の段階とはいえ暗に信じたくもなかった。
しかし、少しでも可能性があるのなら切り捨てて考えるわけにはいかない。常に起こり得る最悪を想定しなければならない。
かつて多田からは「先入観は刑事の敵である」と耳にタコができるほど言い聞かされた。
そうして己を律し、今一度襷を締め直さねばならないほどに狡猾で醜悪な、まさしく最低と呼ぶに値する事件に直面した尾崎は、長い刑事人生を積んできてなお、未だに揺らぎを覚える自らに少なからず嫌悪を抱いた。
「これが一応わたしのプロファイル。でもこんなのが分かったところで決定的な手がかりにはならない。残念だけど、もうここの読書で得られる情報はないかもしれない。業腹ってやつだね」
「業腹か。全くその通りだな。猟奇殺人鬼を追い詰めるどころか指を咥えて待つことしかできないとは」
「ところでこの前の——」
尾崎が何かを口にしようとした直後、捜査支部のドアをノックする音が室内を短く反響した。
四人の視線が一点に注がれる。
どうやらドアの向こう側では応対を待っているようで、すぐに入ってくる気配はない。先ほどまでの会話の影響で皆一様に警戒心が高まり、返事を忘れていた。
やがて、廊下にいる人間は痺れを切らしたのか、聞き馴染みのない声が扉越しに訊ねてきた。
「あの……尾崎警部はこちらにいらっしゃいますか?」
「あ——ああ」
我に返った尾崎はソファから立ち上がり、ようやくドアノブを回した。
ドアの前で待っていたのは女の制服警官だった。
尾崎は人の顔をよく覚えていられるタチだった為、まず彼女と面識がないことを確認する。
どこか堅く強張った立ち居振る舞いからして、最近入ってきた警官なのだろうと思い至るが、その直後、自らの体躯を思い返し、「またしても要らぬ威圧感を与えてしまったか」と憂いた。
「返事が遅れてすまない。して、俺に何か用か?」
「は、はい。わ、私は和泉と申しますっ。先月から、警視庁に異動になりました。よろしくお願いしますっ。これを、尾崎警部にお渡ししに参りましたっ」
——ああ、よかった。新人の方だったか。
彼は心の中で安堵の台詞を漏らしたと同時に、和泉と名乗った彼女の挨拶が少し可笑しく思えた。
「わはは。和泉さん、ここは自衛隊じゃないんだ。そんなに片意地張らなくてもいい」
笑いながら彼女から受け取ったのは、葉書が綺麗に収まるサイズの白い封筒だった。
表には切手と昨日の消印、警視庁の住所と併せて「オザキ マサヨシ サマ」と簡素な明朝体が印刷されている。
裏側に差出人の署名がない以外は、これといって不思議な点は見受けられない。
「これは……手紙か? 今日日珍しいな」
「確かにお届けしました。それでは私はこれにて、失礼しますっ」
「おう。ありがとうさん」
和泉はほとんど直角に腰を折ると、そそくさと廊下の奥へと消えていった。
「それは?」シオリが、入り口で立ち尽くしていた尾崎に訊ねる。
彼はドアを閉め、元いた席に戻りながら「分からん」と短く答えつつ封を切る。
腰を降ろした彼はそこに入っていた一枚のカードを取り出すと、眉一つ動かさずたっぷりと五秒間凝視した後、無言でそれを裏返して三人に向けた。
葉書と同じ大きさのカードには、かすれた赤茶色のペトロ十字と、英字新聞を切り抜いて綴られた粗雑なアルファベットが踊っている。
シオリはそれを読み上げた。
「“Whoever fights monsters should see to it that in the process he does not become a monster.”」
「何だこれは」
尾崎は開けっ広げに不快感を吐き出す。
それから少しの間を置いて、瀬谷が口を開く。
「ニーチェです」
「ニーチェ? 哲学者の?」
「はい。“怪物と戦う時は、自らも怪物にならぬよう気を付けろ”から引用しているものかと。一応確認しますが、差出人は」
「消印は東京だが裏はこの通り、真っ白だ。」言いつつ、封筒をひらりと裏返す。
「これ、切り貼りされた文字の上の赤いのってまさか、血……ですか……?」
「だね。それに、逆だけど十字ってことは、噂をすれば“吸血鬼”ってところかな」
「おいマジかよ……」
「恐らく、これは挑戦状だと思います」
「挑戦状って……犯人は殺人をゲームか何かだと思ってるんですか?」
「ゲーム、ですか。言い得て妙かもしれませんね」
彼は人差し指を立てると珍しく自ら間を作り、ほんの僅かな時間だけ思考を巡らせた。
「先ほど僕はそのメッセージをニーチェの格言の引用と言いましたが、ペトロ十字が表すように言葉の意味も逆に捉えるならば、“怪物と戦うには、自らも怪物になる必要がある”。これに犯人の思考を重ねた上で意訳をするならば、“人間如きに怪物を捕らえることはできない”」
「なるほどな。確かに分からなくはない」尾崎は伸びてきた無精髭を弄りながら唸る。
「これさぁ、何で尾崎警部宛てに届いたわけ?」
「何でって……」
シオリがまたしても迂遠な言葉を挟む。語調こそ疑問系の体を成しているが、その実ほとんど全て理解していての発言だと瀬谷は瞬時に見抜いた。
彼の脳内で演繹的な推理が行われる。
——封筒の宛名は警視庁でもメディアでもなく、尾崎さんだった。その理由が、彼の近くにいる人間が犯人である証左になるのであれば。
数年に亘って捜査網の隙を突き完全に逃れているのは、それがどれだけきめ細かな網であっても、所詮は膜ではないことを知っているから。
現場から不自然なまでに隠匿された証拠の数々は、誰の眼も届かない場所と手段を知っているから。
周囲の誰からも疑われないのは、そもそも灯台が照らす光の先にいないから。
そこから導き出された“あってはならない可能性”を前提とすれば、全ての点は絡まることなく、美しい一本の線になる。
「まさか——嘘だろ……?」
「で、これがミスじゃなくて、わざと尾崎警部に送ったんだとしたら? まさしく挑戦状じゃない? だから言ったでしょ。『近くにいるかもしれない』って」
尾崎の額とこめかみに青紫色の筋がびきびきと浮かび上がる。その血管の一本一本が、意思を持って蠢いているかのように錯覚させるほどの脈動となって全身を駆け巡る。
——俺は、やっぱり信じちゃいなかったんだ。
尾崎はつい先日まで、突然現れた得体の知れない探偵気取りの二人組を、心のどこかで見下していた。自分が、ましてや日本警察が劣るはずがないと。
ところが蓋を開けてみれば、彼らは一つの殺人事件をその日のうちにあっさりと、こともなげに解決してみせた。
錆び付いたゼンマイ仕掛けのように、組織は巨大であればあるほど、隅まで滑らかに動かすことが非常に困難になっていく。
だがそれを差し引いたとしても、果たしてたった半日で、黒幕である古屋に辿り着くことは可能だっただろうか。
幾許もない逡巡の後、尾崎は不可能だと判断を下した。
そして何より、十字殺人鬼にも少しずつではあれど着実に近付いている。
尾崎に宛てられたこのカードも、それすらも見抜けるほど、彼の近くにいる人間による皮肉と捉えることもできた。
尾崎の激しい憤りは他の誰でもなく、愚かな自らに向けられた。いつの間にか驕りや慢心に侵されていた自分に幻滅した。
歳若い二人の探偵がほとんど齢五十になる彼に齎したものは、長い刑事人生の中で一番の怒りであり、屈辱であり、悔恨であり、更なる心の成長の機会であった。
「つまり……いるんだな? この建物のどこかに、分厚いデカの皮を被ったクソ野郎が」
低く、どっしりと沈み込むように落ち着いた声色で、核心に触れる。
「間違いないね」
仮にも、人の道を誤った畜生が身内にいるとなった以上、生半可な覚悟でこの事件に挑むことは許されない。
故に、己を内側から揺るがすものは可能な限り排斥するべきだと、やがて彼は思い至った。
それは尾崎の心を縛り付け、支配する唯一にして最大の陰。
——万が一、沙織を拐ったのがこいつなんだとしたら……?
ある日忽然と、跡形もなく消えた姪。
一切の証拠を残すことなく人を攫い、惨たらしくも殺して回っている狂人。
司法の下において、その力の影で殺しを働く屑。
ささくれ程度の違和感もなく、全てが繋がってしまう。
尾崎の希望を蹴散らし嘲笑うかのように、何もかもが音を立てて崩れる。
崩れた破片は著しく歪んだピースとなり、落ちた先で一枚のパズルが組み上がってゆく。
そこに彼の意思は介在せず、激甚たる不本意のまま、ただ完成した最悪の結末を想起することしかできなかった。
——いいや。違う。これは確かに一つの可能性として瑕疵のないものではあるが、あくまで“ただの可能性の一つ”に過ぎない。結末が定まったわけではない。
尾崎の心は恐怖に染まる寸でのところで留まり、辛うじて別の可能性に縋ることができた。
「お嬢ちゃ——いや。シオリちゃん、瀬谷さん。こんな時に刑事としてあるまじき発言なのは承知の上で、一つ、個人的に頼みたいことがある。どうか引き受けてくれないか。この通りだ」
そう言うと、額をテーブルに擦り付けた。
牧田が大きな眼を丸くする。
「人探しですね」
「はは、お見通しか……」
乾いた笑いが虚しいほどに、彼の双眸は赤く潤んでいた。
「……頼む。姪を、沙織を見付けてくれ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます