枝葉 その2

 一昨日訪れたばかりの寂れた会議室は物々しく様変わりしていた。


 堆く積まれた紙束は厚紙でできた色とりどりのファイルに閉じられ、煩雑とテーブルの上に転がっている。


「第二の被害者がでたことで、第一の被害者の身辺も洗い直した。これと、このファイルだ」


「さすがだね」


 大富豪の連勝からか、今日のシオリはいつにも増して機嫌が良かった。その分、余計な口も滑らかに回る。


「そいつぁどうも」


 尾崎はこの無礼な皮肉を意外にも感じ良く返した。


 何故かは分からないが、彼はシオリを気に入ったらしい。






 第一の被害者、田辺 亜希。生まれも育ちも東京。中高は共に公立を卒業。


 都内の大学に進学し心理学を専攻。その傍、自殺防止のホットラインサービスを運営する会社でアルバイトを開始。卒業後は同社に就職。成績は非常に優秀で、学生時代からの友人や勤務先の同僚たちも彼女のことを良く慕っており、誰かから恨みを買うような人間ではなかったと口を揃えて証言した。


 その他の交友関係——SNSなどについても同様に、これといった問題は見受けられなかったという。




 次に、第二の被害者、大島 志歩。埼玉出身。県内の私立高校を中退し、家出同然で上京。


 友人の家を転々と渡り歩く生活の中、行き着いた先は、二十三区内を中心に南関東各地で強盗や万引き、詐欺などの犯罪を繰り返す悪質な犯罪グループだった。


 グループは怜悧かつ狡猾である為、現在も根絶はできていないが、彼女の荒れ果てた日常は自身の逮捕によって幕を降ろした。


 その後、紆余曲折を経て更生施設でのプログラムを終え、見事社会復帰を果たす。






「絵に描いたような優等生と、崖っぷちにいた元不良ってところ?」


「仮に大島さんを殺したのがその犯罪グループの人間だったとしても、田辺さんには何の接点もなし、か。シオリのいう共通点にはなりませんね」


「ああ。学生時代に繋がりがあったわけでも、SNSで知り合いだったわけでも何でもない。本当に赤の他人だ。これ以上掘ったところで何も出てこないだろう」


「つまり……何の接点もない女性が二人、血を抜かれて遺棄された。これが現状分かってる共通点の全て、だよね?」シオリが含みのある質問する。


「残念ですけど、そうなります」牧田はそう答えながら、ずっしりと肩を落とした。


「ねぇところで、一つ訊いてもいい?」


「お嬢ちゃん、何か気になることでも?」


「この人たちの血液型は?」


「血液型……ええと、田辺さんがA型、大島さんはAB型だそうです」


「ふーむ、なるほど。“大海原で掌に付いた血は洗えるか”」




 シオリが思考パターンに入る。それを察知した瀬谷はすぐに刑事二人に告げた。


「今は三人で考えましょう。シオリはしばらくダメです」


 シオリは自分だけの世界に入り込み、ぶつぶつと呪文を呟きながら会議室内をうろつき始めた。傍目にも、明らかに話せる状態ではないとすぐに分かる。




「こういう時、あんたたちならどうするんだ?」尾崎が訊ねた。


 瀬谷はそれに対してどう答えるのが正解なのか、しばし考える。




 ASIOは、理の埒外にある明確な悪意に容赦はしない。つまり、眼には眼をといった具合に、異常な力で罪を犯す者を封じ込めるのは、同じく異常な力。


 しかし、これをおいそれと話すわけにはいかないし、その必要もない。何故なら今回は普通の人間の犯行。ならば、少し穿った視点から視る。それだけでいい。


「考え方に拘らない、ですかね。それより、多分シオリはお二人に大事なことを伝え忘れています」


 牧田の身体が前にのめり出す。


「足跡です。第二の事件現場には犯人のものと思しき足跡が残されていました。既に鑑識も見付けているかもしれませんが」


「まだそんなの上がってきてないぞ。砂や泥の上の足跡ならまだしも、アスファルトについた足跡なんか、綺麗に採れたとして解析にどれだけ時間がかかるか分からん」尾崎は小さくかぶりを振る。


「シオリ曰く、サイズは約二十七センチで、柔らかく凹凸の多い靴底。歩幅は五から六十センチ。重心は特に種子骨と基節骨の辺りが非常に濃く、その足跡は西側から二人分の体重でやってきて、一人分の足跡で東へ去ったとのことです。二人分——つまり遺体を担いでいれば、その分歩幅は狭まる。仮に、普通に歩いて七から八十センチの歩幅とすれば、日本の平均的な成人男性のものと考えていいのではないでしょうか」


「平均的な成人男性って……」


「はい。ごもっともです。ですが、注目すべきは重心です」瀬谷は訝る尾崎の言を遮り、更に続けた。


「現時点ではあくまで彼女の推測でしかありませんが、犯人は六種体癖である可能性が高いかもしれません」


「体癖……?」二人は揃って、露骨に疑問を呈した。


「極めて簡潔に説明するならば、文字通り全身から割り出せる無意識の癖です。身体の作りや仕草から、性格や思考を読み取ることができます。もちろん全員に当てはまるわけではありませんが、六種の思考は主に損得勘定に基づいたもので、異常事態や非日常、かつ一人を好みます。全面的に信じるのは難しいでしょうが、医学的にも確立されたれっきとした概念です。現状を鑑みれば、一考の価値はあるかと」




 話し終えると、刑事二人は眼を白黒させていた。


 ——体癖論自体はきちんと医学に基づいたものだが、今の発言と推理はあまり論理的とは言い難い。だが、これでいい。警察からは視えない視点。我々に求められているのはここだ。あとは、シオリ次第。


「もう少し詳しく教えてくれないか。身体に表れるというなら、分かる人が見れば見分けが付くんじゃないのか」


「ええ、その通りです。ですが専門の知識がない限り見た目での断定は難しいと思います。加えて、僕もきちんと学んだわけではないので、できることと言えば、例を挙げるくらいです」


「それでいい。聞かせてくれ」尾崎の眼は真剣そのものだった。


「体重を前後に乗せる癖があり常に前傾姿勢寄り、それはそのまま性格に表れている場合もあります。顔の大きな特徴は顎。先細っていたり、しゃくれ気味です。黒眼は小さく、いわゆる三白眼。異常事態などの逆境に対して強いのですがその自覚は薄く、意識し過ぎると上手く動けません。単独行動を好み、やや神経質のきらいがあります」


 捲し立てるように説明を終えると、最後に改めて念を押す。


「繰り返しますがこれはあくまで傾向であり、絶対ではありません。ましてや僕の知識は聞き齧り程度のものです。参考にするくらいに留めておいてください」


「今のが体型から割り出せるんですか。なかなか興味深いですね……。私も少し学んでみたいかも」


 牧田は相当なメモ魔のようで、瀬谷の話を聞いている間もずっと自らのメモ帳に文字を必死に書き綴っていた。




 ここでようやく、一人思考を巡らせていたシオリがついに口を開いた。


「最低でもあと一人、同じように殺される。まぁどの道、捕まるまでやめないだろうけど」


 刑事二人は互いに眼を合わせた。それぞれ何を口にすればいいのか判然としていない様子だったが、瀬谷は何も聞いていなかったかのような涼しい顔で理由を問う。

 シオリもまた、それに対して特に眉間を深めることなくさらりと答えを述べた。


「新約聖書の磔刑。欲しかった二つ目の共通点のおかげで分かった」


「磔刑? 聖書ってことはキリストの……ですか?」牧田が疑問を呈する。


「そ。瀬谷」


 その後に続く言葉を察した彼はしばらくの間の後、自らのスマートフォンを横に傾け尾崎と牧田に向けた。

 画面にはアンドレア・マンテーニャの「磔刑」が映し出されている。


「神の子の最期は一人じゃない。左右にそれぞれ盗人が同じように磔にされてるの。左側がディスマス、右側がゲスタス、っていうのが一般的な認識みたい」




 尾崎の脳内では点と点が繋がりつつあったが、それらは霞がかっていて今ひとつ思考のツボを突かない。

 手を首元から顎の辺りでひらひらと振って、「ここまで来てる」と言いたくなるのに似た不快感が彼を苛む。




「少し昔話するよ。このディスマスとゲスタスはさっきも言ったように盗みを働いたせいでキリストと一緒に磔にされたんだけど、その時ディスマスは自らの過ちを悔い改めるとキリストに告げた。一方でゲスタスは自らを改める気なんて更々なかった。結果、ディスマスはキリストの口添えで共に天国へ。ゲスタスは愚か者のまま一人寂しく地獄行き。要するに、この二人は“改心した悪党”と“根っからの悪党”ってこと」


 シオリはここで一拍置いて、更に続ける。


「それで、ここからが本題。二つの死体はどちらも全身で十字を作っていた。でも一人は完璧な水平、もう一人の腕は少し上向きだった。確実に——人間に可能な範囲で確実に証拠を残さず人を殺せるのに、一番大切な行程であり目的でもある象徴の確認を怠るわけがない。じゃあ腕の角度差は何か。真十字は“聖人”としてキリストを、上向きは“改心”としてディスマスを意味していると思うんだ。いや、多分絶対。となると、犯人は最後の磔刑を表す為に必ずもう一人手にかける」


「“悪党”」瀬谷が小さく呟いた。


「そゆこと」




 ここで、尾崎の脳内に散逸していたぼやけた点同士が繋がった。


 ——しかし、しかしこれはまるで……シャーロック・ホームズ……御伽噺だ。


 決して感動ではない。高揚でもない。尾崎はむしろ正反対の感情を抱いた。懐疑。




 彼が昨日の事件でどこか違和感を抱いたのは事実だった。それが二人目の遺体の腕だったと、暫定的ながらも明らかになった今、幾らか靄が晴れる気分でもあった。


 だがこの話を全て信じろというのは到底不可能だ。彼らが何者なのかは知らないが——本当に探偵だったとしても、こんな奇天烈な推理を鵜呑みにはできない。


 反面、正体不明の二人組は、天より垂れる一本の蜘蛛の糸よりか細くとも、手掛かりを齎したのもまた事実。もし本当にこれで事件が終わらず、手をこまねいている内におめおめと逃してしまったら。


 あまつさえ、シオリの言う通り次の犠牲者を出してしまったら。


 尾崎の心は揺れに揺れていた。


 ——ぶっ飛んだ話だが、お嬢ちゃんの仮説は確かに筋は通る。利害や痴情のもつれからの殺しであれば死体が見付かるリスクは避けたいはずだし、こいつならそう難しいことではないだろう。それをわざと目立つように遺棄している辺り、警察を弄んでいると考えることもできる……。素性の知れない探偵もどきを煙たがるのはあくまで俺自身の問題。第一は事件解決。私情が妨げになるのなら、それはここで一切捨てるべきかもしれない。


 尾崎はどちらかといえば古いタイプの刑事で、いわゆる典型的な堅物であり、それは自他共に認めるところだった。

 だからといって決して融通が利かない男ではなく、事実、彼の心は傾きかけていた。




「次に狙われるのは悪党だと言ったな。それも女性だと考えていいのか?」


「多分。単独犯だろうし、体格からして悪い男を相手取れる感じはしないから。それに三人目だけ男っていうのは、あんまり考え難いよね」


「ちょっと待ってください」唸る尾崎をよそに、牧田が声を上げた。


「それだと、血液には何の意味があるんでしょう?」


 それに対しシオリは無責任にも「分かんない」と言い捨てる。


「あ。でも聖書の話をするなら、一応ロンギヌスの逸話に繋げられなくはないけど……血液型は違うみたいだしね」


 牧田の釈然としない顔を見かねた瀬谷が、シオリに代わって疑問に答えた。


「キリストの血が瞳に垂れたことで白内障が治った騎士がいるんです。シオリが言いたいのは、誰かの何かを治す目的で血液を集めているわけではない、といったところでしょう。血液型が違えば輸血もできませんし、何より余程被害者と近しい間柄でもなければ、赤の他人の血液型なんて知る由もない」


「探してるんだとしたらどうだ? 珍しい血液型はいくつかあるだろう」


「あり得なくはないけど、それならドナーとかに登録してるんじゃない?」


「それもそうか……何をどう考えればいいか分からなくなるな」尾崎は両手で顔を覆った。




「少し休みますか。紅茶でも淹れましょう」


 瀬谷がバッグから彩り鮮やかな缶を取り出すと、うっすら土気色をしていた牧田の顔色が少し良くなった。


「わたしはいらないから散歩してきていい? すごく気になることがあるんだけど」


 ここが公園ならば、ただただ無邪気な発言。

 しかし瀬谷の鋼の表情は、言外に否定を露わにしている。


 ——冗談じゃない。日本警察の中枢で嘘をばら撒いて回る気かこいつは。


「ああ、すまん。そういえば忘れてた」


 尾崎がジャケットの内ポケットからカードを二枚取り出す。白地に青い文字で“VISITOR”と書かれているそれをシオリと瀬谷にそれぞれ手渡した。


 不吉な予感が瀬谷の背筋をゆっくりとなぞる。


「瀬谷ぁ」


 人差し指と中指でカードをチラつかせ、完全に勝ち誇った顔をしている。だがそれは長くは続かなかった。


「取り敢えず、ここや現場を出入りするのに面倒がなくなるからな。今少し、ここで我慢してくれ」


 シオリの警視庁見学は尾崎によって遠回しに却下された。瀬谷は安堵のあまり実際に胸を撫で下ろしかけ、彼女の表情は一転、酷くむくれていた。

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