交差 その2
遺体に残された傷は、両頸動脈に渡って付けられた長く深い切創のみ。
そしてその身体はまたしても磔刑を模した十字で横たえられていた。被害者の持ち物も何一つ盗まれている様子はない。手口や状況からして、犯人は同一人物だと推察するのが妥当であった。
誰もがそう考えて疑わない中、唯一シオリだけが釈然としない表情で遺体を観察していた。
すると彼女はおもむろに跪き、顔が触れるほど近くで匂いを嗅ぐ仕草をしてみせた。
あまりに非常識的な行動に衝撃を受け、周囲を包む分厚い空気の壁に大きな亀裂が走る。
「ちょっ、君何を!」遺体のすぐ傍にいた鑑識官が慌てて止めに入ろうとするが、瀬谷がそれを左手で制する。
「大丈夫です。荒らしたりしません」
「わ、香水凄っ。バラ……だけじゃない。ヘモグロビンの匂いは薄い。今回も血抜きかな。シャンプーしてから時間が経ってる……痛みと恐怖……緊張……それから興奮が少しと……煙草……メンソールかな、すーっとするやつ。ここにいる人でメンソールの煙草吸ってる人いる?」
観客を巻き込むマジックショーようなシオリからの唐突な質問に、事態が全く飲み込めず茫然と眺めていた刑事が二人、恐る恐る手を挙げる。
それぞれポケットから煙草の箱を取り出し彼女に手渡す直前、牧田が思い出したように声を上げた。
「彼女、煙草持ってましたよね……?」
その一言で現場に漂っていた奇妙な緩みが消え、事件現場然とした冷ややかな緊張感が足元から迫り上がってくる。
「あ、ああ。そうでした。ええと……これです」
遺体の左脇腹の辺りに転がっている小さなバッグから、中身が半分ほどなくなっている煙草の箱が取り出され、ほどなくシオリの手に渡る。
「これだ、メンソール。でも……色々混ざってるかも」
その言葉を最後に、シオリは黙り込んで周囲を穴だらけにするような眼付きで観察をし始めた。
見知らぬ謎の少女による常識を欠いたパフォーマンスが終わると、十字の遺体を取り囲む大人たちは各々のペースを取り戻し、本来の仕事に戻っていった。
「なぁ、ちょっといいか」そんな中、尾崎は心底困惑した様子で瀬谷に声をかけた。
瀬谷もそれなりに背が高い方ではあったが、尾崎と比べてしまうと一回りほど小さい。彼らは辺りでも特に人気のない場所に移り密談を始めた。
「ええと、あんた瀬谷さんっていったか。昨日、多田さんからちっとは話聞いたんだが、あんな女の子を殺人事件なんかに関わらせて大丈夫なのか? しかも言っちゃなんだがさっきのあれ。ちょっと——いや、だいぶ引いたぜ」
尾崎は努めて穏やかな語調で懐疑心を示した。外見的にも職業的にも、迂闊に一方的な質問でもしようものなら、場所を問わずそこは取調室になってしまうのだ。
「聞き込みに来た警察官に疑われた」と苦情が入ったことも、一度や二度では済まなかったが、“鬼崎”と揶揄されていた若かりし日の彼は、そんな些末な苦情を素直に聞き入れるだけの余裕がなかった。
そんな彼も年をとったと認めざるを得ない年齢になると、その頃にはいくらか角の取れた男になっていた。
——しかし……妙な奴だな。自分で言うのもなんだが、俺とサシで向き合って表情が一切変わらないとは。よっぽど肝が据わってるんだろうか……?
「ご指摘はもっともです。ですが彼女——シオリの行動については、どうか“そういうものだ”と眼を瞑っていただきたい。シオリは最後には必ず警察の、被害者の、そしてご遺族の力になると断言します。そこに至るまでの苦情や叱責なら全て僕が受けます。ですのでどうか」
瀬谷は“鬼”と相対してなお眉毛の一本も動かさず、終始毅然とした態度で言ってのけ、頭を下げた。
その姿勢に、尾崎は浅からず感心を覚えた。
自らの保身の為の言い訳は一切吐かず、パートナーを全面的に庇ったこの所業。絶対的とも言える信頼関係が成せるのか、或いは現場の人間をも驚かせるだけの何かがあるのか……。
尾崎は自らの目頭をぐっと摘み、昨夜、警視正と交わしたやり取りを反芻する。
——お前と牧田君に、ある探偵と組んでほしい。
——は? 何を言ってるんですか多田さん。俺ら何かしましたっけ。
——早合点するな。お払い箱なんかじゃない。実は少し前から上層部で、試験的にやってみてはどうか、という声が多くてな。心配するな、相当優秀な二人組だとお墨付きまでいただいている。まぁ多少変わりもんではあるが……とにかく、お前だから頼めるんだ尾崎。ここは一つ、俺に貸しを作るつもりで、な?
刑事事件に首を突っ込む探偵など所詮は御伽噺だ。
確かにシャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロは憧れを与えてくれる。脅威の観察力と明晰な推理力、それらを活かして奔放に駆け回る姿は、幾ら時代が移ろえど魅力が褪せることはない。
尾崎はそれが理解できないほど淡白ではないが、あくまで創作として捉えているのであって、現実に存在する探偵——少なくとも日本ではそうもいかない。
正直なところ日本警察としては、介入してくる余所者に過ぎない彼らのことを疎むなという方が無理な話だった。
一方で、その対角線上には別の考えも存在していた。
いついかなる時でも、多田の判断が誤った方向に転んでいったことは、尾崎が知る中では一度たりともない。
何より、威勢と図体だけはでかい生意気な青二才を、十年以上に亘って根気よく鍛えてくれたのは、他でもない多田だった。一言で表すならば恩義や仁義といったところか。
どのような真意があるにせよ、彼の顔を立てるという考え方もできなくはない。
——信じる、か。多田さんも俺もこいつも、全員立場は同じってわけだ。しかし……貸しを作るつもりとはよく言ったもんだな。そもそも返し切れるかすら怪しいんだぞ。
押し黙っていた尾崎は大きな溜め息をつくと、失った酸素を十分に取り戻した後ようやく口を開いた。
「……取り敢えず、分かった。一線を越えさえしなければ眼を瞑ろう。その代わり——分かってるよな」
「はい、もちろんです。ご理解いただきありがとうございます。僕も尽力します」
それを聞いた尾崎は「待っててくれ」と言うと、瀬谷の左肩にどんと手を乗せ、その場を離れていった。
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