常連 キエ 1

 2014年12月6日 


 スタンドランプのオレンジ色が、雪が吹き付けられた出窓を照らしている。師走の風が窓をたたき、『欽』の生成りの暖簾がはためいている。

 美代子が店から出て荒れた空を見上げ、暖簾の内側に積んであった段ボールを店内に入れる。最後のひと箱を運び入れたところで胴震いした。

「今年の天気は異常だね。寒すぎる」

 馴染み客の山本キエが大食卓の角に座っていた。日本酒の入った湯呑の柄の、鳥獣戯画を眺めてくるくると回し最後の一口を飲み干した。食卓にことりと置き、両手を卓につき立ち上がりながら言う。

「帰るとするか。この歳で風に飛ばされて転んだりしたら俊に何を言われるか」

 被っていた毛糸の帽子をグイッと引っ張り両耳を隠す。一時間ばかり前に来て、厚手のカシミヤのコートを脱ぎもせずに、大振りの湯飲み茶わんいっぱいの日本酒を注文したのだ。息子が今週は居るからと、つまみの一つも頼まない。急いでいるわけでもない。いつもそうなのだ。息子が来なくても酒だけの時が多い。週に二回は飲みに来る。

「美代ちゃん、忙しそうにしているとこ見ると、予約でもはいっているの」

「この前の大風の日、入り口の野菜の箱が倒れて甕を割っちゃった。古物商で見つけたお気に入りだったのに、残念なことをしたの。今夜も荒れそうだから片付けておこうと思ってね。予約は明日、学生さんのグループが来ることになっている」

 キエはカウンターの上にあるガラスの灰皿にポケットから出した小銭をじゃらんと入れた。馴染み客は皆、そこへ金を入れて帰る。釣りも勝手にとっていく。美代子は数えもしない。

「冗談じゃなく、キエちゃんなら飛ばされかねないよ。何でも好きなもの作るから、食べながら飲むといいのに」

 家では食べているというが、最近だんだん痩せて来ていた。顎が尖って、首筋の静脈が浮き出ている。だが、80に近いというのに2合近い酒で酔った姿は店の中では見たことがない。


 美代子が『欽』を開店した30年前、山本キエは道庁の職員だった。『欽』が入っているこのサンライズマンションの8階に住んでいた。

 後に、問わず語りに知ったことだが、離婚して独り息子の俊彦を引き取り、越して来たばかりの頃『欽』が開店したという。

 引越しの翌年、成人の日の遅い時間に、二人で店に来たのが最初だった。

 俊彦とキエはスーツ姿だった。成人式だという俊彦は友達との流れでいくらか飲んで首を赤くしていた。

「腹が減っている。酒はもういいかな」

 飲みなれない酒を飲んだからか、ひどく空腹だという。『欽』特製の鍋焼きうどんの大盛りを食べ、キエは日本酒をつまみなしで飲んだ。

 二人はほとんど話をせず、キエが食卓に銚子を置く音と、俊彦がうどんをすする音がするだけだった。

「こういう時、父親ならどんな話をするんだろ」

 俊彦が手洗いに立って席を外した時、キエが呟いた。美代子はカウンターの中で、翌日の仕込みをしていた。

「お父さんは亡くなったの」

 美代子は思わず聞いてしまった。キエは美代子を見、驚いた顔をして首を横に振った。

 長い黒髪をひっつめにして、化粧気はない。口数が少ない客だったから、注文を聞く以外にこれと言う話はしていない。好奇心で聞いたわけではなかった。キエの独り言は誰に向かって言ったのでもなく、声になったことさえ本人は知らなかったのかもしれない。

 亡くなったのではないことは分かったが、次の言葉が継げなかった。俊彦が戻り、二人は帰って行った。


「俊が来たんでしょ。あんたがそんなお説教めいたこと言うなんて」

 キエの目尻の皴が深くなった。

「飲ますなって言ったか、店に入れるなって言ったか、どっち」

「来ましたよ、昨日。静かに飲んでいました。シメは定番の鍋焼きうどん。余計なことは一言も言わない。キエちゃんの若い時と同じね。だからこちらも何も言わない、聞かない」

 キエは「へぇ」といい、今度は掠れた声を立てて笑った。

「じゃあ帰るわ。マンションの玄関までの10メートルを持ちこたえれば後は大丈夫」

 美代子は浅葱色のストールを被り、送りがてら表へ出た。

北風が強く冷え込んでいるが、金曜日の宵とあって人通りは多い。キエはマンションの入り口に消える前、小さく手を振った。


 美代子は空を見上げる。風に流れる雲の隙間に漆黒の空が見えた。遠くで選挙カーからの声が聞こえる。風に千切れて言葉までは分からない。

 キエには言わなかったが、俊彦は一つだけ話をしていった。母親が癌で後3か月の余命と宣告されたということを。

 初秋から食思が悪く、11月の末に南四条の消化器専門の病院で検査をし、膵臓癌がわかった。進行しているので、手術をしても元の生活ができるようにはならないだろうと言われた。告知についても選択を求められたと。

「今日、返事をしてきました。いつまでできるかわからないが、今迄と同じように暮らしてもらう。手術も告知もしないと」

 俊彦は、白髪交じりの髪をかき上げて、小さな吐息をついた。

キエが離婚してからは父親との行き来はない。俊彦は大学を卒業し就職して間もなく結婚し、マンションから出た。キエは独り暮らしになった。『欽』へ呑みに来るのが、ほとんど習慣のようになったのはその頃だ。

 キエにとって孫になる二人の子どもが自立した2年前からは、母親のマンションと自分の家を半々くらいで行き来するようになった。

「おばちゃん、世話になることがあると思います。よろしく頼みます」

 俊彦はそう言って頭を下げ、帰って行った。暫くの間、熊鈴の余韻が耳から消えなかった。

 自分には何ができるだろう。30年来の付き合いといっても、店の外で会うのは、北三条通り公園の草取りや、ゴミ拾いの時か、年2回の町内会の祭りの手伝いをする時ぐらいだった。キエが客でいる時は、互いが知っている人々の話と自分自身のことを話す。互いの生活に干渉はしなかった。

 あっという間に年月がたった。キエが病だという。住民が避けた公園の雪の山から風で雪煙が立っていた。寒さにぶるっと震え、美代子は店に入った。

 キエは賢い。勘もいい。俊彦の言うように今までと同じように付き合うのが一番いいかもしれない。下手に普段と違うことを言うと今夜のように悟られる。キエが使った湯飲みを片付けながら、美代子が日本酒を心なしいつもより少なめに注いだのもきっとわかっているだろうと思った。

 キエは指定席のようになっている大きな食卓の、カウンター側の角に坐って、客足の合間に美代子と何気ない会話をする。髪は白髪が多くなったが、相変わらずひっつめで、二重瞼の大きな目に老眼鏡をかけて新聞を読んだり、雑誌を読んだり、時折馴染みの客と談笑することもある。週に2回、つまみなしで湯飲み茶わんいっぱいの日本酒。

 今までと同じように、来てもらいたい。出来るだけ長い間。痛みはなく、楽しく。

      

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