ふたり
2015年1月4日
「その時の石がこれなの」
美代子は出窓の前の堅木の食卓の角に坐って、悟と修司に話をしていた。こうして話してみると、恭太や父は自分自身が悪いと美代子に訴えながら、これでもかと美代子の罪悪感を高めてしまっているのが良くわかる。意識的でないにしろ、12歳、17歳の時の娘にとっては切なく酷な打ち明け話だった。
「これでおしまい」
今どきの若者には重い話だったろうと、二人を見た時、室内が急に明るくなった。
「晴れた。天気予報が当たった」
修司が窓辺へ顔を向けた。美代子が振り返ると、窓硝子の雪の合間から西陽が差し込んでいる。
「小母さん、話してくれてありがとうございました。辛い話なのに。この石にそんな物語があったなんて」
悟は、美代子をまっすぐに見つめ、頭を下げた。
「お礼は私の方が言わなくちゃ。シリアスな話なのに聞いてくれてありがとう。辛いという気持ちは、今はもうないの。歳を重ねたということかしらね。自分の身の始末を考える年になって、この石をこのままここに置いておけない。どうするのが一番いいのかと家の人とも話しているの。今まで、お客さんでこれは何かと聞く人はたくさんいたけど、知りたがったのは悟君だけだった。話をしているうちにいろんなことが整理されて、理会が深まった気がする」
美代子は立って、石のそばへ寄り掌で撫でた。壁に貼られている写真の、欽一の大きな眼が美代子を見つめる。
「『森の子』は森へ返そうと思う」
窓ガラスにくっついた雪が、部屋の暖かさと陽射しで、少しずつ形を変えていくのをじっと見つめていた修司が、美代子を振り返った。
「前に話した母のことなんですけど。僕は、母を恨んでいたと思います。自分を置いてさっさといなくなったから」
修司はもう一度、窓の、流れるように下がっていく雪の残骸に目をやる。
「ずっと、母が亡くなった原因の職場の高木さんや、急に休んだ人や、あの年の暑さや、大学に行きたがった自分を責めていたけれど、一番悪いのは母だと責めているのに気が付きました」
修司は棚の上の、ぼんぼりがついた帽子からタオルを抜き取り、何気なく被る。
「実は、笑顔の遺影を伏せてあります。幸せそうな顔を見るとたまらなくなる。そんなことをしたのは、母を許していないからですよね」
独白に近かった。しかし、修司のまなざしは和んで優しい。
「一つの事にいろんな見方があるのが良くわかりました。大事な人を失うとまっすぐ物が見られなくなるのかな。でも、誰を責めても、事実は変わらない。小母さんの話を聞きながら思っていました。母の遺影をもとに戻します」
悟が頷いた。
「こんなに長い時間話したことあったかしら。喉が渇いた。お茶を入れるわね」
美代子は湯を沸かしに立った。
「さっきも修司と話していたけど、家族が減ると家の中が広くなった感じがして自分を小さく思うのはよくわかります。空間が広くなったというより、自分の心の中の隙間が大きくなる」
悟は話しながら、湯飲み茶わんを取り出しに小上りに上がった。盆に三個の湯飲みと急須を入れ、修司に手渡した。
「今の話を聞いていて、その隙間には恨みや哀しみが巣食うんだと思いました。自分のさみしさを埋めるために。修司と違って、僕はそれが父に向かっているのかもしれない」
誰かの返事を待つわけではない。悟は小上りから降り、座り込んでブーツを履いた。
湯の沸く音がした。美代子は冷蔵庫から紙箱を出し、青磁の平皿に中の菓子を並べた。急須に茶葉を入れ、沸いた湯で茶碗を温めた。湯こぼしに湯を捨てる。もう一度茶碗に湯を入れ、それを急須に注ぐ。修司は美代子の手際の良さを見つめていた。
「さあ、お茶にしましょう」
悟が食卓に着くと、美代子がめいめいの前に茶を置いた。
「初釜の時食べる花びら餅よ。毎年仕事始めにお客さんに出しているの。食べたことあるかな?」
二人は顔を見合わせて困ったような表情を浮かべている。
「初釜というのは、新年の最初のお茶会のことで・・・。まぁいいわ、食べましょう」
茶を飲み、花びら餅を口にすると悟は「うまっ」といい、あっという間に食べ終えてしまった。
「味噌餡ですか。初めて食べる味だ」
修司も口にする。
「ほんとだ、うまっ」
「真似するな」
「お茶でゆっくり味わってほしかったけど、新年だしこれもまぁいいとする」
森の子の話には戻らなかった。茶を飲み談笑する。凹んだ部分にピタッとはまる凸のように、悟と修二は息が合っている。出窓の硝子についた雪が溶け、格子がオレンジ色にきらついていた。
夕暮れ時、美代子は、二人を見送りがてら雪を掻こうと外へ出た。風はおさまり、西の空は残照で赤く染まっている。マンションの管理人や、東角の洋服屋『アン』の店主が雪掻きをしているのが張出しから見えた。『欽』のすぐ前には、雪が降り積もって足跡の一つもない。
悟が張出しの中に立て掛けてあったアルミのスコップを持ち、吹きだまった中の雪を外へ出し始めた。すでに歩道除雪されていて、車道側に高い雪山ができていた。13丁目の歩道に、小形除雪車が飛ばす雪煙が見える。
「悟君、助かるわ。歩道に道をつないでくれたら、後はボチボチやるから」
悟が、集めた雪を雪山の比較的低いところへ載せていると、修司がスコップを取り上げた。
「僕にもやらせて」といってすごい勢いで雪を放り始めた。
「修司。通路に落とすなよ」
悟は、今度は、掻き残した雪をスノープッシャーで押して、修司の足元に集める。
「家の旦那さん、年末年始は運動不足だから、少しは残しておいてね」
美代子が言ったが、修司と悟は、角地の『欽』の前を広く開け、次に車道側に落ちた雪を雪山の壁に叩いてくっつけた。
「あとは旦那さんに任せます」
息を切らし、顔は湯気が出そうなほど赤くなっている修司が、スコップを美代子に手渡した。すでに夕焼けは手稲山に隠れ、鈍色の空と稜線の間に仄かに朱が残っている。
公園の中のナナカマドの木の下に赤いものがたくさん散っているのが眼に入った。真っ先に修司が気付き、木を見上げた。鳥の気配はない。
「吹雪の後、何かがナナカマドを食べたんだ」
修司が木の上を指差しながら言った。
「こんなに雪を汚すのはレンジャクかヒヨドリかツグミか」
美代子が木の下を見て言う。三人でナナカマドの樹を見上げる。鳥が食べ残した紅い実は半分雪化粧をして、黄昏空に揺れていた。
悟と修司が、連れ立って駅の方へ向かうのを見送りながら思っていた。二人には話さなかったことがある。開店の翌年の三月に、櫻田恭太が『欽』の暖簾をくぐったことだ。美代子の胸の内に熾火として活き続けている隠し事だった。
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