長編小説 定食屋「欽」譚
阿賀沢 周子
悟
2014年10月6日
「今晩は。三人いいですか。少し早いのですけど」シャリンと鳴る扉を開けたのは、時々昼食を食べに来る背の高い若者、澤木悟だった。
「どうぞ。お好きなところに坐って。今夜は貸切りかもしれないから」
悟の後ろから、50歳前後の男と、もう少し年嵩で二重瞼のきりっとした顔つきの女が入ってきた。「親父です」と悟が小さな声で美代子に伝えたが女は紹介しなかった。3人は奥の小上りに坐った。
「何にします? ご飯という方はいますか」
「そうですね。君は何にするの。私は、最初はビールかな。適当におつまみもお願いしますね。嬉しいわぁ。3人で飲めるなんて」
「僕は飯にします。腹減っているんで」
中年女が何かと楽しそうに悟に話し掛けているが、悟は曖昧な笑顔で頷くだけだ。父親の健二がビールというと、美代子はカウンターの横の冷蔵庫からビールの中瓶を二本出した。悟は心得たようにそばの古風な食器棚からビールグラスを出して栓を抜く。
「自分たちでやるの? 一人で居酒屋やっているのかしら。大変でしょうに」
悟の動きを追い、女主人以外の働き手がいないのを見て女が思わず口にした。
「奥さん、ここは定食屋だから」
美代子は女に声をかけ厨房へ入った。ぶっきらぼうな口調に、女の顔つきが一瞬固まったがすぐに「奥さんだって」と嬉しそうに笑う。
「飲みすぎないで、って言うことだよ。吞兵衛だということはバレバレだ」
健二が千春をなだめていると、厨房から声がする。
「飲み屋というつもりで、夜やっているんじゃないの。今時の母親や女房って共稼ぎとかで忙しくて、出来合いのもので間に合わせることが多いし、札チョンにもたまにはまともなモノ食べてもらいたいと思ってね」
無愛想にも聞こえる単調な声に千春はまた不快になったようだ。表情がこわばった。
札幌には昔から札チョンという言葉がある。札幌チョンガーの略で、独身の男子を示す朝鮮語「チョンガー」という言葉が語源だ。文字通りの意味ではなく、家族を置いて単身で札幌へ赴任してくる会社員を示す。北三条通公園の近辺は単身者用のマンションが幾棟かあり『欽』の客には単身赴任の住民も多い。
「取り敢えず乾杯」
悟と健二が一気にコップを空けると、不機嫌だった千春も気を取り直すようにグラスに口をつけた。健二は悟にこの店をどうして知ったのか訊いた。
「就職して間もなく、会社の先輩に昼飯に連れられてきたのが最初かな。味付けが親父も気に入ると思ってさ」
悟は父親を誘ったのだ。まさか彼女が付いてくるとは思っていなかった。父が女性と付き合っているのは承知していたが、紹介されるほど関係が進んでいるのかは知らされていない。
「この人は高山千春さん」
乾杯が済んだところで、健二が取ってつけたようにぼそっと言う。千春は悟に向かって頭を下げて「よろしくね」と笑顔を見せてビールを一気に空けた。悟は曖昧に頷いて店内へ眼を向けた。
ここの料理は一昨年亡くなった悟の母、恵美の味付けに似ていた。母親の死後は、健二と二人でいい加減な食生活をしていた。ここに通うようになって、母手作りの料理のありがたさ、心使いの深さがわかるようになってきていた。
西側の壁に、山、森、小川、古びた住宅、
今まで、じっくり店内を眺めたことはなかったので、写真を見に小上がりから降りた。女の子はどの写真でも、恥ずかしそうに体をくねらせ、眩しそうな眼付をして写っていた。くっきりとした眉に大きな目の男の子は、ニコリともせず、まっすぐにカメラを見詰めている。一枚だけ子どもが三人で並んでいるのがあった。女の子を挟んで右はたぶん兄、左には頭髪を坊ちゃん刈りにしたひ弱そうな男の子が草原に坐って写っている。女の子の肩に二人の男の子の腕が回され、女の子は笑顔だ。
写真の下に置いてある木製の本棚に、両手ほどの大きさの石が布の敷物の上に置いてある。ざらざらとした肌合いの黒っぽい石で、少し引っ込んだ真ん中に文字が彫ってあった。『森の子』と読めた。文字はつるつるに磨かれて黒い。
「今日は鱈ちりです。寒くなってくると鍋が一番でしょ」
美代子がカセットコンロを食卓に据えた。食器棚の前の、小さな卓上の籠の中に山積みになった食器から、三人分の取り皿や箸を出して食卓に置き「お茶飲みたかったら、自分で入れてね」と悟に言い厨房へもどった。
「なあに、あれ。悟君、いつもこうなの? こちらはお客様よ。だから、手が足りないってことでしょう」
千春が取り皿を配りながら小声で非難めいた口調でいうが、悟は聞こえない振りをした。
常連客は美代子に促されて、食器を出したり茶を入れたりするうちに慣れてしまい、自分の家のように振る舞えるのが心地良いと言う。他の客が来れば飲み物を進め、話に花が咲くこともある。美代子のそっけなさや、店内のしどけない雑多さが気楽という客も勿論いる。やはり、手抜きしない料理の味に魅かれて通って来るという客が一番多い。
店内は雑然としているがむさ苦しくはない。食器棚の硝子戸もグラスも磨かれてシミ一つない。美代子は格別掃除好きではなかったが、光沢のあるものがくすんでいるのは嫌いだった。入り口横の出窓に映るスタンドランプの灯りが、店の奥まで温かさを運ぶ。街路樹が外灯に照らされて風に大きく揺れているのがみえる。窓を打つ雨が幾筋もオレンジ色に流れていた。
美代子が土鍋を持って来た。「お兄さん、できましたよ」と悟を呼ぶ。
「向こうでガスレンジにかけていたから、熱いので気を付けてね。あと2.3分もすれば食べられます」ガスコンロに土鍋を置き、火をつけて火力を調節した。
「小母さん、あの石に刻んだ『森の子』って何のことですか」
悟は小上りへ戻り、美代子に話しかけた。
「ああ、あれのこと。お守り、かな」美代子の頬に得体のしれない表情が浮かんで、すぐに消えた。悟には、ほほえみではない歪み? 一口には説明のできない複雑なものが見えて心に残った。
「あと2品ばかり作っているから」
美代子はビールを1本出し、栓を抜いて悟に渡す。悟は父親のコップにビールを注ぐ。ポン酢の入った備前焼の片口を置いて、美代子は厨房へ戻った。
「悟と飲むのは久しぶりだ。仕事が忙しそうでなかなかきっかけがなかった」
健二は千春と付き合うようになってから、家に帰るのが遅くなっていた。9月に入った頃から一緒に夕食を食べなくなった。悟は健二がこの週末は久し振りに家にいるというから、恵美の味付けに似たここの料理を食べさせたくて誘った。
「悟君の仕事が大変だからって、なかなか逢わせてくれなかったのよ。今日、久しぶりに息子と飲むというから押しかけちゃった。話もあるしね」
千春は意味ありげな目付きで健二を見る。流行りのケープを着て体形を隠しているが、腹回りはかなりの物だった。母はどちらかというと痩せぎすで、小柄な体だがいつもくるくると動き回り、家の中も庭もよく手入れされていた。健二が千春を選んだ理由は、母と正反対だからか、と悟は勘繰ったりするが、そう考えてしまう自分が嫌になってもいた。
「お待ちどうさま。ご飯は好きなだけおかわりしてね。炊飯ジャーにあるから」
美代子はまず、盆の取り皿を卓の健二の前に置いた。健二はそれぞれへ、ぎこちない手つきで配る。家で家事をしない男の不器用な仕草だ。盆の中から白菜の漬物とイカの香り焼き、秋刀魚の刺身が置かれていく。
悟は隅の食器籠から大ぶりの飯茶碗を選び、ジャーの飯を盛った。大きいほうの取り皿へイカと白菜を取り、葱を散らしたサンマは小皿へ取りポン酢を少しかける。白菜の漬物が冷たくてうまかった。やはり母の味に似ている。毎年、雪が降る少し前に母は家の裏庭で白菜を漬け込んでいた。細い指を真っ赤にして、塩をパッパッと振る姿を思い出す。
「悟君、お鍋もういいんじゃない。よそってあげる」
千春が悟を現実に戻す。
「自分でするからいいです」
悟の旺盛な食べっぷりを見ていた健二がいう。
「俺も飯にするかな。白菜の漬物がうまそうだ」
「何を言っているのよ。これからじゃない。漬物はおつまみで食べてよ。折角3人そろったのに」
悟は、口の中で『折角ってなんだ、望んだわけではない』とつぶやく。鍋の蓋を取り、蓋と同じ柄の織部焼のとんすいに湯気の中から野菜や鱈を取る。ポン酢の程よい酸味が、白菜や豆腐の甘みに相まってうまかった。
「健二さん。悟君に、もう話をしてよ。食べ終わったら帰りそうな勢いで食べているもの」
確かに、悟は帰るつもりだった。『おばさんの辛口が嫌でなかったら二人でゆっくりすればよい』と心の中で毒づいてしまう。どうしても好意を持てない千春と、長く一緒にいると、自分が何を言い出すか心配だった。
悟は2杯目の飯を、刺身とイカで食べた。イカはニンニクとショウガと醤油の濃厚な味が白い飯を誘う。残った白菜漬けを見てもう少し食べようかと思ったが、健二にビールを勧められたのでやめた。
「実は、話がある」と言いながら、悟と自分のグラスにビールを注ぐことに気を取られているかと思えば、小上りの際に空き瓶を置き、グラスを口にして一口飲む。いつまでも目を合わせず、話し出しもせず、時間稼ぎでもしているかのような健二に悟は憮然とした。
「一緒と暮らそうと思ってる。千春のマンションは大通りの9丁目にあるんだけど、広いし、通勤も楽になるから」
やっと話し始めて、ちらっと悟に目を向ける。
「結婚するということか」
いきなり本題に入られたのが予想外だったのか、健二は悟の質問にどぎまぎし千春を見やる。千春は顎で健二に先を促す。
「まあ、引っ越して落ち着いたらな。それで相談だけど、お前どうする? 今の家に残るか。どちらでも俺たちはいいぞ」
返事を待つでもなく、だしぬけに健二は両手で顔をこすった。さも
悟はコップのビールを空けた。満腹だからかもしれないが、微温くて不味かった。父親の気の遣いようが、気弱さが腹立たしい。立ち上がって冷蔵庫へ降りて行き、ビールを出して席に戻る。自分も時間稼ぎをしているなと思いながらゆっくり栓を抜き、コップに注いで一気にあおった。冷えてはいたが味は鈍い。腹はうまい飯で満腹になっている
息子として、大人として、男同士としてここで祝福すべきか迷ったが、既に決めたことを、申し訳なさそうな顔で取り繕う父親を前にしていると、簡単には頷けなかった。
「親父が思っているとおり、俺は家に残る。母さんの仏壇と家を守る」
表で大きな音がした。美代子が声を挙げるのと悟が厨房に声をかけるのが同時だった。
「何かが落ちたみたいです」
美代子は前掛けで手を拭きながら厨房から出てきた。
「お芋の箱かな、積み上げたから」
美代子は、客の鍋と食卓の様子をちらりと見て扉へ向かった。
悟は音の大きさが気になって後をついて行った。一先ず話が済んだと安心したのか、千春と健二は鱈ちりをつつきはじめ、何鍋が好きかという話をしていた。
熊避け鈴を鳴らして張り出しへ出ると、暖簾の内側の壁に沿って積んであった野菜の箱が崩れ、横の大きな甕が割れていた。じゃがいもが散乱している。
「ああ、甕が割れてしまった。気に入っていたのに」
「芋の箱が重かったのですね。この甕は何に使っていたのですか」
かけらを拾い、空いた段ボール箱に入れていく美代子の動きには無駄がなかった。悟はじゃがいもを別の箱に集めた。
「レンコンを育てていたの。今年の夏、ハスの花が初めて咲いた。料理で余ったレンコンを何年か前に植えたのだけど一度も花が付いたことがなかったのにね。で、大事をとって寒くなる前に知り合いの家の池の土に埋めてもらって、甕はそのままここに置いてあったということ」
かけらの屑を箒で掃き集めて、美代子は溜息と共にまじないのように呟く。
「厄払い、厄払い」
片付けを終えると悟は張出しの外に出た。
雨混じりの風が強く、『欽』と書かれた角灯に暖簾がハタハタとあたっている。街路樹のスズカケの木が幹をうねらせていた。ビールと鱈ちりで熱くなった頬と、父との会話の鬱屈が消えて行く。
「よし、大丈夫」とどこからか声が聞こえてきた。自分の心の声かとも思ったが、美代子が後ろに立っていた。通りの向こうのタイムズの黄色い看板が闇に明るかった。
「体が冷えるよ。もう入ろう」
「おいしかったです。俺の亡くなった母さんの味に似ているんです。小母さんの料理のどれもこれもが」
美代子は、一重の目をさらに細くして悟の言葉に微笑んだ。バンダナからはみ出た前髪が風でふわりと持ち上がった。
「ありがとう。そういってくれるととても嬉しい。周りは皆、世間では定年の年なんだから、そろそろゆっくりしたらという。でもあんたのように思う人が一人でもいたらね、頑張りたくなる」
扉を開けて中へ戻ると、小上りの2人はびっくりしたように振り返った。
「悟君。帰ったと思ったよ。戻ってこないから」
健二はやはり悟とすぐには目を合わせない。自分は帰ったと思っていないと言いたいのか悟のマフラーとジャンバーを見たりするが、千春の言葉にはただ頷いている。
『親父はこんな男だったのか。三人で暮らしていた時とは違う、別な男が僕の前にいる』内心は皮肉のつもりで言った『仏壇を守る』という言葉も通じていないのか、2人は先刻より接近して座り、くつろいでいる。悟は奥歯を噛み締めた。
「美味かったです。風がひどいからタクシーで帰ります」
美代子に渡された熱いおしぼりで手をふき、挨拶をすると「またどうぞ」という言葉と微笑みが悟の張りつめた気持ちをほぐした。
「親父、ごちそう様」
ジャンパーに袖を通す悟を引き留めるでもなく、千春はご機嫌でぷっくりした手をひらひら振った。
「気を付けて帰れよ」
健二の声を背に受けた。
美代子は、悟を送って再び外へ出た。風雨が激しくなっていた。
「やっぱり今夜は貸切りみたいね。早めに閉めようかな」
「親父たちは、適当に追い出してください」
美代子は後ろから、悟の肩を軽く2度たたいた。何気ない仕草だったが、肩から体幹へと暖かいものが流れたような気がして思わず振り返る。美代子はすりぬけるように張出しから出て、通りの左右を見渡す。美代子が右側を指差した。隣のマンションの前にタクシーが止まり客を下ろしている。
「こんな天気なのに、タクシーがすぐ捕まるなんて幸先いいよ。さっきは手伝ってくれてありがとね」
美代子は雨の中走りだし、タクシーの運転手に合図をした。悟は追いかけタクシーに乗り込み、ドアが閉まらないうちに叫んだ。
「小母さん風邪ひかないで」
発進した車はワイパーで雨を吹き払いながら、道なりを西へ向かう。張り出しの近くで悟に向かって手を振る美代子の前を通り、信号で右折し角灯は見えなくなった。
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