対喜多方シニア

第75話 こんなときに活躍すれば

 遠園シニア対喜多方きたかたシニア。遠園は先攻だ。


 喜多方シニアとの試合は速いテンポで進んでいった。


 一回の裏に喜多方シニアに1点先制されたが、その後は互いにチャンスらしいチャンスがない。

 そのせいでベンチの元気もなくなってきている。


 友樹はドリンクを飲むと、タオルで顔の汗を一気に拭った。隣の草薙はごしごし擦らず、丁寧に顔の汗を拭いている。


 1点を追いかけるまま膠着した苦しい展開に、思わず友樹はため息をついた。


「チャンスだよ」


 不意に、草薙が友樹に笑いかけた。


「こんなときに活躍すれば、ショートになれるチャンスかもしれないよ」


 確かにそうだ。友樹が苦しいということは、皆も苦しいということなのだから。


「分かりました」


「まあ、ショートになるのは私だからね」


 友樹は頭一つ分上にある草薙の瞳を見つめた。

 彼女に以前の弱気は一切ない。何が草薙を変えたのだろう、と友樹は思った。


 草薙は友樹の瞳を見つめ返し、僅かににこっとした。草薙をよく知らない人なら笑顔だと分からないほどの小さな笑顔だが友樹を初め、仲間なら分かる。

 草薙に勇気をもたらしたのは誰なのか、友樹は知らない。


 六回表。


 この回の先頭打者は九番ピッチャーの稲葉れいだ。今試合の稲葉は調子が良く、三球目のスライダーをレフトにうまく打ち返して出塁した。

 一塁上で帽子を脱いで髪をかきあげた稲葉に、坊主頭の沢が「髪の毛アピールしやがって」と笑っている。


「いいぞ! 続けよ!」


 新藤の声が球場に響く。新藤はベンチの雰囲気に飲まれず、いつも通りだ。


 一番草薙が、ネクストバッターサークルから落ち着いた様子で立ち上がった。

 二番の友樹はそれと同時にベンチを出てネクストバッターサークルに入る。


 草薙は初球を気持ちよく打った。打球が三遊間を破り、バウンドして外野に跳んでいく。これで無死一二塁だ。


「やったぞー!」


 得点圏にランナーを進めることができたのは、一回以来だった。遠園シニアのベンチが賑やかさを取り戻す。ここで俺が打てれば流れが生まれる、と友樹は思った。


 友樹は右打席に入ると土を少しならして、ゆっくり深呼吸をしてからバットを構える。絶対に打たなければ。


 ここで、喜多方シニアの監督が立ち上がった。

 ピッチャー交代だ。


 遠園シニアの流れを断ち切ろうとしている。得点圏に進めたのに残塁すれば、流れは喜多方シニアのほうに行ってしまうだろう。


 六回という終盤で流れを取られてしまえば、遠園シニアは危ない。喜多方シニアの監督は全力で流れを取りにくるのだ。


 山城やましろというピッチャーがマウンドに上がり、投球練習を始める。


 左ピッチャーだが、球は速くない。フォームも特徴的ではない。球の出所が見辛いとか、そういうわけでもない。


「あれなら打てるぞっ!」


 沢が明るい声で相手を煽る。しかし山城はちっとも気にしていない。ピッチャーは気が強い。

 俺が絶対に打って、流れを手に入れる。友樹は山城を恐れずにまっすぐ見つめた。


 山城がセットポジションに入った。右脚を上げて直角に曲げる。そして、勢いよく投げてきた。


 ストライクゾーンに入ってくると分かり、友樹はバットを出す。三塁線の向こうに転がるファールとなった。

 今のはかなり甘い球だったではないか。それなのに打てなかった。友樹は必死に呼吸を深くしようとしたが、浅くなる。


 第二球。またしても、バットに簡単に当てることができた。しかし、レフトのファールゾーンに落ちる。これでツーストライク。

 友樹は顔をしかめた。二球目も厳しいコースではなかったのに打てなかった。


 三球目、ストライクゾーンの端よりも内側に投球が来る。バットに当てることができたが、真後ろにファールだ。


 おかしいな、バットに当てるのは簡単なのに、と不思議になってきた。


 真後ろに転がったボールを振り返ったとき、ネクストバッターサークルで素振りをする新藤と目が合った。


「井原、山城の術中にはまってるぞ。焦っちゃ駄目だ」


「術?」


「打たされているんだよ」


 ようやく友樹は不思議に気がついた。そして、苦笑いする。打たせて取るピッチングなんて、プロの動画でも高校野球の動画でもいくらでも見てきたのに、自分がやられると焦ってしまった。


 やっぱり俺はまだまだだな、と思う。

 だけど、気がつけばもう大丈夫。


 第四球、第五球、第六球、と友樹はカットした。山城の打たせようとする投球を素直にバットに当てる。


 そして、何故山城の球が打たせて取れる球なのか、ようやく分かった。ストレートだけど回転が綺麗じゃないために少しぶれるのだ。なら、変化球を狙ってみよう。


 第十球目で山城がようやくスライダーを投じた。友樹はしっかりと下から叩き上げ、レフト後方まで飛ばす。

 喜多方のレフトが後ろへ追いかけ、ワンバウンドで捕球し、振り向いて中継へ投げる。

 二塁走者の稲葉は三塁を回る。


 さすがに一塁走者の草薙はストップか、と思った。


 三塁コーチャーの笹川は、初めは止めようとした。

 草薙が走りながらも、笹川の瞳を見た。たったの一秒くらいか、それよりも短い時間。

 だけどそれで十分だったのだろう。笹川は『走れ』と腕を回した。


 二塁に到達した友樹は三塁を窺いながら、走る草薙を見る。

 稲葉がホームに還り、1点。


 中継のバックホームが素早い。

 草薙がホームへ辿り着く一瞬前に、キャッチャーがホームベースの一歩前でボールを受け取った。

 これはやばいぞ。


 キャッチャーが振り返りながらミットで草薙の左脚にタッチしようとしたが、ミットは空を切った。

 草薙がホームへ一直線に突っ込まず、避けて走ったのだ。


 キャッチャーが体勢を立て直す前に、草薙はダイビングキャッチをするときのように低く跳び、ホームを狙う。

 キャッチャーが上からミットを振り下ろしてタッチしようとする。

 草薙の左手がキャッチャーミットの下をくぐり、ホームにタッチした。


 審判が大きく両腕を広げる。


「セーフ!」


 喜多方シニアのキャッチャーは「やられた」と言いたげに苦笑しながら、ホームに座った。喜多方シニアの内野手たちは驚いた顔で草薙を見つめる。驚いているのは遠園シニアも同じだった。


 先にホームインして間近で一部始終を見ていた稲葉は、言葉を失っている。

 友樹は草薙のホームインを間近で見ることができた稲葉達が羨ましい。


 ネクストバッターサークルから出ていく新藤が、草薙のヘルメットをぽんぽん叩いて褒めている。

 草薙が笹川を振り返り、帽子のつばに触れた。笹川は草薙に拳を掲げた。


 六回表で遠園シニアは5点取ることができた。

 六回裏と七回表が終わり、5対1。

 そして七回裏。


 遠園シニアは油断していたわけではないが、流れはいつどちらに向かうか分からない。


 七回裏。遠園シニアは守備だ。


 5対4。

 喜多方シニアは一死満塁。遠園シニアは1打サヨナラをされるかもしれないピンチである。


 打者は一番。バットをこれでもかというほど短く持つ。こんなにバットを短く持つ人を友樹は生まれて初めて見た。


 遠園シニアの内野はマウンドの稲葉の元へ集まる。


 友樹はライトの位置からセンターの山口の元へ走った。レフトの桜井も山口の元に来た。


「1失点だけなら、延長だ。それならなんとかできるはずだ」


 桜井は気を張っているようだ。もし延長になれば四番から始まるので、桜井は覚悟しているのだろう。


 そのとき、ショート新藤が外野にハンドサインを送ってきた。

『バックホーム体制』。


「監督は1点も与えないつもりみたいだ」


 山口が新藤に『了解』とサインをしながら言った。

 そして、山口が友樹と桜井の顔を見た。


「確認だ。俺と井原は捕ったら新藤に中継するぞ。でも、ここより浅い位置なら直接バックホームしてもいい。だけど、やっぱり新藤に中継するのが一番だな」


「はい!」


 友樹は大きく返事をした。


「俺は岡野でもいいってことだな」


 桜井に山口が頷いた。


 ショート新藤とサード岡野は肩が強いので、中継するのに最適だ。

 草薙の名前が上がらないのは、今回の草薙は中継をするよりもぎりぎりまでボールを追うプレーをするからだ。


 一死満塁ならダブルプレーを狙うときもあるが、今はそうではない。

 バットを短く持つ一番は俊足だ。ダブルプレーを狙っても併殺崩れにされる可能性が高い。


 俺が内野にいたら絶対にわくわくしたのになあ、と友樹は思う。

 小学生の頃から、送球練習は1人でもできたので、送球に関してなら友樹は絶対の自信がある。


 だけど今回は厳しいか、とも思い直す。

 送球に関しては絶対の自信があるが、内野の連携プレーは小学生の頃に満足に練習できなかった。プロ野球の動画を見て覚えたが、実践は足りない。


 草薙はどんな処理をするだろう。

 草薙さんのプレーを見たいから、できることなら打球が内野に行ってほしいな、と友樹は思った。

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