第3話 錬太郎(2)

 いまから、二十年ほど前。

 まだ「あべのハルカス」というようなものが影も形もなかった時代、阪堺はんかい電車の線路横の焼き鳥屋で、俊三としぞうはクダを巻いていた。

 「ブルーウェーブはええチームや。リスペクトもしとる」

 焼酎を割りもせずに次から次へと飲み干し、好物のつくね串の残骸がその前に盛り上がってタワーのようになっている。

 「せやけど、近鉄バファローズとは、どだい性格が違うんや。なんでバファローズがそんなとこに身売りせんといかんねん!」

 近鉄球団がオリックスに売却される。

 その発表に、ファンは当然反発した。関係のない球団の選手も反発した。一時は、その激しい反発と熱気で、オリックス球団による近鉄球団の吸収合併、それを含む「球界再編」の動きは阻止されるかという希望もほの見えた。

 たしかに、この吸収合併を契機に球団数を減らすとか、一リーグ制にするとかいう、ファンからも選手からも離れた経営者の身勝手な「構想」は頓挫とんざした。近鉄がオリックスに吸収されたかわりに、楽天が参入して、いまでもプロ野球は二リーグ、十二球団で維持されている。この騒動をきっかけに「交流戦」というものも始まった。

 けれども、「それと引き換えに」というか、近鉄球団の消滅は回避できなかった。

 俊三の愚痴は続いた。

 「ええか? ブルーウェーブっちゅうのは、お行儀のよいチームや。お行儀ええくせに、選手とか監督コーチとかに自由にやらせとる。リベラル、ちゅうやつやな。リベラルを、本気で実践しとるチームや。せやからイチローみたいなすごい選手がそこから育ったんや。なあ、そうやろうが!」

 「知らんて、そんなん」……。

 ……なんて、とても言える雰囲気ではなかった。

 当時の俺は野球にはぜんぜん縁のない生活をしていたのだから。テレビのスポーツニュースは見ていたから、プロ野球の選手の名はいくらかは知っていたけれど、でも、その程度だった。

 俊三はまた焼酎をあおって、上体を大きく揺すってから続けた。

 「せやけど近鉄はちゃう! リベラル、とかいう横文字は似合わん。それの正反対や。人間が何をほざいても、人間の都合なんかかまわずにぶっ飛ばし続ける猛牛軍団や。それをどうやっていっしょにするっちゅうねん? え? だれかそのこと説明ができるか? できたら百万円やってもええ! でも、だれにもできひんやろが!」

 俺は、それを聞いた店の客が現れてすらすらと説明をし、百万円を要求するなんてことが起こったらどうしよう、と冷やっとした。

 なにしろ、いま、巨万の富、というより、億に達する富をそのひと言で左右できる立場にいる俊三が、当時は預金残高せいぜい三十万という、しがない、うだつの上がらないサラリーマンだったのだから。

 そのころ、同期で会社に就職した俺は、課長補佐とかいう肩書きで、課に上から降ってくる雑事の振り分け係をやっていた。俺が出世したというのか何か知らないが、少なくともヒラから少しも栄達していない俊三が出世競争にめちゃくちゃに遅れているのはたしかだった。

 俊三が百万円払わなければならなくなって、俺が何十万か俊三に貸したとすれば、それは、たぶん、一生返ってこない。

 そう思った。

 だが、幸いにも、店の隅でクダを巻いている野球ファンのことばを相手にしてくれる客はいなかった。

 でも。

 だれも相手にせんということは。

 俺が相手にせんといかんのか。

 そこで、

「そうは言うけど、さ」

と、手酌で日本酒をおちょこに注いで、唇を湿らせ、間を作る。

 間を作ってから言った。

 「その近鉄の選手が、来年からはオリックスでプレーするわけやろ? どんな事情があるにしても、応援したらんでええのか?」

 言ってから、そのことばに俊三が「応援なんかするかアホ!」と絶叫したらどうしよう、と、俺は恐れた。

 でも、そのことばを耳にした俊三は、動きを止めた。

 焼酎のグラスを中途半端に握ったまま、動かなくなった。

 何もしゃべらなくなった。

 実際には、一分にも満たない時間だったのかも知れない。

 いや。

 実際にも、三分ぐらいはその状態だった、という気もする。

 ともかく、このまま急性アルコール中毒でこの場に倒れ伏して救急車で運ばれるのではないか、と危惧するぐらいの、異常な沈黙だった。

 でも、後から考えると、俊三はその時間に熟考していたのだろう。

 酔っ払っていたかも知れないが、酔いとは関係のない明晰めいせきな思考で。

 「やめる」

 沈黙を破った俊三は、低い声でそう言った。

 「やめる、って何をい?」

 そうきき返した俺に、俊三は

「野球にかかわる一切のことを、俺はやめる。せやから、これから、俺には野球に関係することは、絶対に、ひと言も、何も言わんでくれ」

 そう言って、俊三は、グラスに残っていた焼酎を、一口、飲んだ。

 飲んで、グラスを目の高さまで持ち上げて、残った焼酎を、名残惜しげにじっと見ていた。

 その横顔を、寂しそうと言っていいのか。

 凄みを感じさせる、というのではなかったけど、寂しい、というのではなかった。

 ただ、わかったのは、俊三がしんけんだということ。

 だから、俺は、何も言わなかった。

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