天狗の花
月島金魚
【1】できそこないの魔女
1、帰郷(1)
あの山の麓には魔法が眠っている。
特急列車のすぐ外をビュンビュン過ぎていく電柱のずっと向こう、山は見える角度を少しずつ変えながらもそこにあり続ける。高い夏空の下、窓越しにも匂い立つような深緑。背後にはいい値段のするかき氷のような入道雲。
午前十時。太陽がいよいよご機嫌になってきた。
ひとりっ子が親に寝られてしまえば他に話し相手はいない。子どもの頃ならふてくされていたであろうが、羽菜はもう高校生だ。スマホだって手もとにあるし、移りゆく外の景色をこうしてぼーっと眺めているのも悪くない。むしろ学校生活についてあれこれ聞かれずせいせいするというものだ。母の目を盗んで買っておいたコーヒーミルクの味も格別である。
似たような家ばかりであまり記憶として形を成さない景色の中で、羽菜はふと、あるものに目が吸い寄せられた。
――カラス。
遠い上空に一羽、電車と
「――次は
そこに車掌がいるわけでもないのに、つい天井のスピーカーに目を向ける。窓から離れ、いっこうに目を覚ます気配のない母を揺すった。
「お母さん」
「あっ、着いた?」
ぱっと母が顔を上げた。急に覚醒したものだから寝ぼけ眼だ。
「着くところ。ねえ、よだれ」
電車は山へと続く最後のトンネルに入った。音も光も押し込められて地下鉄のように息苦しくなっても、降車の準備で忙しい人々は少しも気にならないらしい。その中の一人である母は足もとのキャリーケースを一度通路へとどかし、荷棚から大きなバッグやお土産の紙袋を下ろそうとして、立つそぶりを見せない娘にちらりともの言いたげな視線を投げた。ですよね、羽菜はにやりとして立ちあがる。
体中に響いていた走行音が消え、車内がわっと明るくなった。右も左も緑一色。わあ、と人々から歓声が上がる。羽菜も窓ガラスに顔を近づけて笑顔になった。
「都会とは大違いだよねえ」
「やだ、あんたいつの間にコーヒーミルク買ってたの? よくそんな甘いのを飲めるよね。今はまだ若いからいいかもしれないけどさあ、そのうち体に……」
この地で生まれ育った母は景色に見向きもしない。ホルダーからペットボトルを抜き取ってまた驚いた。
「しかも飲み切ってる! あんた今日はアイスはやめときなさいよ。他にゴミはある? 忘れ物しないでね」
「んー」
列車は速度を落とし、丁寧にホームにすべり込んでいく。座席間の通路はもう人が列をなしていて入り込めそうにない。母は立ったまま列の隙を窺っているが、急いだところでここは終着駅なのだ。羽菜はまた自分の席に腰を下ろすと、数十分前までやり取りしていた相手にメッセージを送った。
――駅に、着いたよ……っと。
「あっ!」
しまった――あわてて立ち上がる。長時間だからとスカートのプリーツに気をつけて座っていたのに、うっかりぐしゃっと潰してしまった。今年の春に入学したばかりの高校の制服。実際に着ているところをどうしても見たいと又従姉妹が言うので、不承々々着て来たのだ。昨夜自分でアイロンまでかけたのに。
「羽菜、何してるの。行くよ」
「はーい」
お尻のプリーツを何度も整えながら、羽菜は自分の大荷物を抱え込んだ。去年の修学旅行のために購入したボストンバッグ。買ってもらえた時は毎日眺めるほどお気に入りだったのに、当日友人たちが皆キャリーケースなのを見て、自分もそうすればよかったと後悔したそれ。悲しいかな、自分で選んだ物だから誰にも文句をこぼせない。
動き出した列の後ろをのろのろついて行く。前に下げた鞄の重さにつられるようにしてホームに降り立つ。
ビュッと力ある風が吹きつけてきて、顎下で切りそろえた髪が顔の周囲で踊り狂う。山側から吹き下ろす風は夏でも涼しく、陽光や緑を含んだ良い匂いがする。羽菜は胸の高鳴るままに、思い切り夏を吸い込んだ。
――風があたしに「お帰り」って言ってる。……たぶん。わからないけど。
天尻山は
去年は来なかったから比較のしようがないが、観光客が急増しているようだ。夏休みに入ってすぐでこれなら、八月はもっと増えるはずである。ここに住む羽菜の親族はたいそうやりづらいだろう。
この山の麓には魔法が眠っている。
それだけ聞けば天狗のことのように思われるだろうが、そうではない。魔法とはふつう人々がぱっと思い浮かべるようなものを指している。たとえば、箒で空を飛ぶ――とか。
それができる女を西洋では魔女と呼ぶ。そして魔女は、古来より現代まで、この国にも人知れず存在する。
羽菜はそれを知っている。なぜなら自分こそ、その魔女の一族の末裔なのだから。
たとえ魔法が使えなくとも。
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