第7話 伊藤

一年生の三学期から関と伊藤は正式に一軍に合流した。関は新人戦でやりたがっていたフォワードに抜擢され、伊藤は背番号一番をもらい正ゴールキーパーになった。

純たちは二軍としてそちらで結果を残す事に集中した。3月の頭に三年生が卒業し、3月から寮は部屋替えだった。今まで四人部屋だったものが二人部屋になる。同部屋になる相手は全員で食堂に集まって決める事になっていた。

寮は西棟と東棟に別れていて東棟はサッカー部が使い、西棟にはそれ以外の部活の学生がいた。

関がホワイトボードに東棟の見取り図を描いた。

「この部屋は隣が三年で目の前が談話室だから気を遣う。こっちのリネン室の向かいの部屋は真下が一階の食堂の換気扇があって、窓を開けるとにおう。ジャンケンで勝った組から部屋決めんぞ。全員ペアになったか?」

「オッケー?もめてるところないよな?」純も言った。みんな口々に同意しジャンケンをするために立ち上がった。

伊藤は純と同じ部屋になった。純は関から伊藤は変態だから俺と同じ部屋にしろと再三言われていて、純は別に関と一緒でもいいと言っていたが伊藤が押し切った。関は吉野と同じ部屋になり、宿題の時間きちんと勉強しているかまた一年間吉野に見張られる事になりそうだった。

二年生からは机があるので居室で勉強が出来るが、寮では二人部屋は勉強の時間はドアを開けておくことが義務付けられていて、管理人が見回りに来るので勉強をサボる事は出来ず、サッカー部は宿題の提出率やテストの点数、授業態度などもコーチにチェックされていた。

吉野は中学が名門私立で真面目で勉強は出来た。関も熱心に勉強するタイプではなかったものの成績上位常連で、伊藤もそうだった。

純だけはかなり四苦八苦しながら勉強についていけるよう頑張っていたが、成績がふるいはしないものの落ちこぼれではなかった。

伊藤はジャンケンで勝ち、階段脇の好条件の部屋を取った。関は意外にもジャンケンが弱く関と吉野が三年生の隣の部屋になった。

「この部屋で四人で過ごすのも最後か」純が言った。明日の朝イチで部屋替えだった。吉野がベッドの端から顔を出して、下の純をのぞいた。

「純、一年間起こしてくれてありがとう」

「いいよ別に。吉野からたくさん勉強教えてもらったから俺も感謝してる」

「あっちは相思相愛だな。伊藤は俺がいなくなるのさみしいか」関も下のベッドの伊藤をのぞいた。伊藤はなにか言おうとしたが、関の顔を見ていたらおかしくなって笑い始めた。

「悪い、さみしくは無い」伊藤は笑いを止めようとしたが上手くいかず、関もそんな伊藤の様子を見て珍しく少し笑い、顔を引っ込めた。無我夢中で駆け抜けた一年間が終わろうとしていた。

修了式の後の1週間は練習があって、その後は4月まで帰省日だった。3月末が一年で一番長い帰省日で、伊藤も実家に帰る事になっていた。

モミジバフウの下、純が八重の車に乗り込んだ。

「裕太またね。早く行かないと連れて行っちゃうよ」八重が伊藤に言った時、純はもう助手席に乗ってシートの位置を調整していた。伊藤が手を振ると、車の中から笑顔で純も手を振った。


 高校時代は夢のように終わった。実際は夢なんて可愛らしいものではなく、死にものぐるいで勝利に向かってジリジリと這いずり近寄って行く、苦しくもどかしい日々だった。

苦痛まみれの日々も涙の国立も、思い返すと何もかもが輝いて必然に感じ、今、自分の横で眠っている純を見てその体に触れ、手に手を唇に唇を重ね、この男と高校で、あの桜並木の下で絶対に出会わなければならなかったと伊藤は思った。

吉野の結婚式の二次会が終わり、純はホテルの伊藤の部屋に来た。純の子どものハヤテは八重が部屋で見てくれていた。

出掛けにトラブルがあったが、トラブルの主、緒方先輩は二次会の後は三次会には行かず、タクシーで帰っていった。妻が妊娠中で…と言いながらタクシーに乗り、もうすぐパパだとみんなに祝われ左手の薬指で指輪が嘘寒い光を放っていた。

伊藤には結婚の予定は無く付き合っている女もいなかった。

結婚。その言葉は伊藤にとって興味も魅力も無かった。自分が純だけを愛していることになんの疑問もなく、自分が男を愛する、正確には純を愛するゲイであるという事に何一つ不安を感じる事は無かった。

カミングアウトしないのはただその必要が無かったからで、必要があれば緒方を追い払う時に言ったように明らかにしたってよかった。緒方が言葉通りに受け取ったかは謎だ。

伊藤は女は愛せなかったが、抱くことはあった。付き合っていたことも何度かあった。ただ、性的に関心が持てたとしても好意を持てたかと言われると、疑問が残った。人から優しくされるのは好きだった。人間ならきっと誰だって優しくされるのは好きだろう。だが純を思うように誰かを思えたことは無かった。

高校を卒業し、それぞれの道に進んだ。

純は東京のチームに所属し伊藤は九州のチームへ、関は関西のチーム、西野は大学でサッカーを続けた。

純は卒業してすぐ、まだ春のうちに「彼女が出来た」と伊藤に電話で言ってきた。伊藤は「俺も」と言った。初彼女を祝って電話を切ったすぐ後に、少し仲のいい女の子に電話をして「付き合って」と頼むと返事はイエスだった。

関は翌年にドイツに行った。まもなく高校の同級生と結婚しずっとドイツにいたが三人目の子どもに障害があり、日本で子育てしたいと戻ってきて今は北海道のチームに所属していた。

純は20歳でレンタル移籍でイタリアへ行った。それから一年の活躍は目覚ましく、伊藤は純が出た全試合を見た。一秒も見逃したく無かった。自分から純へ連絡するのは月に一度に抑え、会えるのは日本代表の試合にお互いが招集された時だった。純は練習が終わると彼女とおそろいの指輪をつけ、伊藤は純が望むように友人としての距離を保った。

純の彼女の評判は伊藤の耳にも入っていた。私立のお嬢様校出身で、高校時代からスポーツ選手との合コンによく顔を出して有名選手何人とも関係があり嘲りをこめてアゲマンと言われていた。

オリンピック代表に選ばれた陸上選手と純と付き合う直前まで付き合っていて、揉めて包丁を持ち出して騒いだというろくでも無い噂で有名だったが、純はそれを知らないようだった。

伊藤は何も言わなかった。

純を手に入れる方法は高校の時のように裸で抱き合って求め合う以外にもあった。初めて二人で招集された代表戦。試合前のロッカールームで日本代表のユニフォームを着た純の背中にMAZDAと名前があるのを見た。「純」伊藤が呼び、純が振り返って伊藤に抱きついてから耳元に唇を寄せ「絶対勝つ。右下」と言った時、もう自分の欲しいものは何もかもを手に入れたと伊藤は思った。

ここがゴールだった。ここより先は無かった。


怪我の連絡も、事故の連絡も伊藤には来なかった。怪我の時は吉野から連絡が来て上手く行けば半年で復帰と聞き、録画してあった純が悪質なファールで怪我をさせられた試合は見ることが出来なかった。どうしても声が聞きたくて純に電話をかけたがスリーコールの後に切られた。話す気にならないのだろうとそれっきりかけなかった。

三ヶ月後、純が交通事故に遭ったという連絡が関から来て意識不明の重態と報道されていると関が話しながら泣き出した時、伊藤は体中が震えて手からスマホが落ちた。

怪我がなければ翌月の日本代表戦でまた会える予定だった。怪我をしても治ればきっとまた代表に戻って来るはずだった。代表に戻れなくても純がサッカーを続けていく事になんの疑問も無かった。サッカーがある限り自分たちの絆は永遠で、純が死ぬわけも無かった。

「あんなにサッカーが好きなのに死ぬわけないだろ」床に落ちたスマホに向かって伊藤は言った。


重態というのは誤報か関の誤訳かなにかで、純は命に別状は無かった。純は一ヶ月後イタリアの病院を退院し帰国して日本で入院して治療を続けた。伊藤は会いには行かず、東京に住んでいる吉野は度々純のところに顔を出して連絡をくれた。純が現役を引退する、と聞いたのも吉野からの又聞きだった。

伊藤は長く所属した九州のチームから東京近郊のチームに移籍した。正ゴールキーパーとしての移籍で強いチームから強いチームへ行くことに裏切り者のような言い方をするものもいたが、待遇の良いチームへ行く決断に迷いはなく気にはならなかった。

その日は思ったより早く来た。純が古巣のチームにスタッフとして戻り、コーチの資格を取るというのは吉野から聞いていて、純のチームのホームグラウンドであったゴールキーパーのコーチの養成講習会に顔を出した時、もしかしてと思った。

「伊藤」純から声をかけてきた。わかっていたが、杖をついて体が傾ぎ、痩せて日焼けのさめた純の姿はショックだった。何も言えない伊藤を見上げ、純はいつもの純の顔で言った。

「講習会終わったら話せるか」純の左手の薬指には指輪があった。

純は『あの女』と結婚すると決めていた。怪我をしてすぐに駆けつけてずっと一緒にいてくれたと講習会の後に嬉しそうに話していた。怪我の直後に伊藤がかけた電話を切ったのは純ではなさそうだった。こじんまりとした結婚式にはなぜか八重の姿は無くあっさりと終わった。

サッカーを辞めた純を見て、伊藤は怒りを感じた。結婚したことにも、その相手を愛しているという事さえ許せない気持ちになった。怒りを隠し、また純と連絡を取り合うようになった。

純が結婚して半年ほど経った頃、都内のホテルであるスポンサー関連の会に伊藤も来るのかと純から連絡があった。行く、と答えると俺もと返事が来た。会が終わり、スーツ姿の純が伊藤のところへ来た。

「二人で飲み直そうぜ」黒い目で伊藤を見つめる顔、髪を伸ばしている純は八重によくにていた。

「純、先月マンション買ったんだ。来る?」

「行く」

純はもう杖はついておらず、歩き方も姿勢も不自然なところは無かった。年末の金曜の夜、道はいかにも混んでいてタクシーで帰るより電車のほうが早そうだった。二人で肩を並べて歩く。歩くスピードや歩幅、階段を上がる時の関節の動き、体幹…。駅につき、階段を降りる一瞬、ぐらついたと思った瞬間、純の腕を取った。純は伊藤を振り返りにらみつけ、伊藤はゆっくり手を離し、純はまたスタスタと階段を降りて行った。

「なんでマンション買ったんだよ。独身だろ」

「天井が高い」2メートル近くある伊藤には、大抵の物件は窮屈だった。買った物件は前のオーナーが大柄な駐在外国人で、暮らしやすいようにリノベーションしたそのマンションに家族で住んでいた。家具一式を置いて帰国し、家具ごと売りに出ていたマンションを伊藤が買った。

エレベータの前で同じマンションの住人に会った。英語で挨拶され純は英語で挨拶を返し、ドアを押さえて先に彼女をのせ降りる時も笑顔だった。世慣れた様子は伊藤の知っている高校時代の純とは違った。

「外国人ばっかりか、このマンション」ドアが閉まってから純が聞いた。

「そうでもない」

エレベータが着き、二人は降りた。

部屋の前まで行き、伊藤は鍵を出した。

「奥さんに遅くなるって言ったか」ドアを開ける。伊藤が先に入り、純は後から入ってきた。玄関の明かりをつけて振り返るとカチャと鍵の閉まる音がした。

「泊まるって言ってきた」

長い両腕が伊藤の首に回され、玄関のオレンジがかった照明の中で目が合った。

「まだ俺とやれる?もう無理か」

「やりに来たのか」

「そう。伊藤のエロい顔をみたらやりたくてたまんねぇ。発散させろ」純の顔にはあからさまな欲望と、飢えがあった。


伊藤はその晩ほど、誰かを手荒に抱いた事は無かった。部屋の明かりもつけず、玄関から寝室まで腕をつかみ引きずって連れていき、服を脱がせてベッドに押し倒して最低限の準備だけして強引に挿れた。純は最後まで出来るように準備して来ていて、久々の行為に初めての時のように全身を震わせて耐えた。

伊藤は三回好き勝手に蹂躙した後、尽くす方に方向転換し純を満足させた。

「まだキスしてない」純は暗い寝室で親指でそっと伊藤の唇を触った。伊藤は純の胸に抱きついていたが顔を上げた。最後にキスしたのは18歳の時で、卒業式の日だった。

伊藤は純の胸元にキスし、鎖骨のくぼみ、首筋、口の端にキスしてから純を見た。純と目が合い、どれだけの犠牲を払ってもこの男を再び手に入れると伊藤は思った。





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