17 仮の婚約

「君が公爵令息と婚約解消をして、新たに私の婚約者になりなさい」


「………………」


 その瞬間、時が止まる。


 思いも寄らないレオナルドの求婚は、キアラの思考を完全停止させるには十分の効果だった。

 途端に世界がぐるぐる回りだして、彼女の身体もそれに合わせてグラグラと揺れはじめて――、


「馬鹿にしているのっ!?」


 自分でも驚くくらいの大声を上げて、それから意識が途絶えてしまった。







「ん……」


 キアラが目を覚ますと、そこは見覚えのない景色の中だった。

 豪華な天蓋に滑らかなベルベットの幕、羽に包まれているみたいなふかふかのベッド、そして眼前には光のような金色の髪に整った顔をした……、


「気が付いたか」


「こっ、皇太子殿下っ!?」


 ガバリと飛び跳ねるように起き上がる。心臓がバクバクと音を立てて鳴りはじめた。

 不可思議な光景を前にして、にわかには今の状況が理解できなかった。


「まだ横になっていなさい」


 レオナルドに優しく肩を押されたキアラは、ぽすりと再びベッドの中へ身体を預けた。


「混乱しているようなので、簡潔に説明しよう。君は二時間ほど前に、ブティックの二階の執務室で倒れた。は、魔獣のマナに蝕まれた可能性がある。

 なので検査と治療を兼ねて、皇太子の宮殿へ連れて行った。店の始末は私の騎士に任せ、不便だろうから君の侍女を一人連れて来させた。世間体もあるしな」


「えぇ……。とっても分かりやすく説明してくださってありがとうございます」彼女は呆れた顔をして言う。「魔力耐性のない令嬢が思わぬ事故に遭って、王宮で治療――素晴らしい申し開きですこと」


「さすがに理由もなく婚約者のいる令嬢を攫うのは不味いだろう。何故ならば――」


「分かっています! 殿下は気絶した私を助けてくださったのですね」


 キアラは皇太子の話を強引に遮る。またあのくどくどと長ったらしい説明を聞けるほどの余裕は持っていなかった。


 彼女はゴソゴソとドレスのポケットを探って、


「取り急ぎのお礼です。取っておいてくださいまし」


 一枚の銀貨を差し出した。


「…………なんだ、これは」と、レオナルドは目を丸くする。


「ですから、お礼ですわ。チップ兼、賄賂です。正式なお礼は、後日伯爵家からいたしますので」


「…………」


 彼は黙り込んで、しばし俯く。心なしか肩が震えているように見えた。


 彼女は真面目くさった顔をして、


「私は他人に、貸し借りなどしたくないのです。この世界は等価交換……いえ、常に自分が有利に立つようにすべきですわ。

 その点において、金銭はとても分かり易い道具なのです。硬貨を相手に与えることによって、お礼以上の価値を付与することが可能なのですから」


「ぷっ……」


 伯爵令嬢の滔々とした演説が終わると、皇太子がやっと顔を上げた。


「ははははっ!」


 そしておかしそうに豪快に笑い始める。


「……何がおかしいのです?」と、キアラは眉を顰めた。


 レオナルドは笑いをこらえながら、


「いや……。それで、私にも銀貨をくれた、と?」


「これは間に合わせです。借りはその場で返さなければ、私の気持ちが収まらないのです。

 ――そうだわ、騎士たちにもお礼をしないと! 銀貨の小袋はあとどれくらいかしら? ジュリアに確認して貰わなきゃいけないわね」


 キアラは想定外の事態ばかりが起こったことで、すっかり気分が高揚していた。

 だから皇太子殿下にチップを渡すなどという、無礼極まりない行為を認識できていなかったのだ。


(まさか皇太子の俺が伯爵令嬢から銀貨をいただくとはな。これは記念にとっておこう)


 そしてレオナルドは、この滑稽な状況を楽しんでいた。生まれて初めて恵んで貰った物質的対価は、よく磨かれてピカピカと輝いていた。



「その様子だと、身体のほうは問題なさそうだな。さっきの話の続きをしようじゃないか」


「さっき……?」


 キアラの身体がピタリと止まる。

 言われてみれば、執務室で何か重要な話をしていたような……?


 …………、


 …………、


「っ……!?」


 やっと停止していた頭が動き出した。執務室でのレオナルドの言葉を思い出すと、みるみる顔が上気していく。


「思い出したか」彼は平然と言ってのける。「我々の婚約の件だ」


「なっ……!」


 彼女は唖然として言葉が見つからない。


「君は馬鹿にするなと言っていたが、そのようなつもりは無かった。不快にさせたのなら謝ろう」


「……」


「だが、よくよく考えて欲しい。婚約することによって、互いに得られるメリットは最大のはずだ」


 レオナルドはじっとキアラの瞳を覗き込む。エメラルドグリーン色の双眸は、彼女の燃え盛る赤い瞳を静寂に連れて行くようだった。水に包み込まれたみたいに、荒れた感情が落ち着いていくのが分かる。


 やがて、彼女はぽつりと喋り始めた。


「嫌………など、そういうのではないのです……」


「では、どういうわけなのだ?」


 彼が彼女の瞳を再びじっと見つめた。それだけでドキリと心臓が飛び跳ねる。


 そう言えば、婚約者からこんなに真っ直ぐな視線を貰ったことがあっただろうか。


 たしかに魅了魔法をかける時は自分の瞳を見ていたが、それはどこか黒ずんでいて遠くを見ているようだった。皇太子のように相手の声を聴こうと、婚約者の意思を尊重するような素振りは全くなかったのだ。


 レオナルドはキアラが自ら言葉にするまで待つ。沈黙の時間も嫌な気分はしなかった。


 ややあって、やっと彼女が口を開いた。


「私は……ヴィッツィオ公爵令息と婚約解消をしようと密かに計画を立てて、一人で動いていました」


「そうか……」


「そのために、悩みました。考えましたわ。とても……。どうやって現状から抜け出そうかと。私は……」


 またもやキアラは言葉に詰まった。過去の六回分の悪夢のような経験が脳裏に甦る。じわりと目元が熱くなった。

 レオナルドは辛抱強く、相手の言葉を待つ。


「計画はまだ始まったばかりですが、私なりに努力をしてきたつもりです。ですが、殿下は婚約解消をあっさりとおっしゃるので……これまでの自分を否定された気分になったのです」


 自分の気持ちに嘘をつけなかった。まだ始まったばかりで低い位置ではあるものの、一生懸命積み上げたものを天の力で無造作に破壊されたみたいで、酷く虚しかったのだ。


「それは……悪かったな」と、皇太子は素直に謝る。皇帝に継ぐ身分の方に二度も謝罪されて、伯爵令嬢は目を白黒させた。


「どうやら私は君の感情を顧みず、独り合点で事を急ぎ過ぎたようだ。皇族の悪い癖だな」


「いえ、殿下のおっしやることは理にかなっておりますわ。私としても、皇后陛下に使い捨てられるのは御免ですので、殿下の保護を受けるのが最適だと思っております」


(また……処刑が待っているでしょうからね……)


 過去六回の経験と照らし合わせると、今回も間違いなく殺されるだろう。

 それなら、皇太子に賭けるほうがいい。


 レオナルドはふっと笑みを漏らして、


「君は自分自身の力で、婚約解消をもぎ取りたいということだな?」


「……そうです」


「では、どのようにして婚約解消をする予定だったのだ?」


「それは――」

 キアラは己の計画を洗いざらい話した。ジュリアにも教えていない極秘の計画だ。

 レオナルドの持つ雰囲気がそうさせるのか、不思議と彼には本当のことを話してもいいと思った。もっとも、回帰のことは伏せてだが。



「そうか……」


 彼は彼女の話を一通り聞くと、押し黙って思案する。彼女は祈るようにその様子を見守っていた。


 少しして、


「では、私がその手切れ金を立て替えよう。それなら、君の意思を無下にすることもない」


「えっ!?」


「なに、難しく考えるな。よくある借用書の譲渡のようなものだ。

 婚約解消は早ければ早いほどいいだろう? だから先に私が支払いを済ませ、君が私に返済をする。なので結果的には、君が手切れ金を払うのと変わりない」


「それは……」


 僥倖だった。彼女としてもさっさと婚約者とおさらばしたい。


 しかし、こんなに簡単に離れるとなると、復讐はどうなるのだろうか。

 憎き婚約者に確実に報復するためには、まだ彼と繋がりがあった方が良いのではないだろうか。


「そうだ。私から君に一つ頼みがある」


 渋面を作って考え込むキアラの意識を起こすように、レオナルドが声を掛ける。


「私は皇后派閥を壊滅させたい。その中には当然ヴィッツィオ公爵令息も含まれる。……君も、手伝ってくれるか?」


「っ……!?」


 にわかに希望が顔を出す。


 ダミアーノへの復讐。

 それこそ、彼女の一番望んでいたことだ。


 皇太子はそれを分かっていて、提案してくれているのだろうか。自ら頼み込むことによって、相手の尊厳を傷付けないように。


(なんて優しい人……!)


 レオナルドのさり気ない思い遣りが、彼女の胸をそっと温めた。



 キアラは赤い瞳を燃え上がらせて、


「はいっ……! もちろんですわ、殿下!」


 まっすぐに、はっきりと答えた。


 レオナルドはニカッと少年のように笑って、


「では、契約成立だ。我々の、仮の婚約の」


「仮の……」キアラも元気に笑う。「えぇ、仮の婚約です!」


 二人は誓い合うように、固く握手をした。

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