9 取引

「小麦の在庫、全部いただくわ」

「小麦の在庫を全て貰おう」


「えっ……!?」

「は……?」



 隣の男と見事に声が重なって、キアラは驚いて声の主を見上げる。


 その男はがっしりとした体格で背丈もあり、黒いフードを深く被って同じく黒い仮面を付けていた。

 彼は正体を隠しているようだったが、明るい照明のもと、鮮やかな金色の髪とエメラルドグリーンの瞳がはっきりと分かった。


 キアラにはこの男に見覚えがあった。


(レオナルド・ジノーヴァー皇太子殿下……!)


 間違いなかった。ここ数週間で二回も遭遇したのだ。それもかなりの近距離で。


(それに、皇太子殿下の強いマナを感じる…………マナ?)


 キアラは首を傾げる。魔力のない自分が、なぜ相手のマナを感じることができるのだろうか。絶対にあり得ない話なのに。


 でも、今この瞬間も、皇太子の強いマナを感じる。


 それは巨大な竜巻みたいな恐ろしい量だと、手に取るように分かった。彼の尋常ではない強さを肌で感じて、改めて只者ではないとおののいた。



(なぜ、ここにキアラ・リグリーアがいる……!)


 レオナルドは驚愕していた。

 またしても、またしても伯爵令嬢と再会してしまった。

 七回目の人生は想定外のことばかりだ。主に伯爵令嬢のことで。


(もう顔色は良くなっているな)


 レオナルドはキアラと最後に会った凱旋パーティーを思い出した。

 あの日、彼女は今にも倒れそうにフラフラと歩いていて、顔を覗き込むとまるで死人みたいに真っ青だった。

 そのうえ婚約者の公爵令息とは不穏な空気だし、気になっていたのだ。もちろん赤い瞳のことも。


 すっかり回復しているキアラを見て彼はほっと安堵して、


(……いやいやいや。俺はなんでこの女のことを心配しているんだ。自分の仇敵だぞ)


 はっと我に返った。

 心配なんてしている場合ではない。彼女は自分にとって殺すべき相手なのだ。今さら同情や親しみなんて――……、



「金貨100枚払うわ。隣の方ではなくて、こちらに全部ちょうだい」


「……っ!?」


 レオナルドが思考に耽っていると、先にキアラが交渉をはじめた。彼女はなんとしても小麦を手に入れたかったのだ。


 これから半年後に、帝国東部で歴史的な大洪水が起こる。そして小麦の需要が跳ね上がり、貴族や商人たちは買い占めに奔走するのだ。

 だから、その前に投資をしておく。


 破格の値段に店主は破顔しながら、


「そんなに払っていただけるのですか!? えぇ、是非あなた様に――」


「200だ」出し抜けにレオナルドが割って入る。「こちらは金貨200枚出そう。全てを売ってくれ」


 意外な対抗にキアラは目を白黒させて、店主は瞳を輝かせた。


「はい〜、喜んで〜〜! 申し訳ありません、お嬢さん。今回はこちらの紳士に――」


「に……250払うわ! だから、私に……」


「キアラ様!」


 キアラの無謀な挑戦に、ジュリアが慌てて制止する。


「いけません! 我々の予算をお忘れですか?」


「仕方がないの! ここは絶対に譲れないもの! 絶対によ!!」


 キアラは断固拒否をする。初めて見る主の必死な姿に、ジュリアは驚いた。


(あんなに穏やかなキアラ様が……。これはきっと……絶対に儲かる話なのね!) 


 ジュリアは主の意向を理解したように、強く頷いてからすすっと引き下がる。

 キアラも自身を鼓舞するようにぐっと両手を握った。ダミアーノへの手切れ金を早く払うためにも、ここは絶対に負けられない。


「失礼」キアラはコホンと咳払いをしてから「250よ。私は金貨250枚払います!」


「500だ」


 すかさずレオナルドの攻撃。彼としても絶対に負けられなかった。


 半年後の起こる予定の東部の洪水。その後、小麦は全て皇后派閥の貴族と商人に買い占められて、価格の高騰はすさまじかった。


 彼らは欲望のままに暴利を貪って、食料品は庶民たちには手が届かなくなり、餓死する者も少なくなかった。その結果、東部は荒れてて平民たちの生活は苦しみと隣合わせになってしまうのだ。


 そんなこと、自分がさせない。そのためにも、先んじて小麦を購入しておく。

 皇族は国と民を守ることが、存在する意味なのだから。



「ごっ……ごひゃく…………!?」


 とんでもない額にキアラは恐れおののく。

 500って。500なんて。どれだけお金持ちなのかしら。


 今、自分が最大限に動かせる予算はせいぜい金貨350枚だ。当然500には届かないし、他の事業にも費用を回したい。


「キアラ様、キアラ様」


 皇太子に虚を衝かれてカチコチに固まったキアラに、共同経営者が耳打ちをする。


「これ以上は正攻法でいっても厳しいです。ここは個人的に交渉を行いましょう」


「交渉?」


「はい! 隣の男と話し合いの場を設けるのです。そこで条件や金額を交渉して、二人で分配できるように持っていきましょう」


「分かったわ……!」


 ジュリアが一緒にいてくれて良かったと、キアラは改めて思った。ダミアーノの執務は手伝ったことはあるものの、本格的な事業なんてこれまでやったことがないからだ。本当に、頼りになる相棒。


 商売は初めてでも、交渉だったらダミアーノの代理で何度もやったことがある。全部は無理でも、半分……せめて三分の一は確保したい。



「ちょっと、よろしくて?」


 キアラはレオナルドに話しかける。彼は疑わしそうに彼女を見てから、


「なんだ」


 静かに返事をした。


(返事をしてくれたってことは、完全な拒否ではないわ)


 キアラは店主に少しだけ時間を貰って、店の隅にレオナルドを連れて行った。


「交渉か? 悪いが、こっちは譲る気なんてないぞ」


 ……が、彼は取り付く島なし。

 しかし、彼女はめげなかった。こっちには奥の手がある。


 キアラはにっこりと微笑んで、


「皇太子殿下がこのようなところで何をなさっているのですか?」


「なっ……! お前……っ!」


 レオナルドは目を見張る。

 今日のことは最側近以外には誰にも知られないように、細心の注意を払ったつもりだった。ここまでやって来るのも極秘裏だし、この変装も完璧なはずだった。


 彼の見事な狼狽ぶりに、彼女は勝ちを確信する。


(やっぱり本物の皇太子なのね。しかも、今ここにいることは露見されたら不味いということみたいね。……圧倒的に私の有利だわ)


 勝利の方程式が見えたキアラは、とどめを刺そうと畳み掛けるように言う。


「英雄である皇太子殿下が、このようなところでコソコソされているなんて。これが皇族方や貴族たちに知られたらどうなるでしょうね。

 その世間から身を隠すような姿ですと、露見されたら非常に不味いのでしょう?

 ひょっとして私財で秘密の組織でも動かしています? もし、それが皇后派閥に見つかったら……」


 目の前の令嬢の的を射た考察に、レオナルドは怯んだ。


「お、お前……なぜそれを……」


「あら? 当たっちゃいました? 半分はブラフだったのですが」


「っつ……!?」


 しまった、と彼は片手で口を覆った。

 だが、もう遅かった。に抜け目のない彼女は、少しも攻撃の手を止めない。


「私に譲っていただければ、今日のことは全て忘れて差し上げますわ。もちろん、この件での交渉事はこの場限りです」


「交渉事だと? 脅迫の間違いではないのか?」


「交渉事は得意ですの」と、彼女は不敵に笑う。


「はぁ……」


 レオナルドは深いため息をついてから、


「……分かった。今回はお前に譲ろう」


「ありが――」


「だが、条件がある」


「条件?」と、キアラは目を丸くする。

 皇太子にとって口止めだけでも大事なのに、これ以上なにを要求するのだろうか。


 一拍して、レオナルドは姿勢を正してまっすぐにキアラの瞳を見て言った。


「……その小麦は……貴族ではなく、我が国の民衆のために役立てて欲しい。できるか?」


「……」


 キアラは少しのあいだ言葉を失った。

 目を見開いて、ただ相手を見る。


(どういう意味?)


「キアラ・リグリーア伯爵令嬢。……頼む」


 まるで曇り一つもない青空みたいな澄んだ瞳。そこに悪意はまったく存在していなかった。

 彼は本当に帝国民のことを愛しく想っている。――そう、キアラは感じた。


「もちろんですわ」彼女も誠意を返す。「貴族として、民を守るのは当然のことです。仮に民が飢えで苦しんでいたのなら、喜んでこの小麦を差し出しましょう」


 もとより貴族や商人には吹っ掛けるが、困窮している平民には無償で配るつもりだったから問題ない。


 レオナルドは初めてふっと微笑む。

 爽やかでちょっと少年の面影が残る笑顔に、キアラは思わずドキリとした。


 そう言えばダミアーノがこんな風に自然と笑う姿なんて、かつて見たことがあっただろうか……。




 交渉事が終わるとレオナルドは足早に店主のもとへ向かって、


「済まないが、今回は彼女に全てを譲ることにした。300払うそうだ」


「さっ、さんびゃくぅっ!?」


 キアラは彼の背後で悲鳴を上げる。金貨300枚なんて、言っていない!

 彼女の狼狽える様子を見て、レオナルドはニヤリと意地悪そうに笑った。計画を潰されたささやかな仕返しらしい。


 とんでもない金額に頭が真っ白になって思考停止した主人の代わりに、ジュリアが交渉をして250まで値下げを成功させた。店主としては最初の100でも十分だったので、幸運である。




 肩を落とすキアラと慰めるジュリアが店を出ると、レオナルドが待ち構えていた。


「な、なんですか? 今日の件は忘れると申しましたでしょう?」と、キアラは警戒する。


「いや、それは俺の中でも既に終わったことだ。リグリーア伯爵令嬢――」


 彼は彼女の顔にずいと自らの顔を近付けて、


「その赤い瞳は……いつからだ?」

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