第4曲

 私は薄汚れた子供だった。


 物心ついた時には親はおらず、名前を与えられることもなく、腹を空かせながら毎日ゴミを漁り、物を盗んでは暴力を振るわれ、泥水を啜って生きてきた。

 きっと大人になることもなく死ぬんだろうなと幼心に思っていたら、ある時、私は人攫いに遭い、あれよあれよと陽の光も届かないような地下へと連れていかれ──美しき怪物が潜む、檻の中へと入れられた。

 新しい血袋です、なんて簡潔な言葉と共に。

 怪物は、パッと見は人間と姿形が変わらなかった。頼りない灯りに照らされた白髪は床に垂れ広がり、柔和な顔には何の感情も見えなくて、血を思わせる深紅の瞳を真っ直ぐに向けられ、怯えと、感嘆で、私は身動きもできず、何も言えなくなったのをよく覚えている。

 何をされるのだろう。こんな綺麗なものは見たことがない。痛いことをされるのか。汚したら怒られそう。

 人と同じ見た目なのに、同じ人と思えない。清廉な美しさの中に、獣染みた警戒心を隠しきれていなかったのだ。

 君、と話し掛けられた。柔らかな低い声。口の隙間からは牙が見える。


「ご飯とお風呂はどっちがいい? 僕は是非ともお風呂をおすすめするよ」


 見た目と声に合わず、子供っぽい話し方だった。それがとっても変で、何も言えずにいたら、ちょっとごめんねと断って、私の手を掴まれた。


「お風呂にしよう、お風呂がいい」


 かなりの時間を掛け、綺麗にしてもらった私は、ワイシャツを一枚借りてワンピースみたいにし、何の脈絡もなくロールパンを渡される。


「僕、ロールパン大好きなんだよ。美味しいから食べてごらん」


 あまりにも空腹だったので、言い終わらない内に平らげるとかなり笑われた。またどこからかもう一個、ロールパンが用意され、それもすぐに食べたら、袋いっぱいのロールパンを渡されて、最初の警戒心は露と消え、貪るように食べ尽くす。

 そんな私の頭を優しく撫でながら──彼は名乗った。


「僕はレグルス・シェフィールド。世にも珍しい、歌劇場に囲われる吸血鬼だよ」


 彼は人間ではない。でもそれは、ロールパンの前では無意味なこと。怯えることもなく夢中で食べ続ける私を、彼は気に入ったようで──すぐに殺されることはなかった。

 後になって教えられた、私は全身の血を彼に吸い尽くされて、すぐに死ぬはずだったらしい。その為に、人攫いに遭ったのだ。死んでも誰も困らない子供だから。

 人間と同じ食事ができるみたいだけど、血を飲まないと干からびて灰になってしまうから、定期的に血袋が必要なんだと。

 多ければ多いほどいいはずなのに、彼は私にほんの数滴分しか求めてこなかった。私の指先を口に含んで、なるべく優しく牙を立てる。最初は痛かったけど、だんだん慣れた。

 一緒にロールパンを食べ、一緒に風呂に入り、一緒に寝る。──それ以外の時間、彼はずっとピアノの前にいた。


「僕は曲を作らないといけないんだよ。それがね、僕に与えられた役目だからさ」


 いつも心から楽しそうにピアノを奏で、譜面に色々書き込んでいるのに、そういう話をする時だけ、彼の顔は暗くなる。

 それが何となく嫌で、私は歌った。

 まだ歌詞も付いてないから、ラララって適当に、時にはハミングもして、空気を変えてきた。

 ただ、彼に楽しんでほしかっただけ、それなのに──私は知らずに余計なことをしていただけだった。

 いつも通りに彼がピアノを弾いていたある日、アンナ、と彼が誰かの名前を口にする。黙っていたらまた、アンナと彼は言い、横に座っていた私の肩を掴んだ。


「君は、アンナだ」

「……何それ」

「君の名前だ、僕が考えた」

「……名前」

「これから必要になる。ただのアンナ、まずはそこから始めてごらん」


 彼が何を言っているのか分からなかった。レグルスと呼び掛けても、彼は微笑むばかり。

 ──突然、牢の扉が開けられる音がした。

 入ってきたのは、以前私をこの牢まで連れてきた男で、私達の傍まで来ると、何の断りもなく私を担ぎ上げた。


「ちょっ……!」


 また、どこかに連れていかれる。ここに来た時もそうだった。私に選択肢などないのだ、どんなに暴れようとも、男はびくともしない。


「レグルスさん……このガキ、本当に使い物になるのかい?」

「磨けば歌姫になるよ」

「ありふれた血袋だと思いますがね……レグルスさんほどの方がそう言うなら、試しに使わせてもらいますが」

「絶対に化けるから、指を賭けてもいいよ」

「いくら切っても生えるからって、物騒な冗談はよしてください」


 泣き叫んでも何も変わらず、その内、男が歩きだす。レグルスと何度も叫びながら手を伸ばしても、彼は微笑みを向けるだけ。


「──嫌よ! 私は貴方と一緒にいたい! これからも、ずっと!」


 でも、そう口にしたら、彼から微笑みが消えた。今までこんな話、お互いにしたことなかったからだと思う。

 彼と食べるロールパンは美味しかった。彼と紡ぐ音楽は心地好かった。──いつも頭を優しく撫でてくれるのが、堪らなく嬉しかった。

 存在しない選択肢が認められるなら、私が死ぬまで、飽きられて殺されるまで、彼と一緒にいたい。そう思うくらいには──。 


「……君は本当に変わっている」


 間もなく牢を抜けるという頃に、彼はこう言った。


「また僕に会いたいと思ってくれるなら──歌姫になってごらん。君なら多分なれるよ」


 それが、私が最後に聞いた彼の言葉。

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