第2曲
この歌劇場には、とある音楽家が囲われている。
いつからそうなのかは誰も知らない。私が生まれるよりもずっと昔から、劇場のどこかに閉じ込められ、そこで楽団や歌手の為に曲をひたすら作らされているのだと、劇場の関係者はもちろん、出入り業者や客にもいくらか伝わっている。
どこかにありそうなオカルト話に思われるかもしれないけれど、その音楽家と顔を合わせたことがある人間も少なからず存在した。歴代の劇場支配人、楽団の指揮者、そして──音楽家が直接会いたいと思った、その時の歌姫だ。
誰もいない間に控え室に招待状が届き、指定の場所で落ち合った案内人に手を引かれて、音楽家に会った時、気に入ってもらえたら後日、曲をプレゼントしてもらえるのだとか。
歌姫になると決めたその日から、この機会を待ち望んできた。
劇場お抱えの歌手は私の他にもいるし、外部から呼ばれる歌手もいる。その中で歌姫と大勢に認められる歌手は一握りで、歌姫になったからといって、必ず音楽家が会ってくれるわけでもない。
……どうか、私を見て、私に会って──私の歌を好きだと言って。
どれだけの念を込めて今まで歌ってきたことか。招待状がなかった時、どれだけ悔しくて泣いたことか。
やっと、会える。
約束の午前二時、私以外は誰もいない劇場で、カンテラを手に舞台の上に立っていた。
黒いコートに身を包み、巻かれていた髪を、風呂に入ってからお気に入りの白いリボンで一つに束ね、化粧もろくにしていない私を、歌姫アンナだと気付く者はいないんじゃないか。素顔で出歩いて声を掛けられたことなんて、一度もないもの。
案内人を待つ間、舞台から客席を眺める。当たり前だけれど、上も下も誰もいない。客席に座って舞台を見たことは一度もない。そこから見える景色は、どんなものだろう。
降りてみようか。
戯れにそう思ったけれど、案内人がいつ来るか分からない。静かに客席を眺めながら、鏡の前でするようなことをする。
薄汚れた子供の姿を探した。
その子は迷惑にも席に座っているだろうか、劇場スタッフに追われて走り回っているだろうか。
視線は、一番奥の出入口に向かう。
──薄汚れた子供は、そこから舞台を観ているはずだ。
「アンナ・ローズウッド様でお間違いなく?」
ふいに話し掛けられ、声のした方に身体を向ける。いつの間にか、どこかの貴族の子供と思しき、身なりの整った栗毛の男の子が、すぐ横に立っていた。
私が探していたのはこの子じゃない。
「人違いでしたか?」
可愛らしく首を傾げる男の子。何も言わなければ、来た時と同じく音もなく消えるのか。
まるで知らない子供だけれど、もしかしたら、彼が私の待っていた人なのかもしれない。
「きっと、私よ」
「そうですか。では、ミス・ローズウッド、これより貴女を彼の元へお連れいたします」
彼。
鼓動が、呼吸が、速くなる。
夢みたい、でも、夢じゃない。
ああ、彼に、会える……!
男の子は私の前に手を出した。
「お手をどうぞ、ミス・ローズウッド」
「紳士的ね」
言われるがままに掴むと、目蓋を閉じるよう言われて、その通りにした。──瞬時に、空気が冷ややかなものへと変わる。
もう開けていいと言われて開ければ、私達はもう舞台の上にはいなかった。
持っていたカンテラで辺りを見渡すと、手を伸ばせば触れられる距離に石造りの壁と天井があって、前も後ろも、終わりの見えない闇が広がっている。
「この道を真っ直ぐ進んでください。そうしたら、彼に会えますよ」
「……小さな紳士さん、貴方は何者なの?」
「ぼくはただの案内人です。お気になさらず」
「……案内、ありがとうね」
礼を口にして、すぐに指差された方へと足を動かした。
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