第41話 博と真知子

「それでは、今日はここまでにしましょう」


 夕食後、夜間の追加指導も二時間ほどで終わり、時刻はすでに午後十時半を過ぎていた。

 アトリエと呼ぶには生活感がありすぎる六畳ほどの洋室で、真知子は時計を見上げため息をつく。

 長時間労働だな。

 そう思ったが、世のサラリーマンに聞かれたら馬鹿にされる程度の拘束時間だ。泣き言なんて言えやしない。


「真知子先生、今日はもう遅いから泊まっていってくださいな」


 二十三時近くなり、部屋まで様子を見に来た帯金の奥様がお上品に提案する。


「いえ、帰ります。また金曜日に」


 真知子はそそくさと片付けを終わらせて帰ろうとした。その手を博が掴む。


「外は暗い。危険だ。泊まっていけ」


 おおよそ心配などしていないようにニヤニヤ笑いながら、博が言う。

 一番危険そうなお前が言うな、と真知子は思った。夜道よりもこの家にいる方が明らかに危険だ。この屋敷には、博と真知子をくっつけようとする敵しかいないのだから。


「すみませんが、家で私の帰りを待っている者がおります。帰ります」


 博の手を振りほどき、鞄を持つ。その様子を見ていた奥様が、真知子の進路をさえぎった。


「あら嫌だわ、真知子先生。お召し物が絵の具で汚れていますわよ。洗濯しますわね。そんな格好で帰らせられませんもの。ああそうだ! 洗濯している間に、真知子先生もお風呂に入っていかれたらいかがかしら」


 奥様が真知子の服を強引に引っ張る。本当に風呂場まで連れ込まれそうな勢いを受けて、真知子も力いっぱい抵抗した。


「いえ、帰るだけなのでこのままで構いません。お気遣いありがとうございます」


 何が気遣いだ、と内心毒を吐く。既成事実を作ろうとしている魂胆が見え見えだ。恐ろしすぎる。誰が乗るものか。

 真知子は無理矢理部屋を出ようとしたが、今度は博がドアの前に立ちふさがった。


「では、せめて車で送ろう。運転手を手配する。だがしかし、あいにくこの時間ではすでに寝ているだろう。起こして支度を整えさせるまで、真知子先生もゆっくりしていくと良い。母さん、準備を頼む」

「そうね。では先生、ごゆっくり」

「いえ、お気遣いなく」


 真知子の断りの言葉は、バタンと閉められたドアの音でかき消された。博がニヤリと笑う。

 奥様が出ていったあとの部屋は地獄のような空間だった。

 真知子と博の二人きりなのは絵の指導中となにも変わらないはずなのに、空気感が全然違う。博のねっとりとした視線が、常に真知子の身体を視姦しているようだ。

 フー、フーという博の鼻息が部屋にこだまする。

 動悸がした。博のきつい体臭に吐き気をもよおす。


「やはり歩いて帰ります。運転手の方にも悪いですし、失礼します」


 これ以上同じ部屋にいるべきではない。真知子の本能がそう悟り、立ち上がる。


「では自分が送ろう」

「いえ、結構です。もう遅いので、博さんはお休みになってください」

「そうはいかない。女性を送るのは男の役目だ」

「ですが……」


 真知子と博は部屋の中でにらみ合っていた。

 ゆったりと椅子に腰かける博を見るに、今のところ彼が襲い掛かってくる様子はない。が、それも時間の問題な気がした。博の口元がヒクヒクと動いている。笑いをこらえるように。

 真知子は気付いた。博は楽しんでいるのだ。この状況を。

 獲物は自分の手の中にある。いつ食らいついても良いと思っている。ゆっくりじっくり気分を高めてから、好きなタイミングで襲い掛かる。その時を見計らっている。ただそれだけ。

 逃げなければ、犯される。


「博さん、……申し訳ないのですが、お水を一杯いただけませんか。喉が渇いてしまって」


 一か八かだった。

 博が台所へ向かうか、お手伝いさんを呼びに行った隙に逃げよう。今の真知子にはそれしか方法がない。

 博はじっと真知子を見定める。真知子も精一杯、のどが渇いて仕方ないフリをする。

 博は渋々立ち上がった。


「わかった、持ってこよう。先生は座ってゆっくりしていてくれ。なんなら、寝ていても良い」


 博の視線が真知子の全身を舐める。

 ふざけるな、と思いながら、真知子は感謝を述べた。

 博が部屋を出て、扉を閉める。足音が遠ざかるまで数秒数える。……そろそろ良いか。

 真知子も扉をそっと開き、静かに部屋を出た。


 広い屋敷で良かった。博が台所へ向かう後ろを、かなり距離を取って歩き、真知子はそのまま静かに玄関から飛び出した。

 バレてはいけない。追われたら、捕まったら、終わる。逃げろ。

 まっすぐ帰るのは危険だと思った。あえて普段使わない道を行き、見つからないように逃げる。


 数百メートルは走っただろうか。

 真知子はあえて住宅街をさけ、山の近くを通って家路を急いだ。流石にこんな道を使うとは誰も思うまい。走りつかれた真知子はとぼとぼと暗闇を歩く。

 やはり、講師など辞めるべきだ。危険すぎる。

 プライドがあった。人間として生きたかった。だが結局、女は女でしかないのだ。誰かに嫁として飼われ、子をなし、家庭を守る。それが女の務めだ。

 社会は女をそう扱い、そこから抜け出そうとする女は、別の男がまた飼いならそうとする。それが社会。


 真知子は思い知った。


 帯金家に手籠めにされるくらいなら、啓次郎に「ほら見た事か」と言われようが、どれだけ自分が情けなかろうが、生きる意味など見いだせなかろうが、甘んじて女としての務めを受け入れよう。それが良い。最初から、それが自分の幸せだったのだ。運命に抗おうとした自分が馬鹿だったのだ。


 ――ザクッ。

 

 不意に真知子の耳に足音が届いた。

 ザクッザクッと遠く後ろから聞こえる。


 最悪だ。


 これが帯金家の人間の足音と決まったわけではない。気付かれないように、あえてこの道を選んだのだ。

 大丈夫。大丈夫。

 真知子は自分にそう言い聞かせる。

 だがしかし、夜遅くにこんな山沿いの道を歩く人が、果たしてどれだけ居るだろう。何もない一本道。町内を移動したいのであれば、住宅街を抜ければ良い。わざわざこんな山沿いを歩く理由のある人間なんて、そうそういるはずがない。


 最悪だ。


 気のせいだと思いたかったが、残念ながら足音は確実に大きくなっている。近づいている。誰かはわからないが、真知子の背後はどんどん詰められている。


 一か八か。


 真知子はぐっとこぶしを握った。追われるのか、逃げ切れるのかもわからないが、ここは走って逃げるしかない。一か八か。さっきは上手くいったのだ。今度だってきっと。

 真知子は意を決して走りだした。

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