26:閉

 路地裏へ戻ってきたはいいが、マダラと宇田川の気配はわからないままだ。このまま進んだほうがいいのか、それとも戻るべきか……。

 腕組みをしながら思案していると、一匹の式が俺の方へ戻ってくる。足下から這い上がってきて俺の胸元へ戻った式は紙垂しでへと姿を変えた。

 式が見たものが俺の中へ流れ込んでくる。清野の長男がマダラと宇田川の前でヘラヘラしている光景が見えた。このまま進んだ方が良さそうだ。

 ヒサカキを影に潜ませたまま、俺は小走りでマダラたちの元へと駆けつけることにした。


『血も涙もない奴だ』『父は優しかったか?』『蛇の胎を肉親で満たす冷血なやつ』


 耳元で囁く声は不快なことこの上ない。アレが本物の父親だったとして、俺がした選択を非難など絶対にしない。そう自分に言い聞かせながら足下に這い回る虫を潰してひたすら前へ前へと進んでいく。

 壁にも地面にも様々な虫が蠢いている。時折、ヒサカキが苛立ったように尾を壁に叩き付けるが虫たちも、こちらへ近寄ってくる悪霊のなり損ない共も一瞬だけ散ってすぐに近くへ戻ってくる。

 じめじめとして蒸し暑いのに、寒気は相変わらずなくならない。

 まるで高熱を出している時のようだ。

 どれくらい歩いたんだろうか。一度立ち止まり、辺りを見回す。崩れた字、ボロボロの壁、錆びた雑居ビルの非常階段、饐えたような臭い。何もかも不快だった。


暁崇あきたか


 再び、聞き覚えのある声が聞こえてくる。

 背後を振り返ると、にこやかに立っている父の姿が再び現れた。


「……」


 今度はとりあわない。今度は取り乱したりしない。

 ヒサカキも俺の意識を汲み取ったらしい。命じるよりも早く口を大きく開いて父親の姿をした何かを丸呑みにした。

 早くここを抜けよう。少し駆け足になって路地裏を進む。そこら中に放ったはずの式たちの音沙汰はない。消されてしまったか、戻って来られないのか。

 蜘蛛の巣を腕を振って壊し、前へ進む。別れ道はない。

 よく考えてみればおかしい。ずっと途切れない雑居ビルの路地裏とはなんだ?

 古ぼけた室外機、錆びて塗装も剥げかけている非常階段の手すり、放置されたいくつものゴミ袋、おぞましいほどの虫、いつもなら俺がいるだけで逃げてしまうくらいの小さな小さな悪意の煮こごりたち。

 どこからおかしい? どうすれば抜けられる?

 空を仰ぐ。雑居ビルに囲まれた夜の空はとても小さくて、空に昇っている月すらも見えない。窓から漏れてくる空虚な光がわずかに降り注ぐこの醜くて狭い道は……。


 立ち止まって辺りを見回す。遠くに光が見える。

 戻ろう……。そう思って今まで来た道を戻ろうとすると、また俺の名を呼ぶ声が聞こえた。


「暁崇、もういいんじゃないか?」


 父さんの顔で、父さんの声で、父さんが言わないことをいうな。

 ヒサカキが父さんを丸呑みしようとして口を開く。父さんが悲しい顔をする。

 いや、は父親なんかじゃない。

 大きく膨れたヒサカキの腹がすぐに平らになる。

 早くここからでなければ。

 全力で走る。強く踏みしめた地面で逃げ遅れた虫が潰されてメキとかギィという小さな音を立てる。まるで人混みの中にいるように大勢の人間が俺を「親不孝」だとか「出来損ない」と罵ってくる。

 もうどちらの方向に進んでいるのかもわからなくなってきた。

 ただ、もうここから出たい。開放されたいという気持ちが強くなってくる。


「暁崇、もういいんだよ。私は君のことを」


 何人目かわからない父さんを飲み込んだヒサカキの腹が割けて横たわる。紙垂しでに戻ったヒサカキを拾い上げて、懐へ入れてまた走り出す。

 父さんの声がずっと耳から離れない。名前を呼ばないで欲しい。父さんに似ていない黒い髪とつり上がった冷たい目。父さんみたいに綺麗に呪いを取り分けて、残った物を神様に還せたことはない。ヒサカキが丸呑みにして、本家で祀られているドウツウ様が還してくれる。


「暁崇」


 なんで消えてくれないんだよ。

 涙が勝手に溢れて来るし、もうヒサカキはしばらく使えない。

 このまま取り殺されたら父さんに会えるのか?


 垂れ目がちな目を細めて、柔和な笑みを浮かべている父さんに対して、ゆっくりと手を伸ばした。

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