第三十四話 知らぬが仏の笑噺 乙

 夕暮れの頃、ぼくと『名無し』は差し当たり一泊分の荷物を持って、王の背後について件の屋敷とやらに向かった。驚いたことに彼もこれまでその屋敷とやらを見たことが無いらしく、道中複雑な道に何度も迷うなどして、道中ひどく時間を掛けることとなった。不満を隠そうともしない『名無し』が乱暴な口調で、


「おい、まだ着かないのか王!お前が泊まっていた宿を出てもうそろそろ半時は経つぞ!」


「そう急かすなって、俺だって行くのは初めてなんだから」


 そんな会話をしている二人を後ろから見ながら、ぼくは少し羨ましさを感じている自分に気がついた。思えば彼との付き合いも間も無く十年になるが、果たして自分はどのくらい彼の求めるところに近づけているだろうか。


「(彼はぼくを主人と認めてはいないけれど、身分のことはしっかりと弁えている)」


 言葉遣いは丁寧だし、必要な時はしっかりとぼくのことを立てて、勝手な行動をする事もない。だがそれだけに、時折ぼくは寂しさを覚えるのだ。


「(最低限の一線すらもどかしく、越えてしまいたいと思うことがある。元はといえば、彼に自分を主人だと認めさせるために、精進することを決意したというのに)」


「永暁さま?」


「ん、あぁすまない、考え事をしていてな。どうかしたか?」


「いや、もうすぐつきますよ、王の下宿に」


「そ、そうか」


 黄昏時の薄闇が辺りの街を包み込んでいた。玉皇廟街の辺りにはこれまで来たことが無かったが、雰囲気はぼくらの屋敷がある内城に少し似ている様に見える。古びて灰色みを帯びた建物の壁が影と相まって、黒々と墨を塗ったように感じられ、暑さの中に一抹の涼を送り込んでいた。


「ここがそうなのか、王」


「ええそうです。広い庭付きのいい屋敷でしょう?」


 自慢げに屋敷の門を指し示す王。確かに構え自体は悪くない。控えめに見積もっても数十年前から放置されているのだろうが、どこにも崩れた様子がないのは骨組みをしっかりと作っているからだろうか。すっかり燻んでしまった扁額には、おそらくは詩の一節が揮毫されたのだろうが、その辺りの教養がないぼくには由来がよく分からない。


 一先ず新しい借り手がついたから多少の整備はしたのだろう、門や壁際に雑草などは生えていなかったし、所々漆喰を塗り直した痕が観られた。流石に朱塗りの柱を建て直すまでには行かなかったのだろうが、科挙に落第した孝廉の棲家としては華やか過ぎても宜しくない。


 その様に風情を細かく観察しながら、ぼくらが門の敷居を踏み越えようとした時、


「あら」


 中から声がする。何事かと思って目を凝らすと、だだっ広い前庭の奥つ方、中庭との仕切りに作られた垂花門の辺りに、白っぽい着物を着た若い女が立っていた。少々薄暗いので目を凝らさなければならなかったが、『名無し』が手に持った提灯を近づけてみると、中々どうして色っぽく、いい女に見えた。少し短い髪の毛を頭の後ろで結い上げて、真鍮製のかんざしは古めかしい細工だが品は良い。顔立ちは少し目つきの鋭いきらいはあるが、全体の造作としてはよく整っている。


「あなた達が、新しくこのお家を借りる人?」


「え、ええそうですよ、お嬢さん」


「まあ嬉しいわ。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいましね。何か気になることがありましたら、あたし、すぐ近くにおりますから、なんでもおっしゃってくださいまし」


 ぺこり、と礼儀正しく彼女は頭を下げて、ぼくらが潜ってきた門から通りへと出ていった。王はしばらくぽーっと顔を赤くして立ちすくんでいたが、『名無し』に膝の裏を軽く蹴られて意識を取り戻し、


「あ、あぁ!あれが狐か!それにしても驚いたな、本当に狐は人に化けるのだな!」


「……ひとまず、あれを退治しろというのがお前の依頼だったが、やっていいのか」


「し、親王殿下!?」


 なんてとんでもないことを、と言わんばかりに王は首を横に振って、


「いえ、狐とはいえ、いきなり退治するなどということは宜しくありません。まず、このわたしがしっかりと狐と腹を割って話すことに致しましょう。彼女にも事情があるはず、今夜辺り早速、話をしてみるつもりです」


 うんうん、と頷くその顔を、『名無し』が胡散臭そうに見つめている。


「ね、こういう野郎なんですよ」


「あぁ確かに、『浮ついた』嫌な野郎だな」


 ぼくら二人は満洲語で密かに囁き合うと、一先ず家に入って荷物を整理しようと持ちかけた。幸い部屋は余るほどある様だから、泊まるのに部屋が足りないということは無いだろう。ぼくらは屋敷の中の見回りがてら、早速中へと足を踏み入れたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る