冰鳴堂実録 〜あるいは、変人親王と怪力乱神の小噺〜

津田薪太郎

序幕 『名無し』と親王

 外は嫌いだ。内も嫌いだ。ぼくのことを『親王殿下』と呼ぶすべてのものが大嫌いだ。でもだからこそ、『彼』のことだけは嫌いになれないのかも知れない。彼はぼくを『瀏親王りゅうしんのう』だなんて呼ばない。勿論、『和碩瀏親王ホショイ・ギルハ・チンワン(注1)』なんて呼び方も使うわけがない。彼はぼくのことをハヤブサか何かの様に鋭い目で見つめて、こんな風に言うのだ。


永暁ヨンヒョオさま、おはようございます。起きてください。もう朝ですよ、まだ起きたく無いですって、しょうがないですね……なんて、言うと思いましたか?早く起きろ、じゃないと朝食を全部頭にぶっ掛けるぞ永暁!」


 やめてくれ、今起きるから。ぼくが渋々半身を起こすと、彼はついさっきまでの生意気な態度はどこへやら、ついと目を背けて素っ気なく言い直す。


「おはようございます、永暁さま。本日もいい朝ですね」


「ああそうだね、本当にいい朝だ」


 ぼくは彼の名前を知らない。ぼくによく似た長い黒髪に、紅玉のような赤い瞳を持った彼の名前を、出会ってから十年近くたった今もぼくは知らないままなのだ。


「お前に俺の名前は教えてやらない。死ぬまで、絶対に」


 ひとりぼっちになってしまったぼくをそう怒鳴りつけた少年は、今もここにいる。相変わらず謎めいた、目を離せない存在として。


「さあ永暁さま、朝餉に致しましょう。今ご用意を整えますから」


 こいつも、もう随分と背が伸びたのだな。すっかりぼくが見上げる形になってしまった。そんなことを考えながら、ぼくは何度目かの回想に入る。彼との─『名無し』の奴僕と初めて出会った、八歳のあの日のことを。


 今から十年前、父、弘朗ホンランが死んだ。五十七歳だった。争いが絶えない西域の地を総督として治めること実に二十年余り、幾多の反乱を制圧し、戦火や災害で荒廃した民政を立て直し、住民からは神様同然に慕われた偉大な人だった。


 光輝ある鉄帽子王(注2)家、瀏親王家の初代親王と認められるに相応しい活躍をした─そんなあの人の諡は『瀏廉親王』。内政においては清廉篤実、軍配を握れば鬼神の如し。国の為に生涯をささげた父は、正しく偉人だったと誰もが言った。


 けれど、その時のぼくにとってはそんなことはどうでもよかったのだ。父の棺が京師に戻ってきた折、ぼくは初めて、『自分の父親』とやらに「会った」のだ。ぼくが生まれる前から西方に赴いて、生まれてからも一度も帰ってきたことのない父。他の子どもと同じように遊んでくれたことも無ければ、褒めてくれたことも、叱ってくれたことも無い父。そんな彼が横たわる棺を覗き込んだ時、ぼくはようやく、自分が何者から生まれたのかを知ることができたのだ。


「本日より、貴方さまが第二代和碩瀏親王と成られます」


 やめてくれ。ぼくはそんなもの知らない。


「先の廉親王殿下は当代にも稀な素晴らしいお方でいらっしゃいました。どうぞ殿下もその後を辱められることの有りません様……」


 黙れ、ぼくに一度も会いに来てくれなかった父の遺言なんて知るものか。


「さあ殿下、お召替えを。これより皇帝陛下に相まみえるのですから」


 いやだ、いやだ。誰かぼくを連れ出してくれ。あの椅子に座ってしまったら、ぼくはいよいよ独りぼっちになってしまう。龍をあしらった黄金の玉座、そこに五十年にもわたって座り続けた老人が、僕を見つめて言った。


「朕の名において、汝永暁を瀏親王に封ず。弘朗は朕の股肱之臣にして、最も信頼厚き弟でもあった。見れば汝は彼によく似ている……きっと、朕の次代にも、社稷をよくよく支えてくれるだろう」


 その時、ぼくの扉は閉ざされたのだ。逃げることも進むこともできないまま、ぼくは嘘と悪意に塗れた宮廷の中にひとりで放り出された。どこにも行けない、誰も信じることはできない。自分で言うのもなんだが、八歳の子供に強いられるにしては、些か過酷過ぎはしないだろうか。


 だから、ぼくは閉じこもることにした。心を箱に入れて、自分自身も大きな屋敷の中に閉じ込めて。そのまま鍵をかける決心をしたのだ。誰とも話したくはない、だって言葉なんてわからないから。早くに死んだ母は、ぼくに『国語グルン・イ・ギスン』(注3)を教えてくれたけれど、それは誰にも通じない、死に絶える寸前の古い言葉だった。


 ぼくに傅くすべての人々の言葉を、ぼくは理解できない。代わりにぼくが話す言葉も彼らは分からない。そして、その上っ面がないだけに、その下に彼らが抱く悪意が透けて見えるのだ。わけのわからない言葉を話す、豪華な衣装に身を包んだだけの獣。そうとしか思えなかった。


「嫌いだ。何もかも。ぼくを『親王殿下』と呼ぶすべてのものが……」


 頑なに閉ざされたぼくの心。それを乱暴に蹴破って乱入してきたのは、ぼくとよく似た姿の少年だった。決意を双眸に燃やした彼は、書庫に閉じこもってばかりいたぼくの後ろに立ちはだかって、強引に首根っこを引っ掴んで、ぼくを日の光の下に引き摺り出したのだ……。


 忘れもしない、冬のことだった。父が亡くなって一年が過ぎたころ。


 ぼくは公務にも修練にも出ることなく、それどころか、屋敷からも一歩も出ていなかった。父が残した巨大な書庫をもっぱらの居所として、本を読むことだけを楽しみにして日々を送っていた。他人と言葉など、久しく交わしていなかった。そんな中、彼はぼくの所へやってきた。雪の舞い散る外の冷たい空気をまとって、彼は黙って本を読みふけるぼくの後ろに立った。


「おい、お前」


「……」


「お前、瀏親王永暁ってのはどこにいるんだ?今日からこの屋敷に来たんだがよ、広すぎてさっぱりわからねえんだ」


 透き通るように明瞭な『国語』だった。失われる寸前の祖先の言葉で、彼はぼくを飛び捨てにした。驚きと共に、一瞬後には諱を呼び捨てにされたこらえ難い怒りが胸に去来する。許しがたい無礼、一瞬にして僕の心は沸騰し、振り返って声の主を睨みつけた。


「無礼者め!こ、このぼくを─瀏親王永暁を呼び捨てにするとは!」


「おや、お前が親王だったのか。あまりにも弱っちく見えたから、同じ下働きかと思ったぜ」


「こっ、このっ!」


 ぼくは思わず彼に掴みかかった。襟首に両手をかけ、大きな声で怒鳴りつけてやる。


「下働きの分際で!よっ、余程命が惜しくないようだな!ぼく……いや、わたしにそんな無礼な口をきくとは」


 声の主は、ぼくとさして歳の変わらない少年だった。寒さのせいで赤くなった頬はつるんとした桃の様で、開かれた目にはぼくと同じ、深い緋色の瞳が光っていた。


「へえ、部下を呼ばずに自分で殴り掛かるだけの度胸はあるんだな。ちょっと見直したぜ」


「お前、名前を!名前を名乗れ!今すぐ誰ぞに命じて、棒叩きに、いや、斬首刑にしてやるからな!」


「言葉も通じないのに?」


 カッと頬が熱くなる。この少年は知っているのだ、ぼくが屋敷の使用人たちや、同世代の子供達と言葉を通じさせることができないことを。一つの言葉しか話せないぼくを嘲笑しているのだ。


「くっ、くそっ……!」


「俺を殴るか?いいぜ、やってみろよ。俺を殴ったらいい、赤んぼが癇癪を起すみたいに俺を……」


「やあっ!」


 ぼくの拳は少年の顔を狙って伸びた。しかし、長いこと引きこもりのひ弱な子供の拳が、まともな効果を発揮するわけがない。ぼくの手は苦も無く受け止められ、そのままぼくの左頬に痛烈な平手打ちが見舞われた。


「痛っ……!」


「……見損なったぜ。親王殿下の息子って聞いていたから、きっと聡明な方だと思っていたのに」


「親王殿下……?父上のことか?」


「ああそうだよ。先の瀏廉親王……お前の父上は、素晴らしい方だった。俺たちにとっては神様みてえな人だ。だのに、その子供のお前が……永暁が、こんな腑抜けたガキだったとはな」


「お前もそうなんだな。ぼくと父上を比べて、父上に及ばないと、そう言うんだな」


 涙が自然と溢れ出ていた。叩かれた痛み、同じ年代の少年にすら負けてしまった衝撃、そしてまたしても父の陰から注がれる失望の視線。心がぐちゃぐちゃにかき回され、もう形のある言葉は出てこなかった。


「うっ、うう、うわあああ……」


 ぼくは泣いた。大声を上げて。


 父の葬列の時でさえ出なかった涙がポロポロと零れ、のどの奥から叫びがほとばしり出た。親王になんてなりたくなかった。嘘をついて、父の後継者としてふるまいたくなんてなかった。みんながぼくを追い詰めるあんな椅子なんて、すぐにでも捨ててしまいたかった。でも、できるわけがない。もうぼくは座ってしまったのだ。死んでしまうまで、この場所から解放されることは無い。そんな絶望の叫びだった。


「……」


 彼は、黙ってぼくを見下ろしていた。床に座りこんで、赤子の様にわんわん泣きじゃくるぼくを見つめている。……そして、


「……おい、もう泣くな」


「……!」


 ぼくの身体に小さな二本の腕が回り、小さな胸板同士が重なり合った。ぼくは、抱きしめられていた。無礼を働いた挙句、頬を平手打ちにした少年の腕の中にいた。


「なにをっ、するんだ……はなせ、はなせよおっ……!」


「……今離したら、お前は俺を殺すだろう、永暁」


「そうだ、殺してやる。無礼者で、最悪なお前を。殺してやるから……!」


「じゃあ、離してやるわけにはいかないな」


「うう、くそ、無礼者……早く、早く名を名乗れよ……!そうじゃないと、処刑できないだろう……!」


「それじゃ、」


 彼は笑った。


「それじゃ、お前に俺の名前は教えてやらない。死ぬまで、絶対に。悔しかったら、俺が死んでもいいと思うくらいの、立派な主君になりやがれ。そうなったら……喜んで俺は、お前の手で殺されてやるよ」


 その日から、彼はぼくの側付きになった。当人の弁曰く、元々は奴僕として父に仕えていたのを、亡くなったのでわざわざ西方からここまで旅をしてきたのだという。なるほど見上げた忠誠心だ、一度はそう誉めてやろうと思ったが、


「俺に喧嘩で負けるようなやつに褒められてもね」


 べえ、と舌を出された。また取っ組み合いの喧嘩、そして負けたぼくが泣き出すと、仕方ねえなとぼやきながら頭を撫でて、けがの手当てをしてくれる……。


 今にして思えば、随分と卑劣な手口だ。暴力をふるった直後に優しくするなんて、まるで屑夫の出口じゃないか。


「おい、『名無し』」


「何でしょう、永暁さま」


「お前、絶対に嫁を取るなよ。嫁に暴力をふるうだろうからな」


「……そうですねえ、そうしておきましょうか」


 もし、ぼくが彼の名前を本気で知ろうと思ったならば、知ることは容易かっただろう。屋敷を取り仕切る大夫を問いただせば、彼の氏素性や育ちまで詳しいことがいくらでも分かった筈だ。けれど、ぼくはそうしなかった。


「いつか必ず……お前から直接、お前自身の名前を聞いてやる。その上で積年の無礼の罪を問うてやるからな」


「そうですか、楽しみにしていますよ、永暁さま」


 出会った日から九年の月日が流れた。ぼくは─瀏親王永暁は十八歳となり、『名無し』は自己申告曰く二十歳になった。最初は憎悪を燃やし合う、大嫌いな子供同士の仲として始まったぼく達の仲は、悪友から親友へ、親友から少し距離の近い主従へと変わっていく。そして、これからは─


「(いつかお前には、ぼくの全てを、認めてもらえるだろうか?)」


 ……これはぼくと『名無し』の、少し不思議な日々の物語。時に恐ろしく、時に恥ずかしい─それでも楽しい、愉快な日々の物語だ。


注釈

1.和碩瀏親王…和碩親王ホショイ・チンワン(hošoi cin wang)は大清帝国の皇族に与えられた最高位の爵位。名前の『瀏』は満洲語で「無風快晴」を意味する『ギルハ(gilha)』の意訳(河内良弘・清瀬義三郎則府編著『満洲語文語入門』)

2.鉄帽子王…大清帝国では、皇族の爵位は代替わりするごとに一つずつ下がっていく規定であったが、特に功績の高い皇族はそのまま爵位を子孫に伝えることができた。これらの親王は『鉄帽子王』と俗称され、皇族内でも特別な敬意を払われた。瀏親王家は架空の鉄帽子王家だが、史実では十二の親王家がこの称号を得ている。

3.『国語』…満洲語のこと。大清帝国を建国した満洲人は、初期にはその特有の言語である満洲語を使用していたが、時代が下るにつれて漢語に堪能となり、中期から後期にかけては、満洲人の間でさえ日常では使われなくなっていった。現在満洲語は、UNESCOの『消滅危機言語』の最上位『極めて深刻』のカテゴリーに指定されている、

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