嵐の夜
夜の依頼は急きょ取りやめとなった。
嵐の予報が出たためだ。依頼の現場は山中のため延期となった。
なんでもこの雨はこのエディンの国全土で降り続く大雨となるそうで外では雨が降り続き、いよいよ風も出てきた。
もう就寝してもいい位に夜も更けて来たが、クシェルは眠い目を擦りながら起きていた。
オレアンダーが帰ってくるのを迎え話をしたかったからだ。
見慣れた大きなソファに腰掛けそのまま身体を沈み込ませる。つい数ヶ月前の自分は今の生活はとても想像つかなかっただろう。
オレアンダーの匂いで一杯のこの部屋で溶けるほど甘やかされる様な生活を送ることになるなんて。
しかし番の契約が終わればこの生活も終わりを迎える。その時クシェルは果たして元の生活に戻れるのだろうか。物思いに耽っていると、書斎の扉が光に包まれた。移動魔法の光に違いない。
クシェルはガラにもなく胸がときめくのを感じた。たとえ仮であっても番が帰ってきたのだ。本能なのだから仕方がないのだと自分に言い聞かせるのもこれで何度目だろうか。
書斎の扉に手をかけ少し開いた所で中から話し込む声が聞こえてきた。
オレアンダーの声も聞こえるが、誰かと喋っている様子だった。相手はウィリアムだろうか。
しかし耳を澄ませて聞こえてくる声は右腕の彼の声にしては高くか細い。
そしてあることにクシェルは気づいてしまった。どくりと心臓がが掴まれたように激しく鼓動を立てる。
耳に入ったその声は人生で一番聞いてきた声だった。
──どうしてノアがここにいるんだ?
扉の隙間からそっと覗くとオレアンダーが脱力したような不自然な体勢のノアを支えているようだった。
クシェルは驚きで目を見開くとその場に固まってしまう。
「もう、辛いんです。先生と番になれないことが」
「大丈夫だから。もうすぐに番になれるよノア。とりあえず薬を」
細いノアの震えた声と、静かな諭す様なオレアンダーの声が部屋に響く。
クシェルの頭は混乱する。なぜ二人がここにいるのか、崩れ落ちそうなノアをオレアンダーが支えているのだろうか。
何よりも聞こえてきた会話がクシェルの心をひどく乱した。
もうすぐ番になるとは、どういうことなのだろう。もしかしてオレアンダーとノアがということなのだろうか。
クシェルは目の前が真っ暗になる様に感じた。
書斎の扉を少し開けた所で固まっていると、オレアンダーがこちらに気づいた。
「…クシェル、どうしてここに」
驚いた様子でオレアンダーが目を見開いた。
「え?クシェル?なんでここに?ギレス先生、どうしてここにクシェルがいるんですか?!どういうこと?」
一方ノアは混乱している様だ。心なしかその言葉には怒りが含まれている気がする。
それもヒートに入っているせいなのかも知れない。
本能的になっているヒート中に意中のアルファの近くに他のオメガがいれば落ち着かなくて当然だろう。
「ノア、落ち着いて」
オレアンダーは少し焦った様子で宥め諭す様にノアの両肩を掴んだ。
「落ち着いてられないです、あなたはクシェルに何してたんですか?」
熱に浮かされながらもオレアンダーに責めるように言葉を浴びせるノア。
いつもの優しい弟の姿からは想像もつかない。随分と本能がむき出しになって感情的になっているようだ。
目の前の光景と自身の泥のような感情にクシェルが当惑していると、あることに気付いた。
なぜか自分の足元に魔法陣が浮かび上がっていた。
「え?」
戸惑っている間に突然蔓が現れ長く伸びながら部屋の中を荒らし回り始めた。
「なんだ、これっ?」
一見するとオレアンダーの使う花葉術と同じものらしいが。
よく見ればその蔓は明らかにクシェルの足元から伸びている。無意識のうちに魔法を使っているようでまるでコントロールがつかない。
完全に暴発している。
クシェルは蔓を引っ張るも動きを止まる様子は少しもない。
蔓の一振りがノア目掛けて振り下ろされた。
「ノア!」
すんでの所でオレアンダーがノアの前に立ち塞がり蔓にその背を打たれた。
「ぐっ」
まともに受けてしまったらしいオレアンダーは暫く動けずにいた。
「ノア!オレアンダー!」
クシェルは駆け寄ろうとするも、足をピタリと止めてしまった。
「クシェル!」
あまり声を荒げることのないオレアンダーの怒声が部屋に響いたからだ。
更にオレアンダーを叩きつけようとしていた蔓もその迫力に負けたせいかたちまち消えてしまった。
「自分が何をしてるかわかってるの?」
「ちが…」
「正しい魔法の使い方は教えたはずでしょう?また暴発させるなんて…」
失望と困惑を混ぜたような彼の視線を受けクシェルは身が凍ったかのように竦ませる。
つい、今日の昼まであんなに彼との心の距離は近かった様に感じたのに。今は途方もなく離れてしまったみたいだ。
「ノア大丈夫だった?」
「うぅ、ギレス先生」
オレアンダーは壊れものでも抱える様にノアを抱き上げると側のソファにそっと降ろした。
その様子を見てクシェルの中で膨らみ続けていた疑惑が爆ぜた。
一つの答えが導かれた確信を得たのだ。
以前オレアンダーが気になっているオメガがいるといっていたが、もしかしたらその相手はノアなのかも知れない。
今まで彼がとても親切にしてくれたのも、自身がノアの兄ゆえ。ノアの学費のため。そうすれば全ての説明がつく。
会ったばかりの頃にノアがエゼル大学に通っていることを話した途端に顔を青ざめさせたこと、自身の素性を中々明かさなかったことなどを顧みると彼はクシェルとノアが兄弟であることにずっと前から気づいていたのだろう。
そもそもオレアンダーは番の本能を満たすための抱擁や寄り添いをしている時も「勘違いしないでよ」と釘を刺していた。最近ではその言葉も聞かなかったがもはや暗黙の了解だったのだろう。そして彼と抱き合ったのもその延長に過ぎないのかもしれない。
溺れるように求め合っていたと思っていたが、オメガのクシェルがアルファのオレアンダーの体を求めたので、彼は体で貢ぎ求愛給餌の本能も満たしていたのが実情なのだろう。
きっと大事なノアのために彼に独りよがりな自分の面倒を見させてしまったのだ。
「暴発してしまうからには、早急な対処が必要そうだね…」
「…」
対処とは以前彼が言っていた通り、他のアルファと再び番うことを指しているのだろうか。簡単に言ってのけるオレアンダーにとって自分が他のアルファと番うことは特に気に留めるほどのことでもないのだろう。彼以外と番うことを考えるだけで身を引き裂かれるような痛みがクシェルの心を蝕んだ。
とにかくこれ以上寄り添う二人を見ていられなかった。
ここまで自分が女々しいとクシェルは思わず、情けなさに辟易として、頭を抱えたいほどだ。
「クシェル、今はとにかく手を貸して。ノアがヒートなんだ」
弾かれる様に頭を上げるもクシェルは凍りついたかの様に身体が上手く動かせない。
最愛の弟が苦しそうだと言うのに、自分は一体何をしているのだろう。
しかし弟が望んでいるのは本当に兄の介抱なのだろうか。心底自分はここにいるべきではないように思えてしまう。
『これから先、どうしても譲れないことが出てくるかもしれない』
公開講義の日のノアの言葉を胸の中で反芻する。クシェルは思わず自嘲気味に笑った。
「ねぇ、早くして」
焦りのせいか少し冷たく聞こえるオレアンダーの声がひどく胸に堪えた。
今までに感じたことがないほど胸が痛み、クシェルは息をするのも辛くなる。
これは番の本能ゆえの痛みなのだろうか。仮とはいえ番を取られることに怯えた恐怖からなのかもしれない。クシェルは思わず己の胸に爪を立てた。
「クシェル?」
身体が突然光り、ふわりと浮かぶ様な感覚を覚えた。クシェルは驚いて自分の身体を見回した。それはクシェルも何回か経験のある感覚だった。
──これは、移動魔法?
クシェルは自分では移動魔法は使えないはずだ。しかし溢れてくる魔力は勢いを増し、これ以上魔法を暴発させれば本当にオレアンダーに愛想を尽かされてしまうかもしれない。クシェルの胸の内は混乱と焦りで一杯になってしまう。しかしどうにも止められない。
「クシェルっ?どこへ?!」
クシェルが最後に見たのは驚いたように目を見開いたオレアンダーとノアの姿だった。
クシェルは気がつくと、見慣れた場所に降り立った。通い慣れたギルドの扉の前だ。
秋夜の雨は冷たくクシェルの身体を打ちつけてくる。しかしそんなことも気にならない位に心は打ちのめされていた。
「…俺、移動魔法を使ったのか?」
あの場にいるのが耐えられないと強く思い、気づいたら発動させていた。
魔法のコントロールがまるで出来ていない。これではオレアンダーの側にいる資格はないだろう。彼は魔法の暴発に並ならぬ苦悩を抱えているのだから。
失意のままクシェルはギルドの外壁に凭れ、深くため息をついた。
クシェル自身のうなじの傷もだいぶ塞がってきている。もしかしたらノアとオレアンダーが望めばすぐにでも彼等は番同士になれるのかも知れない。
大好きな弟が望んだことなのだ。今までならなんだって差し出せてきた。金だって資産だって。それなのになぜ。
愛する番と結ばれる。
貧しい生活をさせた弟がもっと幸せになれるのだ。喜ぶべきことのはずなのに、それなのにクシェルの心は夜雨の様に暗く冷えてしまっていた。もう二度も温まることなどないのではと思うほどに。
突然扉がガチャリと開く音がした。眩い光が扉の向こうから漏れ出す。
「まあ、クシェルさんずぶ濡れじゃないですか!どうしたんですか?」
慌てた様子のライナが自分が濡れるのも構わずに外へと飛び出してきた。
「…ライナ、濡れるよ」
「ずぶ濡れの人に言われたくありません。さぁ入ってください」
仕事で来た訳ではないのだとクシェルは遠慮するも、ライナに促されるままにギルドの扉をくぐることとなった。
夜中のギルドの中は悪天候も相まって閑散としていた。
「ライナ、助かったよ」
柔らかくふわふわとした布を手渡されるとクシェルは髪をガシガシと拭いた。
濡れた服の着替えまで用意していてくれており至れり尽くせりで彼女に頭が上がらない。まるで魔法のように手際よく用意してくれる。
「温かいミルクです。さあどうぞ」
「ありがとう、ごめんな。仕事増やして」
「いえ、好きでしてるだけですから」
礼を言って受け取ると、じんわりと温かさが掌から伝わってくる。マグカップから浮かぶ湯気越しに微笑むライナと目が合った。
あまり詮索してこない彼女の姿勢にクシェルは正直助けられた。
「…なぁ、依頼来てないか?なるべく遠方の」
あまりオレアンダーの家には入り浸ることは控えた方がいいだろう。元の生活に戻るには強制的に離れる口実が必要そうだ。というかそもそも今は二人に合わせる顔がない様な気がした。
「そんな死にそうな顔をした方に依頼はできません。そもそもクシェルさん装備も何もつけてないですし」
ライナにピシャリと返され、クシェルは項垂れた。彼女に指摘され始めて気がついたのだ。自分は丸腰だということに。
「…ごめん。そうだな、無責任だった」
感傷のままに逃避行するためギルドの依頼を利用しようとするなんて。これまでのクシェルでは考えられないことだった。プロ意識に欠けギルドやライナへ対しても不誠実で、そんな自分にクシェルはさらに自己嫌悪に陥ってしまう。
「そうじゃないです。私、クシェルさんが心配なんです」
ライナは身を乗り出すと言い募ってきた。
亜麻色の髪を垂らし清々しいほどの緑の瞳はまるでエメラルドを彷彿とさせ、天使の様な慈愛に満ちた眼差しを向けてくれる。
「何があったかはわかりませんが、シャワー室も仮眠室も空いてますから。ぜひ使ってください。しっかり休めば元気も出ますよ」
優しい響きがクシェルの耳に落ちてくる。
ライナがそう言ってくれると本当にそうなる気がした。
「…本当にありがとう」
呟くように礼を言えば途端にライナは少しだけ表情を綻ばせた。
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