仮初の蜜月
「…クシェル、そろそろ起きて」
「…んっ」
目を覚ますと綺麗なオレアンダーの顔が目前に迫り、クシェルは思わず飛び起きた。
「服、ちゃんと着なよ」
彼の笑い混じりの言葉で一矢纏わぬ姿のままの自分に気づき慌ててブランケットを手繰り寄せた。
「すごかったね。クシェルったら何度も俺の名前を呼んで、足だって自分から絡めてさ」
どうやらあれから一晩中抱き合い、クシェルは明け方ごろ体力の限界のせいか意識を手放したらしい。番との性交渉のおかげかクシェルのヒートはすっかり落ち着いたようだ。
後ろから抱き込まれると、耳元に唇を寄せられ、クシェル息を漏らした。
「んっ、う、もう言わなくていいから」
「可愛かった。すごくいやらしくて」
日がこんなに高いというのに耳元で囁いてくる彼の放つ雰囲気は何とも淫靡だ。抱き込まれたままのクシェルは今にも呑まれそうだ。
「食事を用意してくるね。まだ休んでて」
しかしこめかみにキスを落としてくるとオレアンダーはあっさりと身を離し、部屋を後にした。
シャツと下履きを身につけるとまだ、だるさを残す身体を引きずる様にクシェルはベッドから出ようとした。
その時突然庭がカッと光りその閃光が扉から部屋に入り込む。
「ん?」
あの光はオレアンダーが移動魔法を使って帰ってきた時にいつも見かけるものだった。外に移動用の魔法陣が張ってあるからだ。
しかしオレアンダーは調理場へと向かったはずだし、今日はどこへもいく予定はないらしいが。
ではあの光は一体なんだろう。クシェルが思考を巡らせていると突然扉が開いた。
音を立てて開いた扉の向こうには人形の様に整った顔立ちの男が立っていた。銀の髪に仕立てのいい紺のローブ、作り物の様な美貌。
クシェルがベッドに凭れたまま呆気に取られていると、無表情のまま男は徐に口を開いた。
「なんだ。まだいちゃついてたかと思ったが違ったか」
美しくも不審な
白銀の髪に恐ろしいほど整った顔立ち。その陶器の様な白肌は染み一つない。
冴え渡る様な青の瞳は海を思わせるほど深く、そして澄んでいた。目の前の男の余りに作り物染みた美貌にクシェルは息をするのも忘れる程だ。
オレアンダーも目を見張るほど容姿端麗で華やかな男だが、まだ血の通った人間味を感じる。それに比べて目の前の彼は美しくもあまりに異質だった。
クシェルが唖然としながら見つめていると男は一つに纏めた銀髪を揺らし、紺のローブをひらめかせた。
まるで人形の様な美しさだ。
現実離れしたほど整った男を呆然とクシェルは観察していた。突然男はツカツカと足音を立て鬼気迫る表情でこちらへ迫ってきた。
「だ、誰?」
立ち尽くしたままあっという間に距離を詰められる。美男子は上背もあるため見下ろされる形になってしまった。中々の迫力にクシェルは身をすくませる。
「ギレス先生、悪趣味すぎます。何ですかコイツの顔。ふざけてる!」
「いひゃい!」
男に頬を包まれ穴が開くほど見られたかと思うと、急に頬をつねられ容姿を罵倒されてしまった。
なぜこんな目に合わなくてはならないのか。
痛みと理不尽さにクシェルは苛立ちを覚えるも、男の剣幕があまりに凄くて恐怖の方が上回り怯んでしまった。
「…術はかかっていないな。本物なのか?」
男は無表情のままだった。しかし少しだけ彼が戸惑った雰囲気をクシェルは感じ取り、隙をついて距離をとった。
「 生まれつきこの顔だ!…あんた、誰なんだよ?」
クシェルが放された頬をさすりながら怒鳴るも男は黙ったままだ。
「もうウィリアム、来る時は一言くらい連絡ちょうだいってば」
向こうの部屋から不満気なオレアンダーがひょっこりと顔を出す。どうやら顔見知りらしい。
「ギレス先生が仕事をしっかりしてくだされば、私はここに来なくて済むのですが」
「向こうには俺の傀儡がいるはずでしょう?」
「さすがに臨時集会に傀儡が出席するのはいかがなものかと」
「…今日だったか」
ウィリアムと呼ばれた男の言葉にオレアンダーはやらかしたばかりに手で目を覆う。彼がパチリと指を鳴らすとシャツとズボンの服装からいつものローブの姿になった。
「…ごめん。クシェル、仕事ですぐ出るから。食事はリビングに置いておく。夜までには帰るね」
早口で言うとオレアンダーはローブを翻しながら足早に部屋を後にし、ウィリアムも彼を追う様に退出していった。
「浮かれ気分なのはわかりますが、そろそろ気を引き締めてください」
「ごめんってば。わかったよ」
扉の向こうから二人の会話が漏れ聞こえるも、徐々に遠ざかりやがてそれも聞こえなくなる。途端に辺りには静寂が訪れた。
「…な、なんなんだ一体」
嵐の様に去っていった彼らにクシェルは唖然としたまましばらく動けずにいた。
その日からオレアンダーはよく外出する様になった。
クシェルがここへ来てからは出かけても半日ほどで帰ってくる場合がほとんどだったが、二、三日空けることが常態化してきた。
今の状態がオレアンダーの本来の生活リズムなのだろう。
そしてその代わりなのかウィリアムがよく顔を出す様になった。もしかしたらオレアンダーから監視でも頼まれているのかもしれない。
その日はちょうど、クシェルときのこ達で庭の掃除をしている昼下がりのことだった。今日も今日とて、勝手知ったる他人の家とばかりにウィリアムが棲家へ乗り込んできた。掃除に勤しんでいるクシェル達に近づいてくる。
『ウィルだぁ〜ねぇ遊んでぇ』
「また今度遊んでやる。ほら、欲しがってたチョコレートだ。ギレス先生に見つかるなよ」
途端に歓声が上がりきのこ達は彼が差し出したチョコレートの箱に群がった。
きのこ達の扱いのそつなさから彼はオレアンダーとの付き合いも長いのだろうとクシェルは予測していたが、間違いなさそうだ。
「ギレス先生から名前は聞いてるぞ、えーとク、熊殺しだったか?」
「…なんでもいいよ」
彼は何度名前を教えても覚えない。それどころか変な渾名で読んでくる。わざとなのか気がないのか。しかしそこに悪意は感じられなかったのでクシェルは特に気にしなかった。
どちらかと言うとオレアンダーとウィリアムの情報共有の仕方の方が気になってしまう。
──オレアンダーのヤツ、俺のことなんて説明しているんだろう。
熊殺しの武勇伝は確かにオレアンダーも認知していたが、陰でなんと呼ばれているのか想像するとクシェルの胸中は途端に複雑なものになった。
相変わらず人形じみた美貌に寡黙で表情が動かず何を考えているかわからないウィリアムがクシェルは苦手だった。しかし危害を加えてくるわけでもないので、なるべく気にしないことにしていた。
けれども今日は思い切ってクシェルは自分から話を振った。どうしてもオレアンダーのことをもっと知りたかったからだ。
「オレアンダーって実はやばい仕事でもしてんのか?仕事のこととか全然教えてくれないんだけど」
「さぁな、口止めされてる。本人に聞いてくれ」
しれっと答えると無表情のまま彼は首を縦に振ることはなかった。
「…なあ、もしかして人体実験ばかりしている狂科学者とか?」
「ギレス先生が?冗談だろ」
急に吹き出したウィリアムが腹を抱えて笑い出した。もしかしたら見当違いなことを言ったのかもしれない。何より冷徹な雰囲気のこの男の心底人間らしい表情にクシェルは呆気に取られてあんぐりと口を開けてしまう。しかしすぐにクシェルは表情を曇らせる。
「…口止めするほど、俺って信用されていないのか?」
そう思うとクシェルの胸は切なく軋むようだった。やはり自分は一被験者でしかないのだろうか。まるで目の前が暗くなったかの様に思えて項垂れてしまった。
しかしウィリアムはキョトンとした様子で首を振る。
「いや、今回は随分と長続きしているからな」
「え?」
長続きとはどう言うことだろうか、クシェルは目を丸くした。
「本気じゃないならあの人を惑わさないでくれよ」
彼は流し目を寄越してくるも、整ったその顔にはイタズラっ子の様な笑みを浮かべている。
「惑わす?なんの話だ」
しかし言葉を返すと途端にげんなりした表情でウィリアムは突然要領を得ない言葉をかけてくる。クシェルはなんのことか分からずにさらに首を傾げた。
「とぼけるなよ。なんで先生があんなに骨抜きになってるんだ」
「は?骨抜き?元からあんなんだろ?ちょっとひねくれてるけど」
オレアンダーが何くれと面倒を見てくれる様子は確かにここのところ顕著だ。しかしクシェルはそれも番の本能ゆえと思っていた。
「あの先生が番の食事まで気にかけるなんて」
しかし彼の話によると全ての番がそれに当てはまる訳ではないらしい。クシェルはさらに目を丸くした。
「あんなに実験だなんだって言ってオメガをとっかえ引っ換えしていたのは何だったんだ、まったく」
「は?なんだよそれ」
やれやれと呆れた様子でウィリアムはため息混じりに愚痴をこぼす。
彼の話によるとオレアンダーはクシェル以外のオメガとも「仮初の番」の実験をしていたらしい。なんでも次から次へと実験対象者を変えていたそうだ。その事実を聞いた途端にクシェルは自身の胸が締め付けられる様な感覚を覚えた。
他のオメガ達とも自分に触れる様に接したり、求愛給餌の本能のままに貢いだりしていたのだろうか。
想像し始めると止めどない。あからさまにクシェルの動揺が顔に出ていたのだろうか、少し気遣わしげな表情のウィリアムが声をかけてきた。
「クシェ…こほん。熊殺し」
「いちいち言い直すなよ」
嫌味なのか揶揄っているのか真面目な顔のまま、ウィリアムは変なあだ名で相変わらず呼んでくる。クシェルは口をへの字に曲げた。
「仕方ないだろう。うかつに名前を呼ぶだけでギレス先生の殺気が飛んでくるんだ。あの人がこんな執着を見せるのは初めてだ」
思いもよらないウィリアムの苦笑混じりの言葉が信じられずクシェルは笑った。
「冗談だろ」
「だと良かったんだけどな」
ウィリアムは不敵な笑みを浮かべると肩をすくめた。
「まあ、前の生きた屍みたいな先生よりは今の面倒臭い先生の方がよっぽどいい」
彼はじゃあなと言うと途端に辺りに氷の結晶が舞い降り、その姿を消してしまった。
ウィリアムが姿を消すと間もなくオレアンダーが帰還した。ちょうど昼下がりだったので、そのまま成り行きでティータイムを共に過ごすことになった。
ソファに凭れながら、ここのところ出入りの多いウィリアムの話題を振ればオレアンダーはキョトンとした様子で答える。
「ウィリアム?俺の右腕みたいなものかな」
「ふーん。それにしても、なんであいついきなり俺の顔つねってきたんだ?」
釈然としない気持ちのままクシェルが訊ねるもオレアンダーは気まずそうに目を逸らした。
「あー…うーんと、知人にすごく似てたらしくて。俺がイタズラしたって思っちゃったんだって」
歯切れの悪い彼の言葉が少し気になるが、想像もしなかった事実にクシェルは驚き、興味を持った。
──すごく似てる?一体どんなヤツだろう。
「何だそれ。他人の空似か?」
「…らしいけど」
「へぇ。昔は弟と似てるってよく言われたなぁ」
そう呟けばなぜかオレアンダーが少し顔を引き攣らせた様な気がした。
それにしてもやはりあまり仕事のことは自分には話したくない様だ。あからさまにはぐらかされてクシェルの胸中は不信感が募る。
──俺ってあまり普段のオレアンダーのこと知らないよな。
彼は過去のことは沢山話してくれたが、今現在の素性は殆ど話してくれたことがない。
「なあ、他のオメガとも実験したんだろう?終わった後に執着されたりしないのか?」
その話題を出した途端にオレアンダーはあからさまに顔を顰めた。
「誰にそんな話きいたの?ウィリアムか。意外にお喋りだな」
「俺がしつこく聞いたんだ」
そうクシェルが言えば渋々と言った感じでオレアンダーは答えてはくれる。
「なくもないけど、すぐ他のアルファがその子に寄っていくからか、困ったことはないよ」
「なんだそれ、まるで動物みたいだ」
「ふふっ。あのね、オメガって絶対数が少ないの」
笑うとオレアンダーはソファに腰掛けたままクシェルを抱き寄せ、膝に乗せてくる。
クシェルの住む地域では差別の対象だが、オレアンダーの周りではオメガというだけで引く手数多だそうだ。田舎と都会の地域差のせいなのかもしれない。オレアンダーはクシェルの首筋に顔を埋めると口付けてきたかと思えばそのまま愛撫する様に唇を這わせてくる。
「毎日、こんなこと」
「嫌?」
「…別に、嫌、じゃない」
「だってこうでもしないとクシェルは家の中で寝ないでしょ?」
オレアンダーは不満気に声を上げた。彼は気づけばクシェルが外できのこ達と寝ることを嫌がるようになっていた。というよりベッドで共に就寝することに拘った。
「野宿には慣れてる」
「それは俺が嫌なの」
毎日彼に抱かれて快楽に溺れ、前後不覚になり死んだ様に眠る。朝起きればオレアンダーの腕の中で目覚め後悔する。もはやそれも日課となってしまった。
オレアンダーの愛撫する手がクシェルの下肢へと伸びてきた。
下腹を撫でさすられ、少し押されただけで甘い痺れが走りクシェルの口から悩ましい息が漏れ出てしまう。
「は、あ」
「上手にここで感じるようになったね」
たまらず悶えるように身を捩る。
「欲に溺れるクシェルは綺麗だ」
低い声で熱く囁かれ、
「もっとアルファを求めていいんだよ。悪いことじゃないんだから」
溶けそうな表情で囁くオレアンダーは妖艶で美しく、そしてとても淫靡だ。
アルファじゃなくてオレアンダーが欲しい。
しかしそれは言葉にならなずにクシェルは熱い息を吐いた。
肌の触れ合いがこんなにも心地良いものだとは思わず、クシェルは驚嘆するばかりだった。しかしそれは相手がオレアンダーだからこそなのかもしれないと気づくと体温が少し上がる気がした。
「クシェルも若いもんね、いっぱいすればいいよ。我慢はダメ。体に良くない」
「適当な、ことを」
オレアンダーの甘い囁きに絆されるのが悔しくて、憎まれ口を叩くも声が掠れてしまう。
下肢の服をずらされ、イタズラな手がすかさず入り込んでくる。
「んっ」
「根拠はあるんだよ。オメガは周期に関係なく定期的にセックスをしてた方がヒートが軽く済むって論文もあってね」
「あ、くっ」
滔々と喋りながらも器用にオレアンダーはクシェルの下腹のさらに下の突起を愛撫し、徐々に身体を開いていく。
「ヒートだって強い抑制剤も飲まずに済むかもしれない。ね、そっちの方が体にもいいよ」
「…じきに頸の噛み跡も消えるんだ。お前もそんな気なくなる」
我ながら可愛げのない言葉が口をついたとクシェルは思った。
しかし心とは裏腹だ。心を許した所でこの行為は番の本能にのぼせているにすぎない。仮初の関係なのだ。憎まれ口はクシェルにとっての予防線だった。
彼と本当の番になれたら。
クシェルは自分が彼に何を求めているのかわかり始めて恐ろしくなった。
今回の実験では予想以上に番の本能に振り回されたためオレアンダーはここに常駐し傀儡を職場へ送っているとウィリアムから聞いた。彼曰く、中々尻拭いが大変らしい。
仕事に支障が出ていることを鑑みても、早く元の日常に戻った方がお互いのためなのかもしれない。
「んっ、オレアンダー、こんなんじゃ仕事にならないだろう?ウィリアムが困って…んっ」
クシェルが言い終わる前に振り向かされ無理な姿勢のまま口付け舌を絡ませてくる。
「…こんな時に他の男の名前を出すなんて、本当にいい度胸してるよね」
低い声で呟いたかと思うと手をつかされ一気に後ろから貫かれる。容赦なく腰を叩きつけられクシェルは声が抑えきれなくなってしまった。
「あ、バカ、あっ、あ」
幾たびの性行為ですっかり慣れきったそこは彼を難なく受け入れ、更なる快楽を絞り取ろうとクシェルの意思に反して蠢く。
「今は俺のことだけ考えてよ」
切なく甘いオレアンダーの声が耳朶を伝うもクシェルからは彼の表情は見えなかった。
──頭がおかしくなりそうなほど考えているって。
しかし胸の中の呟きは声にはならず、その後はクシェルの甘い悲鳴が夕日の指す部屋を満たすばかりだった。
気づけばとっぷりと日も暮れ深夜に差し掛かる時間だった。
一矢纏わぬまま、オレアンダーの胸の中でクシェルは目が覚めた。
半分寝ぼけたままのクシェルの口から言葉が溢れた。
「…俺はオレアンダーのこと全然、知らないから」
「クシェル?」
彼は過去のことは切々と話してくれたことがあったので、全く信用されていない訳ではないだろう。しかし今は研究に携わっていること位しかクシェルにはわからなかった。
「だって、どんな仕事して本来はどんな生活してるとか何も」
「…大したことはなにもしてないよ」
この手の話題が出るとオレアンダーは浮かない顔をする。やはり義理で番になった相手にはそこまで話す必要はないと思われているのだろうか。
本音では被験者としての契約が終わってしまっても、クシェルとしてはオレアンダーと繋がりを断ちたくなかった。なんとか友人としてでも良いから関係を続けていけないだろうか。しかしそれは返って辛いかもしれない。切実な思いがクシェルの胸中を渦のように巻いた。
オレアンダーはクシェルの頭を撫でながら何か思案するように黙り込んでしまった。彼を困らせてしまったのだろうか。少し後悔し始めていると彼の腕が伸びてきた、クシェルを正面に向かせると彼は思いのほか真面目な顔で口を開いた。
「クシェルは俺の仕事のこと知りたいの?」
彼の問いにクシェルはコクリと遠慮がちに頷いた。
「いいよ。でもちょっとだけ時間を頂戴」
「…わかった」
いくら時間がかかってもいいから彼のことが知りたい。言葉にならないその思いはクシェルの胸にとどまり続けた。
甘い生活を送る一方でクシェルはなるべく彼と会う前の元の生活に戻ろうともしていた。
番の本能によるオレアンダーからの束縛も緩みつつあったし、魔法暴発も克服した。オレアンダーの隠れ家にいる必要は少しずつなくなっていた。
今はのぼせ上がっているが、番の本能から解放されればこの蜜月はあっけなく終わりを告げる。オレアンダーから契約終了を突きつけられ、追い出されるだろう未来の可能性もありえないこともない。
そうなればこれまで彼が相手をしたオメガ達のように、もう会うこともなくなる。しかし自分は彼の影を追い求めてしまうだろうと思うとクシェルは自嘲気味に笑ってしまった。
しかし以前のように外で狩をし衣食住を整えようとするも中々うまくいかなかった。二、三日ほどは今まで通り外で過ごせるが、なぜか気づいたらオレアンダーの棲家へと足を向けてしまうし、彼が迎えにくることもあった。
そしてオレアンダーは帰ってきたクシェルを咎めることはないものの必要以上に構い倒してくる。やがて気がつけば前述のように色っぽい雰囲気になり流されるままにいつのまにか身体を重ねているのだった。
「…はぁ」
ついため息が漏れ出る。クシェルは街へと降り立ち、ギルドへと向かっていた。
空になった赤の小瓶をクシェルはしげしげと眺めた。実は常備しているとあるものを求めてギルドへの道を辿っている途中であった。
最近はその常備品の調達のためにギルドとオレアンダーの隠れ家を往復しているだけであった。あまりの堕落ぶりに自分に嫌気がさし、頭を抱えていると後ろから鈴を転がす様な声が呼び止めてきた。
「あ、クシェルさん!」
「…ライナ」
彼女はクシェルに近づくと耳打ちしてきた。
「いつもの、…アレ、ですか?」
「あ、ああ。いつもごめんな」
さすがライナ、察しがいい。気恥ずかしさ、申し訳なさからクシェルは小声で返事する。
「ううん、いいんですよ。当ギルドはクシェルさんに多大なご迷惑おかけしたので」
「いや、ライナは何も悪くないじゃないか。それに俺だってベータって嘘ついて迷惑かけた。申し訳なかった」
クシェルが頭を下げるとライナは笑顔で首をふった。
「私がクシェルさんの立場ならきっと同じことをしたと思いますよ。それにおかげでギルドが真っ当になったんですから」
しばらく互いに謝ったり感謝したりが続いて話が進まないので、クシェルは話題をかえた。
「そう言えば、ライナは大出世したらしいじゃないか。さすがだな」
「人がいなくてやむを得ずです。毎日が勉強ですね」
第二性を理由とした差別、売春強要、斡旋と様々な問題を起こしたディーターはギルド長の職を解雇されてしまった。それに紐づいてギルド職員の人事も整理され不正に関わった古株達は一掃された。
その結果新人ライナはその類稀な優秀さから中間管理職へと大抜擢されたのだ。今は仕入れ品の検品に忙しいらしい。
仕入調達の管理も一手に任されていることになったそうだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
いくらかの金銭と三個の小瓶を引き換えた。
ライナのいう「いつものあれ」とは避妊薬のことだった。
クシェルもオレアンダーも共に男性だ。しかし第二性はオメガとアルファでもあるので交われば子を成す可能性がある。それを防ぐためにも必要だった。
実はここの所避妊薬を格安価格で購入させて貰っていた。避妊薬全般にいえることだが、あまり日持ちしないため、長く同じものを在庫として置けないらしい。
ギルド内の掲示でそれを知り、最初は知人に頼まれたと嘘をついて受け取っていたがすぐにライナにばれてしまった。
「この辺は娼館くらいしか購入してくれないんですけどね」
「そうだよな。仕入れる量は減らせないのか?」
「そうすると特値を貰えなくなるんですよ」
「かえって損なのか」
ライナは眉を八の字にして困り顔を見せた。
「ええ、全く需要がないわけではないし、在庫がないと困る。けど、数はそんなに出ないという」
中々在庫管理者泣かせの品物のようだ。
「だからクシェルさんが買ってくださるととっても助かります。一度に沢山の購入はさせられないですけどね」
「…いや、俺も助かるよ。格安でいい薬が手に入って」
若い女性にこんなことを頼んでクシェルは申し訳ない気持ちもあるが、すっかり習慣化してしまった。そしてそれほどオレアンダーと抱き合っている事実を自覚し気恥ずかしくなった。
「…お相手は一緒に狩に行ってた方ですか?」
いたずらっ子の様な笑みでライナがからかってくる。途端にクシェルは頬が熱くなるのを感じた。
「いや、えーっと、その」
「ふふっ。お顔、真っ赤ですよ。それにしても羨ましいです」
「君なら引くて数多だろう?」
「お世辞でも嬉しいです。まあ私はクシェルさん一筋ですけどね」
「ライナ、今日は冗談が多いんだな」
しばらく和やかに笑い合うも、ライナを呼びにきた他の職員が現れその場は解散となった。
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