第16話 日向・一

 ドアを開けると冷たい空気が肌を刺す。

 渡辺武綱わたなべたけつなは肩をすくめて白い息を吐いた。季節はもう十一月の下旬になる。

 時刻は朝の七時。朝焼けの東の空は雲ひとつないが、気温は低く上着のコート越しに寒さが染みる。


 早朝のこの時間は身が震える気温の低さだが、昼頃にもなると陽気の良い日では今度はコートを着ていると汗ばんでくる。寒暖の差の大きい時期だった。


 アパートの廊下に出ると煙草の臭いが漂ってくる。

 ドアを閉めて煙の先を見ると、髪も鬚も蓬々ぼうぼうに伸びたどてら姿に半纏を羽織った男が、背を丸めて手すりに寄りかかり、煙草をくゆらせていた。


「おはよ、先生」


「……おう、ナベさんかい。……おはようさん」


 隣人の蘆屋六角あしやろっかくが気怠い声で返事をしてこちらを向いた。眼球が充血しており声にも覇気がない。見るからにくたびれた様子だった。


「お疲れだね先生。今日も徹夜? 無理はしないようにね」


「おう、気遣いありがとよ。……ちっとは寝てるぜ」


 六角は口の端をすこし上げて笑みを見せた。

 ここ数日、出勤する前にこうして廊下で一服している六角とよく顔を合わせる。官能小説を書いて生計を立てている六角は、ちょうど今が仕事の山場らしく、根を詰めて執筆しているようだった。


「しかし頑張ってるね先生。今、どんなのを書いてんの?」


 そう訊ねた瞬間に、手すりにもたれた六角ががばりと身を起こすと、爛々と血眼を輝かせて熱弁を揮いはじめる。


「おう! よく訊いてくれた。時は十九世紀。神秘思想の影響を受けた主人公グルジエフが神智学協会の会員になって、『黄金の暁』教団に所属するのよ。そしてブラヴァツキー夫人の降霊会に参加したところ、オルコット大佐が持ってきた東洋の謎の仮面が怪しく光る。トランス状態になったブラヴァツキー夫人はその天狗の面の長くそそり立つ鼻を秘所にあてがうと、驚くなかれ次の瞬間、栗の花の香りとともに真っ白なエクトプラズムが大量に放出され……!」


「わ、わかったわかった! そいつはスゲーよ大傑作だ! 何十年か後に稀代のカルト本として国書刊行会から復刊だな! んじゃ、行ってくるわ!」


「おう、気ィ付けてな。今日もちびっこいのが待ってるぜ」


 六角が紫煙を吐き出すと軽い笑みを浮かべて、階下の道路を煙草の先で指し示した。道路の向こうには神社の入り口の赤い鳥居と大きな楠が見え、その色褪せた鳥居の下に小さな人影が見える。


「健気だね……毎朝ああして待ってるとはよ。それにしてもお前さん、あのちっこいのに随分と懐かれたもんだな?」


「う~ん、なんでかは俺もよくわかんないんだよね」


 そう返答して武綱はアパートの階段を下りた。

 通りの向かいの稲荷神社の鳥居の下には、藤色の着物に鴇色ときいろの色無地の羽織といういでたちの少女が、寒そうに身を縮めて座っていた。


 彼女の色白の肌は寒さのせいか、頬や鼻の先がほんのりと紅く染まっている。不思議なことに、少女のうなじのすこし下まで伸びた髪は一糸漏らさず真っ白で、その大きな瞳はやや色の深い緋色をしている。


 少女は冷えた指先を前で掻き合わせて息を吐きかけていたが、階段を下りてくる武綱の姿を見ると、俄かにその瞳がきらきらと色づき、ぴょこんと立ち上がる。

 彼女は羽織の裾を揺らしてアパートの入り口までちょこちょこと駆けて来ると、武綱を見上げてにっこりと笑った。


「……おはよう」


「おう、おはよ」


 そう返事をして、武綱は少女のよくかれた白い髪を撫でた。

 武綱の大きな手で撫でられると少女の頭はほとんどが隠れてしまう。彼女はくすぐったそうに、すこしうつむくと目を細めて優しげな声を洩らした。


「ん……」


 澄んだ朝日で少女の白い髪が光る。

 白といってもコスプレイヤーのウィッグのような不自然な白ではなく、生成色きなりいろとでもいおうか、その髪はほんのわずかに黄味きみがかった、やわらかい自然な白色をしている。武綱が手を離すと、少女はまたその澄んだ瞳で武綱を見上げた。


 彼女に見つめられて、武綱は先日の奇妙な体験を思い出した。以前も思ったが、やはり自分はどこかでこの瞳を見たことがあるような気がする。何故だろう……。

 数瞬、そんな考えにとらわれたがすぐに我に返った。


「んじゃ、行ってくるよ」


「……うん。行ってらっしゃい」


 またぽんぽんと軽く少女の頭を撫でて、その場を後にする。坂道を下ってから少しして振り返ると、こちらを見送っていた少女がにこりと笑ってぱたぱたと手を振った。後ろ手に手を振り返すと武綱はまた歩き出す。


 引越して二ヶ月半。出勤前にこうして少女に見送られるのが、いつの間にやら毎朝の日課になってしまっている。

 背後のアパート二階の廊下では、六角がにんまりと笑みを浮かべて煙草を燻らせ、その様子を眺めていた。


 武綱が坂道を下りていった後も、少女はまだその場に佇みつづける。

 彼の後ろ姿が見えなくなっても、背を伸ばして両の手を握って、彼女は眼下の遥かな街並みをじっと見つめていた。


 可愛らしいし健気だけれど、そんなに別れを惜しんでたら佐用姫さよひめみたいに石になっちまうぜ、と眺めていた六角は可笑おかしくなった。


 その時、ちょうど幾条いくすじかの朝日が東天から射し込み、家々の窓に反射して光った。眩しさに六角は顔をしかめる。眠い眼をこすった後、もう一度遠目に少女を見た時に、彼は驚いて眼を見開くと、思わず真顔になった。



 路上に立つ少女はやすらいだ穏やかな表情でほほえんでいる。――幸福な微笑を口許に浮かべ、身動みじろぎせずに一心に遠くを見つめている。


 いとけなさの残る容顔がまばゆいほどに逸麗うつくしい。

 白露の朝日が路を照らすと、少女の白い髪が青空の陽に映えて、香るように光った。

 奇妙なことに身に纏う鴇色ときいろの羽織も内側から透けるように、ごくわずかに淡く輝いている。


 燦々さんさんとした朝の日射しを身に浴びている、ただそれだけではない。

 まるで彼女自身が光を発しているかのようだった。


「こいつぁ……たまげたな」


 煙草を吸うのも忘れて、六角は思わず呟いた。


皎皎こうこうたり かおよむすめ 

 灼灼しゃくしゃくとして春をおもいてかがやく 

 ……ふぅむ、いいものを見たぜ」


 

                   ◇



(見たことも会ったこともないのにな……)


 駅への道を歩きながら武綱は思う。

 この二ヶ月半の間に気付いたことがある。あの狐の少女は怖がりというか、武綱以外の人間に対して、とても人見知りをする。


 引越してから碓井や卜部がアパートを頻繁に訪ねて来る。そんな時に彼らが少女とばったり顔を合わせることも、今まで何度かあった。


 だが、そういう時、彼女は一目散に社殿の裏手へ姿を消してしまう。

 少女が生まれる前からアパートに住んでいる六角すら、人が近付くとすぐ逃げると言っていた。相当内気なのだろう。話す時もいつもためらいがちに小声で喋る。


 ただ、彼女の声はとても耳に心地良いやわらかな声音なので、聴き取れないということはほとんどない。まだあどけないものの非常に器量が良く、髪と瞳の色のほかにも、白い肌に長い睫毛と大きな瞳が印象的だった。


(しかしなんで俺だけにああも親しげに? ……さっぱりわからん)


 先日の体験といい、どうも腑に落ちない気分だった。あれこれと考えながら坂道を下って商店街を進んでゆくと、駅が見えてきた。

 改札口を抜けてホームで下りの電車を待つ。東京郊外の小さな駅だが出勤の時間帯はやはり人が多い。ほどなくして電車が到着すると、乗り込む時にホームを一陣の冷たい風が吹きぬけた。



 発車した電車のドア近くに立ち、流れる景色を無心に眺める。

 早朝の陽射しも大気もようやく暖まってきたのだろう。車窓に映る街並みから、白い朝靄あさもやが立つのが見えた。


 ぼんやりとまた考えを巡らす。

 もうだいぶ寒くなった。毎朝ああして自分を待つこともないのに、と思う。鳥居の下で鴇色の羽織姿で寒そうに身を縮めて、冷えた指先に息を吐きかけて、冷たい頬を紅く染めて――。


(風邪でも引いちゃコトだよなぁ)


 いちいち待ってなくていいぞと言ってやるべきかと思案する。しかしそれは――彼女を気持ちを無下にしてしまうだろう。それに彼女の気持ちを傷つけてしまうような気もした。それはなんだか避けたい気がする。

 彼女の親や家族は心配しないのだろうか、そうも思ったが、武綱はすぐに考えを改めた。


(子狐とはいえ氏神様のしもべか。余計な詮索だな、これは)


 狐は穀物の豊穣を司る稲荷神の眷属である。

 稲荷神たる宇迦之御魂神うかのみたまのかみ神使みさきがみである狐は命婦みょうぷと呼ばれ、稲荷神社に祀られてその土地の氏神となる。あの少女が神社の境内に棲みついているということは、土地の鎮守としてあの高之森神社に御座おわす氏神様の僕ということだろう。


 古くからこう教え伝わる。神社の境内は神の庭であり、鳥居は神界への門。そして拝殿の奥は神の国へ至る未知の神域であると。

 そして続けてこう伝わる。なればこそ畏れ多くして神域をみだり侵してはならぬと。人知の及ばぬ神の領域に、人はけっして踏み入ってはならない、と。


(神様の事情に首を突っ込むのは無礼千万か)

 

 仕事柄、悪さをする野狐やこの生態には詳しくなるのだが、神使の僕たる善狐のことはほとんど知らない。畏れ敬って近寄らないという、昔からの慣わしを守っていたから、そもそも知る術があまりない。


 そもそも人と神との関係が、だった。

 ――どれほど互いが近くにあっても、けして隣り合わないように。神々とその眷属には常に崇敬の念を持ってへりくだって接すべし。

 わかっていた。しかしそれでも、と内心でもやもやとした思いが渦巻く。


(俺のせいで風邪っぴきになられちゃな……)


 ちょうど電車が河川に架かる鉄橋へと差しかかった。車窓一面に空と大きな川面が映り、朝の黄金色の陽光が窓を透かして電車内に射しこむ。

 日射しのなかに少女の寒そうに身を縮めた姿がぼんやり浮かび、すぐに光の粒にまぎれて、淡く溶けて消えた。

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