第7話 狐火・七
板戸を閉め切った室のなかで、燭台の火がふいに乱れ揺らめく。
文机に向かって書を
入室の許可を求める声に返事をすると、戸が開いて侍女が一礼して入ってくる。その色を失った顔を見て、晴明はただごとならぬ気配を察した。
「何ごとか」
「渡辺綱様がお越しに……」
青ざめた顔で、歯の根の合わぬ震える声で侍女は言う。
「通せ」
「来ればお部屋が穢れますゆえ、不躾ながら
晴明は席を立つと、先日綱と会した庭に面す
室に入ると、開いた妻戸の向こうの
「綱、何ごとじゃ」
「晴明様」
振り返った綱の姿を見て、晴明は息を呑んだ。
そしてなにより、その腕には泥と血で汚れた半死半生の娘を抱いている。
「綱、それは……」
「羅城門にて鬼に襲われました。……この娘がいなければ私の命は無かったでしょう。
晴明は濡れ縁を下りて抱えられた娘に近付いた。娘の顔色は紙のように白く、すでに虫の息である。口もとには吐血の痕が残り、胸にはむごたらしく
「なんということか……! 鬼の
「やはり。鬼の妖気が娘の
「おそろしい鬼に
「は、たしかに斬り斃しました。晴明様、鬼の呪詛とは……」
「この娘は死なば
「…………」
「もはや一刻の猶予も無い。この娘の呪詛を絶たねばならぬ」
「それには……」
「心して聞けい。娘の命を絶て。鬼の呪いは執念ふかい悪縁。
「……!」
さしもの綱も絶句した。急なことに考えがまとまらず、思わず娘を抱えた腕に力が籠もる。
娘を見れば、もう息も絶え絶えに弱りきっていた。
ただ、
あきらかに異形のなにかに娘が変わってゆく。
晴明が懐中から
「
童子は鞠のように飛び跳ねて部屋へ駆け込んでいった。そしてほどなく一振りの短刀をたずさえてあらわれる。
晴明は短刀を手にするとは符をいくつか地に置き、また呪を読む。そしてその上に娘を下ろすように綱へ命じた。
命じられるがままに綱は娘を濡れた地面に仰向けに寝かせる。雨はすでに止んで、曇天の夜空にはおぼろな銀色の月がのぼっていた。
「綱、腕を出せい」
茫然としながら綱が右手を前に出すと、その腕にするどい痛みが走った。
なかば自失しかけていた意識が途端にはっきりと醒める。晴明が短刀で自分の腕を切ったのだった。
流れる血で短刀が赤く染まる。印を結んだ晴明がおそろしいほどの峻厳な顔つきで、暫くのあいだ口の中で低く
「……
綱にはその呪の最後の言葉だけが、かろうじて聴こえる。
「鬼の血の穢れを祓うには、呪縛した鬼をも凌ぐ霊威が要る……。しかし神仏に
「……私に、この娘を楽にしてやれと」
「呪いの
晴明は娘に痛ましそうに憐憫の目を向けた。娘の髪はすっかり白くなり、腕も脚も炭のように黒くなっている。
「なかば鬼と化しておる。つらかろうが……覚悟を決めよ」
綱は血塗られた短刀を受け取ったが、さすがに手が震えた。悪鬼の呪詛を滅するためとはいえ、家族のように可愛いがってきた狐の娘を、それも
「…………」
「ためらっても詮無きこと……死して鬼と化せば斬らねばならぬ」
「……承知しております」
「
唇を噛み締める。晴明の言うことが道理であるのは百も承知だった。無理やりに躊躇を押し殺し、短刀を握り締め娘の身体の上へと屈みこむと、うつろに開いた娘の瞳と目が合った。
すると娘は綱を見て力なく微笑んだ。
あきらめではなく、綱を慰めるかのような柔和なやさしい笑み。
そのほほえみに息を呑む思いがした。
身に楔が打ち込まれ、思わず手がとまる。娘と見つめ合う。
自分はよほど悲愴な面持ちをしているのだろう。
だがこの娘は死の淵に落ちるこの期に及んでも、ただただ俺のことを
苦痛を訴えるでもなく命乞いを哀願するでもなく、まして死を望むでもなく、まっすぐに自分を思慕して見つめている。
「すまぬ。許しは請わぬぞ。許せなどとは言わぬ」
だしぬけに覚悟が決まった。この娘を
「先ほど言ったろう……狐。恩は必ず返す。そしてこの償いも必ず果たす」
娘が頬を寄せてすこし頷くのがわかった。心残りはただひとつ、ここまで純に自分を慕ってくれた娘にしてやれることが、この非情な所業しかない。それが心底から悔やまれた。
「必ずだ。……すまぬ」
天の月は闇夜に白く輝く。体内に潜った刃をぐいと上へ押しあげ、心の臓と脈を断ち斬る。
温かい血が
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