第4部 燃えたいと思う体

 彼女が接触しても、彼は目を開かなかった。体温はまだ残っている。しかし、循環しているか否かは分からない。これまでとは異なる循環の仕方に移行しつつあるかもしれない。そうなれば、もう戻れない。彼は彼でなくなってしまう。そんなことを考えて、彼女は彼の身体を抱き締めた。彼がそうなるくらいなら、自分が犠牲になれば良いと思った。今からでも代われるだろうか? もしできるならと思い、傍で燻っている炎を掌に掬って身体に擦りつけてみたが、どうにもならない。


 涙


 が


 零


 れ


 る


 ↓


 ロボットの自分に泣く機能が備わっているのは、しかしどういうことだろう。涙というのは、結局のところ有機ではないか。自分は無機ではなかったのか?


 泣けるのは、勇気?


 彼のために勇気をもって泣くことができた?


 悲しみを自分の内に迎え入れることができたのか?


 これで、自分は少しでも彼に近づくことができただろうか?


 目もとを拭って、彼女は立ち上がろうとする。


 腕を引かれて、彼女は後ろにつんのめった。


 彼の開いた目がすぐ傍にある。


 i-ro.


 ku-ro.


「それ以上泣かなくていいから、僕の代わりになってほしい」掠れた声で彼が言った。「今ならまだ間に合う」


「泣けてよかった」彼女は応える。「いいよ」


 彼女は彼の腹部に手を伸ばす。そこに巨大な金属片が突き刺さっていた。十本の指でしっかりとそれを握り、指のボルトを可能な限り強く締めつけて固定する。指を手の平に接続するための骨格が剥き出しになり、皮膚が裂けて金属質の内部構造が飛び出した。そのまま彼女は金属片を引っ張り出す。それは簡単に外へ飛び出した。


 彼女は、今度はそれを自分の腹部に突き立てる。衝撃で背骨がたわみ、身体が後方へ追いやられた。口と目の両方から涙が溢れ出す。臓器を稼働させるための潤滑油が金属篇が食い込んだ腹部から吹き出した。


 ぼ


  や


   け


    る


     視


      界


       。


  彼


   の


    顔


     が


      す


       ぐ


        傍


         に


          。


 彼が何を言っているのか、もう分からなくなりつつあった。彼は彼女の傍から離れると、荒廃した大地を足を引き摺りながら去っていく。


 最後に見えたのは、


                    空。


 瞼を綴じて、彼女は長い眠りに就いた。





 暖かな空気に撫でられて、彼女の意識は再び現実へと浮遊する。柔らかな地面。柔らかな衣服。柔らかな自分の髪。いつか覚えた燃えるような痛みはどこかに消えて、優しい温かさだけが彼女を包み込んでいた。目を開けると目に入ってきたのは、


                    葉。


赤と黄色の木の葉が頭の上を覆い尽くしている。


 彼女はゆっくりと起き上がると、伸びをして、そして欠伸をした。もう自分が何者かなど分からなかったし、どうでも良かった。ロボットでも、人間でもない、けれどしっかりとした実感を伴った自分としてここに存在している。


 彼に会って、そんな自分の姿を見てもらいたいと思った。彼は今何をしているだろうか? どこにいるだろうか? 自分のことを忘れていないだろうか。


 小鳥の鳴き声が聞こえる。そちらに目をやるが、姿は見えない。自分の肩に目を移すと、そこに小鳥が留まっていた。彼女は反対側の手でその頭を撫でる。小鳥は首のねもとから太さの変わらない頭をきょろきょろと動かすと、先の尖ったくちばしで彼女の頬を突いた。口を開いて、閉じてを繰り返し、何かを訴えかけているみたいだった。


 突如として小鳥は翼を広げ、その場でぱたぱたとそれをはためかせる。その震動を受けて、彼女の


   頭


      肩


         膝


に載っていた木の葉が地面に零れた。殻を破って、彼女は彼女になる。


 小鳥が背後に顔を向けた。彼女にとってはそちらが正面だった。遙か向こうの方から誰かがこちらに近づいてくる。彼女が立ち上がると、小鳥は空高く舞い上がり、木の葉の天井の先に向かって飛び去っていった。


「やあ」彼女のすぐ傍までやって来て、彼が言った。「随分と遅いお目覚めだね」


「おはよう」彼女は少し笑って言った。「どのくらい眠ってたと思う?」


「百年」


「馬鹿みたいな数」


 開いた本を片手に持っている彼の胸へ、彼女は飛び込んだ。その位置には今も傷があるはずだ。彼はあのときからずっと人間だった。そんな彼が彼女は好きだった。


「大好き」


「知ってる」


「どこへ行くところ?」


「どこって、君の所へ」彼は本を持ったまま両腕を彼女の背後に回す。「この先に洒落たカフェがあるんだ。一緒に行こう」


 彼女の方から彼の手を取って、二人は落ち葉の絨毯の上を歩く。歩くと、不思議な音がした。


 まるで、燃えているみたい。


 でも、あのときの炎は今はない。


 木々が背を伸ばし、葉を伸ばし、その葉が枯れて、循環を作った。


 有機も、無機も、もうない。


 無機の彼女は、有機の彼と繋がって、一つに。

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