芽吹く

「ちー、行こ。コイツ借りるな」

「はーい」


 昼休みになったら、尊が千歳を誘いに席までやってくる。一週間も続ければ、それはこのクラスの日常に馴染んだ。初日は連れ去ったようなものだったから、千歳の友人たちは心配したそうだが、今では快く送り出されるほどだ。またあとでな、と振られる手は千歳にのみではなく、尊にも向けられている。特段会話をするわけでもないが、尊も振り返している。


「今日のおかずなに?」

「たまごやきだよ」

「甘いやつ?」

「甘いやつ」

「やった」


 初めて昼食を共にした翌日から、千歳は自身の弁当とは別に尊の分のおかずも持参するようになった。手のひらほどの小ぶりのコンテナに詰められたそれは、母に習いながら千歳が作っているそうで。慣れない料理に朝から挑戦している千歳に、無理しなくていいのにと気遣ったこともあったが。押しまくってんの、とあの宣言を用いられ、尊は緩む頬を抑えられなかった。


「……どう?」

「うま」

「マジ!?」

「うん、すげー美味い」

「やった、今日は成功だ」

「昨日のも美味かったけど」

「絶対ウソじゃん、チキン焦げてたし」

「なあなあ、たまごやき俺も食いたい!」

「俺も俺も!」

「は? ぜってーやらねー」

「はい尊のケチー」

「言ってろ」


 四人でたまに馬鹿なことを言って、美味い昼食に、趣味のことや猫の話。見えづらかった千歳の気持ちも会話や行動の端々に感じられ、尊は今までが嘘のような充実した学校生活を送っている。


「ちー、今日放課後用ある?」

「ん? ないよ」

「じゃあさ、一緒に帰らねえ?」

「いいの? 帰る!」


 昼食を終えたケンスケとナベがゲームアプリに熱中している隙に、千歳に耳打ちをした。


 教師に頼まれ事をされれば断らないし、委員会に所属している千歳は放課後も何かと残っていることが多い。それでも金曜日は比較的すぐに帰宅できていることを、ふたりだけのゲームを行っていたあの一ヶ月で尊は知っている。


 今日も例外ではなかった千歳のスケジュールを押さえ、嬉しそうに笑う千歳の顔に安心感を覚える。放課後を共有するのは答え合わせの日以来だ。どこかへ寄り道をするのもいいかもしれない。



 午後の授業中、二時間たっぷりと使って千歳とどこへ寄ろうかとそればかりを考えた。ゲームセンター、本屋、ファーストフード。帰りは遅くなるが映画も有りか。どこだろうと千歳がいれば楽しい気がして、決め兼ねたままホームルームの時間となった。


 じゃあまた来週、と担任教師が告げたのと同時に尊は席を立つ。振り返った千歳に廊下を指さしながら、ちょっとトイレに行ってくると合図を送った。


「尊ー、俺らゲーセン行くけどどうする?」

「あー……今日はパス」

「そ? はぶられたって拗ねんなよー?」

「は、誰が」

「はいはい、じゃあまたな」

「おう」


 教室を出る手前でケンスケに呼び止められたが、尊はその誘いを断った。ゲームセンターは候補に挙げていたひとつだ。四人で行く手ももちろんあるが、今日は千歳とふたりで出掛けてみたい。


 行き先の選択肢をひとつ消し、それじゃあどこへと考えながら、今にも鼻歌を零しそうな自分に苦笑して。そんな尊の耳にふと自分の名前が聞こえてきたのは、用を足して教室に戻った時だった。


「ちーって呼び方さ、可愛いよね」

「ああ、花村が言ってるやつな」


 出入口の手前でつい尊は立ち止まる。女子の華やかな声が“ちー”と奏でたことに、無意識に眉を顰める。聞き耳を立てると、千歳を中心に集まっているクラスメイトたちの会話は、更に不快なほうへと転がってゆく。


「ねえねえ、私もちーって呼んでいい?」

「あ、私もー!」

「だってよ三上ー」


 突如生まれた感情を、これは独占欲だと瞬時に理解する。


 ――それは、千歳をそう呼んでいいのは俺だけだ。なあちー、お前だってそう思うよな。


 煮え滾るような、色で例えるなら黒いそれを、それでも千歳が共有してくれるのなら胸がすく。ギリリと噛んでしまったくちびるも報われる、千歳ならそうしてくれる。そう思うことでどうにか堪えたのだが。数秒の間を置いて聞こえてきた千歳の声は、尊の願いとは真逆のほうに舵を切ろうとしている。そんな予感に、尊は重たく舌を打った。


 そうだ、千歳がクラスメイトたちの意見に首を横に振ることはないのだ。それは尊に関わることだとしても変わらないらしい。悔しい、驚くほどに腹が立つ。諦めるつもりはないと豪語した恋より、この場の平穏を優先する千歳にも、様々な想いを飲みこむ友人にいつまでも気づかない奴らにも。


「あー、えっと。うん、いい……んんっ!」


 教室の中心の輪へ、早足で距離を詰める。千歳の机に背後から荒々しく手をつき、そしてもう片手で千歳の口を塞ぐ。


「それはだめ。ちーって呼ぶのは俺だけだから」

「わっ、花村くん……そ、そうなんだ」

「うん、悪いな」


 肩を跳ね、呆気に取られるクラスメイトたちの視線が尊に集まる。呼び方を横取りされそうになったのだから、詫びる必要は本当はちっとも感じていない。それでも、千歳が己を抑えてでも保っている絆を台無しにしたいわけでもない。ギリギリの理性でどうにか言っただけだ。


「あと、今日は帰りもちーもらってく」

「お、おう……」

「うん。ちー、帰るぞ」


 何が起きているのだろう、三上と花村は一体どういう関係なのだろう。そんな疑問が頭を巡っているのだろう。まだ呆然としながらも手を振る彼らに応じながら、千歳のリュックを持って手を引く。


「ちょ、花村」

「バイバイしなくていいのか?」

「あ……バイバイ! またな!」


 またなー、と返ってくる声たちは、尊と交わした時に比べ既に普段通りの声に思えた。千歳が培ってきた人望の賜物で、安堵したことだろう。一緒にほっとしてやりたい、だがやはり面白くない。好かれていても、千歳のいちばんではないのだろうか。


「花村、なあってば」

「はいはい」


 つい最近もこんなことがあったな。手を引いて連れて行った先は屋上だったけれど。未だ狼狽えている千歳のほうへ、昇降口へたどり着いてから尊はようやく振り返る。


「花村……変に思われるよ」

「あいつらにか? 別にいいけど」

「っ、……オレは嫌だよ」

「……それって、あいつらもちーって呼び始めることより?」

「それは……」


 生まれてしまった悔しさは、ふたりきりになったところですぐに消えるはずもない。千歳は自分より友人たちの方が大切なのだろうか。いや、恋と友情を比べることがナンセンスか。自分は恋したこともないのに何を。ましてや千歳の感情だ、他人が測って責めるなんて誰にも出来ない。分かっている。だが、それでも独り占めしたいと思ってしまった。名前の呼び方なんて、千歳にとっても取るに足らないものだとしても。千歳の特別がいい――そんな欲が尊の内でみるみると膨らんでいる。


 言葉に詰まったままの千歳の前に、靴箱から取り出した千歳の靴を置く。「それは」の先に続くのが肯定でも否定でも、今千歳がこんな顔をしているのは間違いなく自分のせいだ。それは不本意だった。目線を合わせたくて、その場にしゃがみこむ。


「ちー、ごめんな。嫌な言い方した。なんつーか……取られたくなかった」

「……ううん、花村は何も悪くない。オレもほんとは、花村だけがいいのに言えなかった。その、ちーって呼ばれるの」

「……マジで?」

「うん」

「はぁ〜……そっか」

「だから、ありがとう。……なのに責めるようなこと言った。オレの方こそごめん」

「いや全然。俺はちーの本音聞けて嬉しいし」

「……花村」

「なあちー、靴履いて」


 見上げた先の千歳の表情から、ひとつ憂いが落ちたように見えた。花村だけがいいとも言ってくれた。体が解けるような感覚に、千歳の反応に強く身構えていた自分を知る。


 細く息を吐いて、それじゃあ帰ろうと千歳を促す。ふと、先ほどまで手の中にあった千歳の体温を思い出し、手を繋ぎたくなった。いや、小学生じゃあるまいし。浮いた手を誤魔化すように握りこんで、千歳の少し先を歩く。


 グラウンドに響く活発な部活の音。校舎からは吹奏楽の音色が届き、隣には千歳。何度も往復している道が、なぜか少し柔らかいような不思議な心地がする。

 


「なあちー、明日暇?」

「明日? うん、特に予定はないけど」

「じゃあさ、どっか遊びに行かね?」

「え……え! いいの!?」

「ふは、うん」


 ふたりだけの帰り道は、先ほどまでの気まずさを引きずっているのか中々会話が生まれない。その静寂を破ったのは尊だった。本来はこのままどこかへ、と考えていたわけだが、どうせならもっと長く一緒にいたくなった。芽生えてしまった独占欲を満たしたい。それで千歳も喜んでくれるなら、こんな良いことはないようにすら思える。現に飛び跳ねそうな勢いで目を見開いた千歳に、安堵しながら明日の計画を立てる。


「どっか行きたいとこある?」

「えー、えーっと。んー……」

「浮かばねえ感じ?」

「あれもこれも行きたすぎる感じ」

「分かる」

「花村も?」

「うん、難しいよな」


 この放課後にどこへ行こうかと、二時間掛けてもひとつに決められなかった自分を見ているみたいだ。どこでも楽しそうで、どこへだって行きたくて。一緒にうんうんと唸り、けれど千歳が先に閃いた顔を見せる。


「映画!」

「映画は俺も考えてた。ちーの観たいの今やってんの?」

「ううん、どれかは花村に選んでほしい」

「俺?」

「花村、映画好きって言ってたよね。花村が好きなの、オレも観たい」

「…………」


 中学の時、1つ上の女の先輩から告白された。一度は断ったが、好きな子がいないならいいじゃんと押し切られた。面倒ではあったが、好かれているのだと思うと悪い気はしなかった。だが、ある日キスをされそうになった時。咄嗟に拒むと、呆気なく別れることになった。したくない、という自分の意志は尊重されなかったし、そもそもその程度の想いだったのだろう。後でたんまりと悪口を言われていたのを知っている。


 恋愛は厄介だと強く感じ、その後は誰に告白されようと頷くことはなくなった。好きだと言ってくる誰もに、俺の何を知ってんだか、と疑問を感じた。上辺しか見ていないし、そしてその先で欲を押しつけてくるに決まっている。その相手は自分じゃなくたっていいはずだ。


 けれど千歳は求める。自身の欲ではなく、尊を。心臓の底がざわざわと擽ったい。


「花村? あ、やっぱ映画じゃないほうがいい?」

「いや、映画にしよ。ちょうど今日から公開ので観たいやつある」

「マジ? じゃあそれにしよ! あ、シリーズものだったりする? だったら予習しとく」

「いや、単発だから平気。俺チケット取っとくわ」

「じゃあ明日払う。うわー、楽しみ」


 緩む顔が妙に恥ずかしくて、口元を覆いながら隣の千歳を盗み見る。するとどうやらその前から見つめられていたようで、視線が交わった。お互いに勢いよく目を逸らした先で、千歳は何を思うのだろう。赤い顔で焦っていたらいいのに、と身勝手なことを願う尊こそ、大いに自分の気持ちに動揺している最中だ。


 これは何だと分からないふりをしても、答えがもうそこまで迫っているのを感じている。


 好きだと言われた、答えるなと言われた。今度はいつその瞬間は訪れるだろう。


 明確な想いを腕いっぱいに抱えて差し出せるように、もっともっと確かめたい。


 夕焼け色をしたそんな願いが尊の胸にしずかに芽吹いた。

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