第27話 洪水


(注意)洪水や土砂崩れの描写があります。苦手な方はお閉ください。



<洪水>


誰かが走る足音、怒鳴り声、水音。降りしきる大雨、轟音、悲鳴、また轟音。崩れた小さな教会、土砂の山、建物は無惨に壊れ、残骸があちこちに積み重なっている。


キリトは夢を見ていた。夢を見ていると自覚しながらも、無惨な光景から目をそらす事はできない。怖い、怖い、見たくない、聞きたくない。




キリトは、はあはあと荒い息を吐きながら寝台に身を起こした。体が汗でぐっしょりと濡れている。窓の外は薄暗い。まだ夜明け前のようだった。

嫌な夢だった。でも、キリトにはそれが只の夢なのか、夢見の力で見た夢なのか、判断がつかないのだった。


********


複雑な紋様の手本を元に紙の上に十回ほど書き写すと、キリトはやっとそれを覚えて頭に入れることができた。


その紋様の手本はカゼインが、キリトに教えて欲しいと請われて紙に書いた、癒しの力を増幅させるものだ。


「この紋様を実際に試してみたいのですが。」


「ふむ。それには癒す対象の怪我人が必要ですな。しかし、今すぐには怪我人を用意できません。ちょっと次回までに考えておきましょう。」


「そうですか...」


「ずいぶんとご熱心ですな。しかしご注意ください。異能の力は無限ではない。紋様で増幅することができても、やはり力を消耗するのです。そして消耗し過ぎれば命を落とす事さえあります。力を制御する訓練も順にやって参りましょう。」


「...実は、洪水の夢を見たのです。でも只の夢なのか夢見の力で見たものなのか、過去のものか未来のものかも、分からなくて。何か判断する方法はあるのでしょうか?」


カゼインは顔の皺を深めて一つ息を吐くと言った。


「夢見の力というのは大変に稀な能力なのです。今現在この国の中でその力があるのは、おそらくはキリト様、あなただけでしょう。過去にも夢見の力を持つものはおり、僅かながらその記録を残した書物もありましたが、強硬派によってみな燃やされてしまったのです。夢見について私からお教え出来る事は、残念ながら無いのです。」


やや青白い顔をしたキリトを見ると、カゼインは


「夢については、あまりお気になさいませんように。」


と言うと、今回の異能の力の訓練はここまでとなった。


********


キリトは薪割りの合間にため息をついて薄曇りの空を見上げた。

今朝見た夢を思い返す。もし仮に、洪水がこれから起きることだったとして、自分の知る場所であれば何かできることがあるかも知れないが、夢で見たのは全く見覚えのない場所だった。


「どうしたんだ。浮かない顔だな。」


騎士達の鍛錬場の脇を抜けて薪割り場へやってきたのはレイルだった。

灰色の髪の宰相トルガレと、騎士数名を引き連れている。


トルガレは、「キリト様が薪割りを?!」と驚いた顔をしている。


「溜まっていた執務が何とか終わったから、顔を見に寄ったんだ。何かあったか?」

レイルが心配そうに眉を顰めて言う。


キリトは迷った末に、レイル達に今朝見た夢の話をした。


「トルガレ、洪水があったという報告は?」


「いえ、そのような報告は受けておりません。」


「ではこれから洪水が起こるという事か。」


キリトは首を横に振って答えた。


「ただの夢かも知れないし、過去の事かもしれないんだ。良い加減な話でごめん。」


キリトの言葉に構わずレイルは言った。


「トルガレ、念の為に災害用の備蓄食料と支援物資の確認を。」


「承知しました。すぐに確認の手配をしましょう。」


それでも心が晴れない様子のキリトを見ると、レイルは言った。


「少し、馬に乗って出掛けてみないか?」


「馬?乗ってみたい...」


キリトは言った。馬には乗ったことがないが、街道で時折見かける度にいつか乗ってみたいと思っていたのだ。


「おや、では私もお供しても?」


トルガレが小さく手を挙げて言った。


********


馬小屋から五頭の馬が連れて来られた。

レイル、キリト、トルガレ、護衛の騎士のジャンともう一名が馬に乗り、更に徒歩の護衛五名がつく事になった。総勢十名の大所帯である。


「キリトは乗馬が初めてだし、徒歩の護衛も居る。ゆっくり行こう。」


とレイルが言い、王宮から徒歩で一時間程で着く湖が目的地に決まった。


「あの、なんだか仕事を増やしてしまってすみません。」


気性の優しい馬に乗せてもらってレイルが言うと、隣の馬に乗るトルガレが答えた。


「構いませんよ。災害の備えは必要なことですし、ちょうど良い機会でした。」


最近は執務が少し落ち着いて来たのか、以前会った時より目の下の隈が心なしか薄い。


「ところで、キリト様はどうして薪割りをなさっていたのですか?」


「何もしないと体が鈍るので、薪割りを日課にしているんです。」


とキリトが答えると、レイルが続けて言った。


「何か欲しいものや、したい事はないか、何でも叶えてやると俺が言ったら、キリトが薪割りをしたいと言うんだ。欲が無いだろう?」


レイルが声を上げて笑う。周りの騎士達も話を耳にして、そんなことが...と口々に話している。


「そうでしたか。」

トルガレはそう言ったきり、何事かを考えるように黙った。




やがて行く先に川が見えてきた。川幅は人の背丈二人分ほどだろうか。濁流が橋を押し流すような勢いで流れている。


「先日の雨で水嵩が増しているのでしょう。今日は天気がもちそうですが、明日以降も降らないと良いのですが。」


トルガレの言葉に、キリトの頭に今朝見た洪水の夢の光景が一瞬よぎった。



更にしばらく馬を進めた先に見えてきた、小さな街の景色に、キリトは驚いて目を見張った。夢で見た景色に似ている。特に小さな教会に見覚えがあった。


「レイル!」

呼ばれて振り返ったレイルに、キリトは急いでその事を伝えた。


「この街がそうだと言うのか。」


レイルは考え込む様子だったが、意を決したかのように顔を上げると言った。


「トルガレ、王宮に連絡して支援物資をここへ。街の責任者を呼んで、水辺、低地、崖近くに住んでいる者を別の場所に避難させるよう伝えよ。」


「しかし、キリト様の夢はいつ起きることとも...」


「避難が空振りになって、笑われることになってもよい。人命が大事だ。」


「...はっ」


「レイル、トルガレ、街の教会の周りも危ない。土砂で崩れる光景を夢で見たんだ。」


キリトが言うと二人は頷いた。


一行は慌ただしく動き始めた。騎士一名が王都へ馬を走らせ、トルガレと騎士二名は街の責任者の元へ走る。


すると、急に頭上に黒い雲が集まり始め、ぽつ、と雨が降ってきた。

レイルとキリトは顔を見合わせた。



街の食堂か宿屋にでも雨宿りしたいところだったが、キリトの夢のことを考えると、安全の為、そんなことはできなかった。



しばらく後、一行はジャン達が街の商店で調達してきた三つの天幕を街の外に張り、その中で雨宿りしていた。雨はどんどんと勢いを増し、地面の上の雨水の通り道が小さな川の様になってきた。


天幕の一つにはレイル、キリト、トルガレの三人が居た。

不安そうな顔をしながら天幕の窓から外の様子を伺うキリトに、レイルは声をかけた。


「気分転換に良いかと思ったが、とんだ遠乗りになってしまったな。すまない。」


キリトは首を横に振った。


「ううん。僕の方こそ、ごめん。せっかく連れてきてくれたのに...」


「キリト様、洪水や土砂崩れの危険性がある場所に居る者は、既に避難が完了しております。きっと酷い事にはなりませんよ。」


トルガレが安心させるように言った。

キリトにはそう言ったが、トルガレは内心不安を募らせていた。街の代表者の話では、昨日までの数日間雨が降り続いており、地盤が緩んでいる箇所があるというのだ。

トルガレはキリトに気づかれないように手の汗を拭った。


雨が降りしきる中、一時間ほど経った頃だろうか、ゴゴ、と低い地響きが聞こえた。


「レイル...」


キリトが青い顔をしてレイルにしがみ付く。レイルはキリトの細い肩を抱き寄せ、頭に口付けると言った。


「様子を見てこよう。ここで待っていてくれ。」


「駄目!お願い、ここに居て!」


キリトは震える声で言うとレイルの上着の端を握りしめた。


途端に、ゴゴゴゴゴゴ、と何かがズレ動くような凄まじい轟音が聞こえてきた。遠くに悲鳴や怒鳴り声も聞こえる。


天幕から出た一行が見たのは、変わり果てた街の姿だった。


街の低地部分には水が溜まり湖のようになっている。多くの建物の一階部分は中程まで水に浸かっている。街の中心部には山際から土砂が押し寄せ、小さな教会も他の建物も無惨に壊れていた。


「ひどい...」


「トルガレ、街の代表者と連絡が取れるか確認しろ。支援物資は…この雨ではまだ時間が掛かるな。俺が騎士達を連れて怪我人の救助に回る。」


「はっ」


「僕も一緒に救助に...」

キリトが言うと、レイルは厳しい表情をして遮った。


「キリトはここに居てくれ。護衛の騎士を一人残していく。」




天幕にはキリトと護衛の騎士一人が残された。キリトは祈る様な気持ちで両手を握りしめた。


「キリト様、失礼を承知でお願いします。」

騎士が口を開いた。突然のことに驚いてキリトは騎士を見た。


「貴方のお姿を鍛錬場で見てからずっとお慕い申し上げております。今度、私と一晩、一緒に過ごしては頂けませんか?」


「こんな時に何を...それに、僕はレイルと婚約...」


「存じ上げております。しかし、貴方の姿がひと時も頭を離れぬのです。どうか一夜だけ、私に夢を見させてください。」


騎士は熱に浮かれたような目をしている。

キリトは天幕の中で、じり、と後ろに下がった。だが騎士はいとも簡単にキリトの腕を捕まえて自分の方に引き寄せる。


「こ、今度と言わず、今、この時でも」


「は、離して、誰か」


キリトの腕を掴む力の強さに、目に涙が滲む。上からのしかかられ無理やり天幕の床に押し倒される。


ばさっと音がしてそちらを見ると、天幕の入り口が開きトルガレとジャンが立っていた。


「何事ですか!このような時に、キリト様に何を!」


騎士は途端にさっと青ざめると、トルガレを押しのけ走ってどこかへ行ってしまった。


「キリト様、お怪我は?」


「...大丈夫です。」


トルガレはほっとした様子で一つ息をつくと、また表情を引き締めた。


「...キリト様、街に怪我人が出ているのです。危険な状態の者だけでも、そのお力で癒しては頂けませんか。」


「...はい!」




街の高台にある建物に入ると、床には怪我人が六名並べて寝かせられていた。口々に呻き声をあげている。


「ひどい…」


キリトは青ざめて言った。王都から離れ、力が弱まった自分に一体どこまで出来るだろうか。


扉が開き、雨でずぶ濡れになったレイルと騎士達が入ってきた。皆、肩で息をしている。


「怪我人があと五名いる。」


「そんな…」


キリトは絶望した。以前二人の怪我を癒して倒れたというのに、この人数ではどうしようもない。

キリトは震える手で顔を覆った。


「キリト…」


レイルはキリトの様子を見ると、そっと腕を引き寄せて抱きしめた。


「いいか、救えない者が居ても、あなたのせいではない。」


雨に濡れた服の上から、微かにレイルの腕の温もりを感じて、キリトは自分の震えが収まるのを感じた。出来ることを、やらなければ。


「…レイル、僕、やってみる。」




キリトの指示で、十一名の怪我人が部屋に隙間なく横たえられた。呻き声と血の匂いが部屋に充満する。


キリトは目を閉じて大きく息を吸って吐くと、暗闇に浮かぶ水面を思い浮かべた。水滴が一つ落ち、水面に波紋を広げる。

今朝覚えたばかりの癒しの力を増幅させる紋様を眼裏に思い描く。正確に、緻密に。完成したその紋様に癒しの力を乗せる。途端に力が吸い取られる。手と額に汗が滲み、首筋をつつと汗が伝った。ふらりと体が傾きそうになるのを堪えて立て直す。まだだ、まだ足りない。更に力を込めると、耳鳴りがし始め、目の前が暗くなり、キリトは意識を手放した。



*******


キリトがハッとして目を覚ますと寝台の中だった。


「怪我人は」

掠れた声が出た。


部屋の隅の椅子に座っていたジャンが、キリトの声に気づいて立ち上がった。


「キリト様!気がつかれたのですね。レイル様を呼んで参ります。」


というと慌ただしく部屋を出て行った。




「キリトは丸一日眠っていたんだ。今は夕刻だ。」


レイルは寝台の端に座ると、キリトを腕に抱き締めて言った。


「…怪我人はどうなったの?」


「あの部屋にいた十一人は全員怪我が治って一命を取り留めた。キリトのお陰だ。」


「…良かった。他に怪我人は?」


「…死者が三名出た。土砂に埋もれて、すぐに助け出せなかった。」


「そんな…」


キリトは呆然として顔を手で覆った。


「キリト、いいか、あなたのせいではない。適切な対応を取れなかった俺の責任だ。」


キリトは首を横に振って言った。


「僕が、夢をもっと正確に見て、癒しの力をもっと使えたら…」


奇跡の子と言われたって、自分にできることなんて、たかが知れている。自分が情けなかった。


「それは違う。」


「キリトの夢見の力のお陰で被害が減り、癒しの力のお陰で多くの命が助かった。あなたは自分を誇るべきだ。」


「レイル…僕は…」


「…腹が減っただろう。食事を持ってこよう。」




食事を済ませると、キリトはレイルに外の様子を見たいと言った。惨い現状だとしても、そこから目を逸らすことは許されないように思われたのだ。



王都から国内警備を担う第二騎士団の騎士達が到着し、既に街の復旧作業が始まっていた。あたりの水嵩は人の膝下程までに下がり、建物の残骸が顔を出していた。


辺りの景色を眺めて無言で立つキリトを慰めるように、レイルがキリトの肩を抱いた。


「キリトに夢の話を聞いて事前に準備をしていたから、王都からの到着が早かったんだ。」


そこへ、トルガレに連れられて街の責任者と男の子がやってきた。


「あなたがキリト様ですね。怪我人を治療して頂き、本当にありがとうございます。この子も、是非お礼を言いたいと言うので連れて参りました。」


歳の頃は五歳くらいだろうか。恥ずかしいのか頬を赤らめている。


「キリトさま、おとうさんを助けてくれてありがとう!」


「うん、助かって、良かった。」


キリトは微笑み、涙ぐんで目元を手で拭った。


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