第107話・CRISIS③
信号か、機関士の交代か、それとも機関車の付け替えか。様々な理由で部隊輸送列車は駅に停まる。
勤めを終えた機関士が、列車を見送る駅長と語らっている。勤めを引き継いだ機関車が駅構内を入れ換えている。列車から降りられない俺たちは、その光景を恨めしく眺めるだけだ。
駅名板はどこだと探して、それはどのあたりだ、佐世保まであとどれくらいだと、朝鮮までの距離と時間を確かめ合った。
ダイヤの隙間を縫っているので、60マイルも出ていない。のんびりした足取りだが、ほとんどの駅を通過するから、ふとすると駅名板に驚かされることが、しばしばあった。
朝鮮半島に近づいている。日本から次第に離れていく。アメリカが遠くなっていく。日暮れとともに募る不安を拭い去るため、詳しく知らない共産主義批判を展開する。
窓外に、夜の
話し疲れた俺たちは、めいめいキャンバスベッドに身を委ねた。腰が落ち込み、身体が折れ曲がる。熱くなった頭、軍靴から解き放たれた足から血の気が引いた。定期的に訪れる、継ぎ目の振動がベッドを揺らす。布を張っただけのベッドは、兵隊のゆりかごになっていた。
まぶたが重くなっていく。もう寝よう、と電灯のスイッチを落とす。夜が明けたら佐世保だろうか、もうひとつ夜が明ければ韓国だろうか。いくつ夜を明かしたら地獄になって、どれだけ夜を明かしたら日本に、アメリカに帰れるのだろう。
戦争を知らない俺たちが、戦場から生きて帰ってこられるだろうか──。
物音がした。眠れるうちに寝ておきたいので、目を覚ますのを拒んで、壁側を向く。しかし横向きは寝心地が悪く、やむなく仰向けに戻る。
金属がこすれて、何かにはまる音が鳴った。窓が開いて、薄ら寒い夜風が頬をくすぐり、汽車の煙が鼻を突く。
異変に目を見開いた。風が吹き込むほうへと、首だけを回す。切り抜かれたような黒い影に、思わず俺は飛び起きた。
「お前! 何を……」
言葉で制するより先に銃声と、張り裂けんばかりの奇声が、静寂の夜空に放たれた。
ジェリコのラッパめ、狂ったか。
銃口は、見えない敵に向けられている。わずかな理性が、沿線の民家を避けている。照準の先は星がまたたく空虚だけ、それが数少ない救いだった。
同じように目を覚ました仲間とともに、背後からジェリコのラッパに飛びかかった。不意を突かれて弛緩した隙に銃を奪って、客車の隅に蹴り飛ばす。ジェリコのラッパを羽交い絞めにし、首根っこを床に押しつける。
抵抗するかと思われたが、ジェリコのラッパは爪を切られた猫のように大人しかった。ろくに受けていない軍事教練、それがまさか味方を取り押さえるのに役立つとは。しかし物足りない、もっと暴れてくれと不謹慎な願いを、誰もが胸に秘めていた。
すると、騒ぎに気づいた上官が駆けつけてきた。
俺たちに二三の質問をして、ジェリコのラッパを拘束し、拳銃を拾って別の客車へと連れ去った。
寝台車は、継ぎ目の音だけが響く静寂を取り戻していた。窓が吸い込む汽車の煙か、客室内に漂っている硝煙の残り香か。そのふたつを天秤にかけて、俺たちは窓を開けたままベッドに戻った。
だが、興奮は冷めやらない。朝鮮半島に渡れば、こんなことは日常茶飯事。敵にも味方にも同じことをするだろうし、自分がされる恐れもあった。
そして、不安に苛まれている俺たちも、ジェリコのラッパと同じようになるかも知れない。
眠れなかった。残りわずかの長い長い夜だった。寝返りを打ち、寝心地の悪さに向き直る。ゆりかごだったキャンバスベッドは、緩慢な拷問に変わってしまった。
「眠れないのか?」
誰かが、誰にということもなく声をかけた。寝息はひとつも立っていたない。誰にとっても眠れない夜だった。
同じ奴が、ぽつりとつぶやく。
「俺が、あいつと同じになったら……」
みんな、同じことを考えていた。そして、その先を言葉にしないようにしていた。だから言葉にした彼に、俺もみんなも息を呑んだ。
「言うな。みんな、思いは同じだ」
俺がそう制すると、彼は素直に従い口を噤んだ。思ったことを言わずにはいられない、母の言いつけを守るような従順さ。迫りくる戦争の恐怖が、彼を子供に戻してしまった。
彼もまた、海の向こうの俺たちだ。そして、彼は今のままでは死ぬ。大人になれ、生きて帰ってきたければ。そう、自分に言い聞かせた。
列車後方から朝日が差した。やはり列車は、西に向かっているのだと落胆する。ジェリコのラッパが寝ていたベッドは、虚しく空いたままだった。山間を抜けて街が現れ、やがて佐世保駅へと滑り込む。
命令に従って整列し、点呼を取ったがジェリコのラッパは、いないことになっていた。
いっそ狂ってしまおうか、そのほうが楽ならば。
楽なものか。戦地にたどり着けなかった腰抜けの烙印を押された軍人なんて、どの面を下げて故郷に帰るというのだろうか。
準備が整い、輸送船へと歩みを進める。整列した兵隊が船に飲み込まれていく様は、ベルトコンベアで運ばれるソーセージのようだった。
俺も、思いついたことを口から出さずにはいられなくなっていた。子供に帰ったわけではない、大人として誰かに伝えておきたかった。
前の奴の肩を叩いて、思いを託す。
「俺が狂って同士討ちなどしようものなら、構わず殺してくれないか」
彼はしばらく狼狽えてから、固くうなずいた。
そうか、君も同じ考えだったか。
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