第98話・REAL②

 刑事が手にした自在スパナが、ひたひたと呉羽の頬を叩いた。冷たい無機質な感触が、刑事の冷酷さを表している。

「これは松川駅、それも線路班の倉庫にあったものだ。これでボルトを緩め、線路の継ぎ目板を外して脱線させた。そうだな?」

 茶番だ、馬鹿げていると、呉羽は顔をしかめた。


 日夜、列車の振動にさらされている線路と、その継ぎ目板。手に収まる自在スパナで緩められるようでは、工作などしなくても勝手に緩んで列車が脱線してしまう。

「継ぎ目板のボルトは、強固に締結されています。そのスパナでは緩みません」

 テコの原理を利用した、長尺の専用スパナで締め上げる。当然、緩めるときも同じだ。それが証拠に出ないのは素人だからか、専用のスパナに使われた形跡がないのか、どちらかだ。

 ところが刑事は、思わぬことを言った。


「お前は線路の専門だ。専用のスパナがなくても、ボルトを緩める方法を知っている」

 無茶を言うな。その専用である俺が、緩まないと言っているんだ。試しにやってみてもいい、応力が足りずボルトは回らない、そのはずだ。

 だが、それを訴えたところで、どうなる。事件の台本は仕上がっている、その物語に俺を据えるだけだ。意に反すれば、物語に従った脚色を加えるまでのこと。

 警察では知り得ない専門知識を、呉羽はひた隠しにしている。自在スパナでボルトを緩めれば、自供と同義。口を割るはずがない。つまり、呉羽が実行したか指示をした。


 馬鹿げている。馬鹿げているが警察は、こうして勾留期間を引き延ばしている。駅前旅館の証言も、庭坂の事故と同じ旅館だったから、口裏を合わせているとされた。おそらくだが旅館にも

「絶対に外出していないのか。万が一、目を盗んで外出していたとすれば、あなた方が不利になる」

 そう脅して、曖昧な証言を引き出したのだろう。拘置所に囚われて、外界は空しかわからない。が、取り調べから察するに、こんな警察官ならやりかねない。その推察は、取り調べを受けるほど確信へと変わっていった。


 だが覆せない、ひとりでは無力、ともに戦う仲間が欲しい。


 呉羽は、目を見開いた。灰色の天井から金色の光が差すような、ひらめきを得た。口を結んで固唾を呑み、それが本当に正しいのかと、自問自答を繰り返す。しかしこの状況で救いを得るには、これ以外の手段は考えられない。

 呉羽は噛んだ唇を、恐る恐る開いて言った。


「線路班の倉庫にあった自在レンチで、継ぎ目板のボルトを外しました。列車を脱線させる目的です。労働組合の要求を通すため、私が脱線事故を起こしました」


 刑事たちは、そっと胸を撫で下ろす。その安堵を包み隠すように、最大限の怒りを呉羽にぶつけた。

「そうか、お前がやったんだな? ようやく吐いたか。わかっているな、この罪は重いぞ?」

 わかっている。列車を脱線転落させて、三人もの死者を出した。この罪は重大だ。重大だが、決して俺はやっていない。それを貫き通すため、今は台本に載ってやる。

 すでに描かれた台本どおりに調書を作らせ、起訴に向けて弁護士を手配する。この弁護士が、呉羽にとっての味方だった。


 労働組合が手配した弁護士と面会する日を、呉羽が迎えた。手錠をかけられ、ガラスで仕切られた小部屋に連れられる。小さな穴が空けられたガラスの向こうに、四十を過ぎたであろう男が座っていた。いかにも穏やかそうな顔だが、芯が通った背筋から正義感がにじみ出ている。

 だが、妙だ。

 背広に桃色のシミがある。そんな色の汚れなど、何によって出来るのか。それを見つめる呉羽に気がつき、肘を上げてシミを見た。


「あっ……。すみません、絵の具です。いつの間についたんだ」

「絵の具? お子さんがいらっしゃるのですか?」

 すると男は、困ったように照れていた。緊迫する面会室で、なんとも拍子抜けしてしまう。

「ともに活動をしている女性です。新聞の挿絵や、紙芝居を描いています。彼女に移されたのか……」

 なるほど、いい仲なのか。まさか、こんなところで惚気話のろけばなしを聞かされるとは。呉羽はみっともない顔で、辟易とするしかない。


「失礼しました、司法修習生の岩崎です」

 呉羽も挨拶をすると、さっそく本題と岩崎は身を乗り出した。草食動物のような顔が、猛禽類のように鋭くなる。

「松川の脱線事故で、三名が亡くなりました。機関士と、機関助士です。同じ国鉄、同じ労働者が生命を落としたことについて、呉羽さんはどう思いますか?」

 呉羽の喉が締まっていった。誰に絞められたわけでもない、自責の念がそうさせた。脱線事故は起こしていないが、あのとき山辺をどうにか出来れば、事故など起きていなかったはず。


「旅客の被害がなかったのは、幸いでしょう。だが私は、仲間を失った。保線と機関区、顔も知らない間柄ですが、紛れもなく国鉄の仲間です。私が未然に防止していたら……。そんな計画を知らなかったにせよ、私が事故を防げていたら……」

 呉羽は思いを吐露していくうちに、身を削がれるような後悔に苛まれた。絞られる喉から、かすれた声を細く吐き出す。岩崎は、閉まりそうな呉羽の喉をまっすぐな目でこじ開けた。


「私が仲間を殺すはずがない! 犠牲を美談にしてはならない! 人を生かすためにある、それが労働組合だ!」

 すると岩崎は頬を緩め、ねぎらいを込めて哀しく笑いかけた。

「呉羽さん。あなたは、やっていませんね? 私は全力で支援します、どうか真実を教えてください」

 呉羽は差し込む光に向かって、閉ざした扉に手をかけた。救われるために背負った汚名、それを返上するときだ。

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