第95話・TRAP③
昭和二十四年九月十五日、午前九時。特急列車が東京駅を発車した。その名は『へいわ』。下山の跡を継いだ加賀山国鉄総裁が、平和を願って名付けをした。
『つばめ』には、ならなかったか。と、寂しそうに見送ったのは、椎名工作局長。国鉄本社から発車を眺める日々も、一週間が経っていた。
それでも、つばめに
客車はどうにか格好をつけた。機関車次位の三等荷物合造車は戦前製だが、続く三等座席車の二両は新製させた。車体の設計は戦前の流用だが、台車は新たに設計したものを履かせている。戦後間もなくから椎名が所属した、高速台車振動研究会の賜物である。
研究の果てに目指しているのは、弾丸列車。時速二百キロメートルで走る高速列車に耐えうる台車を開発している。
ここで椎名は、面白い男に会った。鉄道車両製造会社に勤める、高田という男だ。無類の台車好きという変わった奴で、関西の私鉄と手を組んで台車の研究を戦前からやっていた。その成果には、椎名が知っている電車もあった。
研究会の合間合間で、彼は熱っぽく語るのだ。
「台車は大きければ大きいほど、乗り心地がいいとされてきました。しかし、その根拠はありません」
「車体と台車の間にある枕ばねと、台車と車軸の間にある軸ばね。それぞれの役割とは、なんでしょうか」
これらに対して椎名らは
「三軸台車の一等客車と、小ぶりな台車の路面電車では、一等客車のほうが乗り心地がいいだろう」
「枕ばねは車体の揺れ、軸ばねはレールの継ぎ目の振動を吸収している」
そう答えたが、これらは感覚によるもので調べたわけではない。では、実際はどうなのかを試験台車で調べてみるのも、研究会の役割だ。
高田の疑問は高速台車のみならず、鉄道車両全般にまで役立ちそうな成果を出した。失敗もあったが、それも
そんなとき、高田が妙なことを言った。その場の誰もがぽかんとするような、不思議なことだ。
「アメリカのグレインハウンドは、エアーサスペンションというのを使っているそうです」
その会社は、椎名も知っていた。だからこそ呆気に取られたのだ。
「グレインハウンドって、アメリカ最大のバス会社だろう?」
「そうです。そこのバスは、空気のばねを装備しています」
それは、どういうものなのか。尋ねると、高田は詳しく教えてくれた。
「ゴムチューブに空気を詰めて、それを車軸のばねとしています」
タイヤにも、車軸にも空気が詰まったチューブを使う。なんとも珍妙な話だと、誰もが話半分に聞いていた。
しかし高田は真剣だ。これを活かす手立てはないかと、ひとりで頭を悩ませている。
「自動車産業が盛んなアメリカだから、様々なゴムチューブがあるのだろう。日本で使われているゴムチューブでは、小さすぎて軸ばねが関の山だ。椎名さん、国鉄で使ってみませんか?」
あまりにも突飛な話なので「遠慮しておくよ」と引きつった愛想笑いをして断った。これくらいでは高田が諦めることはない。懇意にしている関西私鉄に持ちかけようかと思案していた。
そして高田は、恨めしそうに椎名に言った。
「遥か遠くにあったアメリカが、すぐ近くにいるんです。戦争で途絶えた時間を取り戻す、絶好の機会ですよ?」
まったく彼は、部下の法師のようなことを言う。
その法師が、出来上がった図面を眺めて感嘆していた。
「これは凄い。従来の二等車を遥か凌駕する、非常に贅沢な二等車です。料金体制を見直さなければ」
設計中の二等客車だ。特急へいわは戦前製の二等車をつなげているが四人一組箱形座席で、その間隔が広いだけだ。だがGHQの提案は、窮屈な四人席を安楽椅子ふたりがけに変えろと言っている。
「専用客車の安楽椅子探しには難儀したが、今回はGHQが手配に協力してくれる。ありがたい話じゃないか」
椎名も思わず、図面を覗き見る。敵わない、この二等車が新たな道を指し示すのは、間違いない。
その道を夢見心地で辿った先は、アメリカだ。
それは、椎名自身もシャグノンに願ったことだ。
敵わない、抗えない、敷かれた道筋から逃げられない。日本は罠にかかったように、アメリカに染め上げられる。日本が日本であるために、日本の鉄道はどうあるべきか。
椎名は、蓮城に会いたくなった。
蓮城に会えさえすれば、助言がなくとも違った道が
席を外すと部下に告げ、渉外部に向かっていく。扉を開けたが、とても会話をする雰囲気ではない。椎名は凍てつく空気の隙間を縫って、右往左往する仁科に問うた。
「どうしたんだ、そんなに慌てて」
落ち着きを取り戻そうと、仁科は深く息をした。しかしそれでも、瞳は激しく揺れていた。只事ではない何かが起きた、それだけは伝わったので、椎名は覚悟を決めて固唾を呑んだ。
「松川の脱線事故で、国鉄職員が逮捕されました。それも複数名です」
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