第83話・DRIVER③

「まだ開いていないんじゃないか」

 そのひと言を聞いた運転手は、話の整合性が取れていないと首を傾げそうになった。三越にちょうどいい、と言ったのは下山だ。その下山が、まだ開いていないと指摘したのは、どうもおかしい。

 先の下山が正しいのだと、運転手はビュイックを降りて後部のドアを開いた。

「もう人が入っていますよ」


 GHQ指導のもと、昨年から夏時間が導入されて一時間前倒しになっている。下山が家を出たのは夏時間だったが、狭い界隈を回っているうち、勘違いをしたのだろう。

 ビュイックを降りた下山は、開け放たれた玄関と吸い寄せられる人々に納得して、運転手に告げた。

「五分ばかり待て」

 これは下山の口癖だった。五分で済んだことなどない。時間は九時三十七分だったが、振り回された疲れもあって、いつものことだから気楽に待とうと運転席に収まった。


 その頃、国鉄本社では局長会議が開かれていた。九時からはじまっていたが、下山が姿を現さない。総裁秘書は下山邸に電話をかけたが、既に家を出ていると夫人が言った。道中に何かあったのか、と裏玄関で待っていたが、十時になっても現れない。

 思い当たるところへ片っ端から電話をかけたが、下山の所在がわからない。それ以上の当てはなく、困惑したまま会議の場に包み隠さず報告した。

「また寄り道でもしているのか?」

「鉄道の長が、時間を守らないようでは困る」

「まぁまぁ。結局、国会が決めて我々が動くんだ。総裁には結論を報告すればいい」


 集まった各局長は、総裁不在で会議をはじめた。

 総裁秘書は、ただならぬ事態が起きていると背筋を凍らせた。このあと十一時からら、下山が最も気を遣うGHQ労働課長との面談を控えている。局長会議はもちろんのこと、GHQをないがしろにするはずがない。

 秘書は再び電話を掴み、ダイヤルを回す。かけた先は、警察だった。

「国鉄本社です。出勤中の下山総裁が、行方不明になりました」

 そして約束の十一時。下山は面談の場にも、その姿を現さなかった。


 秘書は、加賀山副総裁のもとへと急いだ。報告を聞いた加賀山は、公用車を手配して国鉄本社をあとにする。置き去りにされたように狼狽える秘書を目にして、蓮城と仁科が声をかけた。

「副総裁が急いで出ていきましたが、何かあったのですか」

 秘書はふたりを認めても、口を噤んでいた。大山鳴動して鼠一匹では困る、と加賀山に口止めされていたからだ。躊躇った末、平静を装い「大したことではありません」と言ったものの、その顔には不安と焦燥が透けていた。


 蓮城と仁科は、事態の重さを悟った。何があったのか聞き出さなければと、秘書から離れようとしなかった。

「決して口外しません、力になります」

 総裁室直下の渉外部ならば、信頼に足る。蓮城と仁科なら尚更だ、と秘書は固く結んだ唇を開いた。

「おふたりだけに、お話しましょう。何もなければ国鉄の信頼に傷がつきます。それを承知して頂けるなら、お聞きください」

 ふたりは、秘書をまっすぐ見つめて頷いた。秘書は力強い眼差しを見つめ返して、その奥にある真意を覗き込む。


 邪推はない、言葉どおり力になろうとしている、やはりこのふたりになら話していい。

 辺りに人の気配がないと確かめてから、三人は身を屈めて顔を寄せ合う。

「下山総裁が、行方不明になりました」

 思わず、ふたりは声を上げそうになる。呑んだ息で蓋をすると、秘書はかすれるほど潜めた声で話を続けた。

「警察には通報しています。副総裁は報告のため、警察本部と警視庁、法務省と最高検察庁、東京地方検察庁を回るそうです」

 体制は整えている。だが今日という日を思えば、いくら手を尽くしても十分だとは言えなかった。


「外回りに出よう、渉外部の業務として」

「副総裁も、そうされるおつもりです」

「しかし蓮城さん、何を当てにすれば」

「総裁は公用車で出勤しているな?」

「下山夫人から、そう聞いています」

「その公用車は、今どこにある?」

「それも見つかっていません」

「車種はビュイックだったな」


 蓮城と仁科の業務が決まった。下山のビュイックを見つけ出す、そこに下山がいるはずだ。もし下山がいなくても、運転手から足取りを聞ける。運転手まで消えていたら……。

 考えれば考えるほど、真綿が水を吸うように不穏な空気に侵されていく。仁科の暗い表情を、蓮城が言葉でピシャリと叩いた。

「そんな顔をするな。まずは国家の財産、公用車のビュイックを探そう。あとのことは、渉外部の仕事とは決まっていない」

 仁科は自分の頬を叩いて、蓮城が示した目的だけに集中した。余計なことは考えるな、渉外部の職務に全うしろ、と。


「家の周りや通勤経路は、警察が調べるでしょう」

「駅やその周辺は、鉄道公安局が担当するだろう」

「立ち寄りそうなところは、副総裁が回ります」

「秘書として思い当たる場所はないか? 君の意見を聞かせてくれ」

 蓮城の求めに応じて、秘書は思い浮かんだ限りを書きつけ渡した。その中から警察と公安、副総裁が回りそうなところを外し、ビュイックを目撃したか尋ね歩いた。


 情報を得られないまま時間が過ぎて、迎えた十五時三十分。訪ねた先のラジオから、臨時ニュースが流された。

「国鉄総裁が……行方不明? あんたたち、国鉄の職員だと言っていたな」

「そうです、下山総裁を探しています。ビュイックを見ていませんか? 下山総裁の公用車です」

 公開捜査は、警察でも足取りを掴めていない証拠である。姿を消して七時間、下山はどこへ行ったのか、とふたりの気持ちは焦るばかりだった。

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