第3話・MRS③

 私たち鉄道官僚にとって、毎日の出退勤が何よりも耐え難い拷問であった。

 運輸省鉄道総局が収まるビルは、東京駅の丸ノ内北口改札正面にある。背にした赤煉瓦駅舎は夥しい焼夷弾の爆撃を受け、ノコギリ状に崩れてしまったままでいる。駅舎修復を計画しているが、物資不足で進む気配がまるでない。


 蓮城は渉外室に入るなりダイヤを手に取り、机に開いて目を通す。時間を示す縦線と駅を示す横線の中を、列車を示す斜線が突っ切っている。

 幾多の列車を渡り歩く赤鉛筆を目で追いかける。この赤い線が、各所に疎開留置させていた病客車である。客車というたすきは横浜港の山ノ内駅でプツリと途絶え、連合軍の傷病兵士を迎え入れる。

 明日は、その試運転。明後日には傷病兵を乗せた船が寄港する。ベッスンと顔を合わせてから、まだ二日。戦争の後始末は、矢よりも早く進んでいた。


 と、そのとき電話が鳴った。ベルを鳴らしたのは鉄道電話。期待と不安の高鳴りを、張りつめた笑みにして受話器を掴んだ。

「鉄道総局渉外室鉄道部、蓮城です」

『仁科です。視察が終わりましたので取り急ぎ報告をします。連合軍専用に東横浜駅を使用すると命令が下りました』

 桜木町駅裏にある貨物駅だ。貨物線なら横浜港の各埠頭につながっており、日本人と鉢合わせる心配も薄い。これは互いにとっていい選択だと、蓮城は吐息をついて背もたれに深々と身を委ねた。


「わかった。ベッスン准将は、理解があるな」

『ただ、連合軍が使う駅には鉄道運輸事務所Railway Transportation Officeを置くようにと、指示がありました。車で向かっていますが、そちらにも同じ指示がなされると思います』

「わかった、ありがとう。ベッスン准将はこちらで迎えるから、鉄道総局に戻ってきてくれ」

 受話器を置いて、鉄道総局をあとにした。赤煉瓦駅舎に痛む胸を押さえつつ、駅長室へ向かう。

 連合軍が自動車で来る、そう告げてからベッスン一行の到着を待つ。じっと見つめているのは南側、ベッスンらがそちらから来るというだけではない、それより遥かな懸案が私たちにはあったのだ。


 そのうち、大柄なアメリカ車が砂塵を巻き上げ、ふわふわと揺れながら東京駅前に姿を現す。紛れもなく連合軍、ベッスンらだとひと目でわかった。

 私たちのそばに停まり、先んじて降りた運転士がひらりと回って後部座席のドアを開いた。ベッスンはすぐさま、しかし悠々と降りると私たちより先に崩れかけた駅舎を一瞥した。

「東京のビルディングも、いくつか接収する。鉄道総局の一室も使う。東京駅の改札を、連合軍専用に使わせてもらいたい」

 それが負けた結果だと理解に努めていたものの、車寄せがある中央は天皇陛下御乗用の出入口。これだけは使ってくれるなと、蓮城は怒りにも似た祈りを捧げた。


 それを察してくれたのだろうか、ベッスンは両翼の改札の流れを読んで、南口を指差した。

「あの改札にRTOを置いて、連合軍専用にする。これから回る他の駅にも、だ」

 ベッスンは笑みを浮かべて、それに続けた。

「私もマッカーサーも、鬼じゃない。統治するのに何が必要なのか、考えている」

 先行きの不透明な言葉に不安を覚えずにはいられないが、ほんのわずかな安堵にも希望を見出して、蓮城と駅長は笑みを交わさずにいられない。

 しかし、それを目にした通訳が眉間にしわ寄せ、どうせ言葉がわからないとたかをくくって唾のように吐き捨てた。

「……Jap」


 ベッスンの耳には届かなかったのか、それは咎められることはなく、何事もなかったかのように列車の行き先を翻訳させた。

「名古屋、大阪、広島、博多……西行きの列車しかない。北行きの列車は、どこから出ている」

「上野駅です」

「我々にとって、北は重要な場所だ。上野に行く、運転台Cabに乗りたい」

 北、すなわちソビエトを指す。知り得ない世界の裏側を垣間見て、不穏な空気が行幸通りに漂った。

「列車で上野に行くのなら、ご同行致します。それと」

 蓮城は蔑称を吐き捨てたアメリカ兵に歩み寄り、押さえた蓋から怒りを英語で漏らした。

「先ほど仰った、理由を伺いたい」


 燃え上がる囁きにアメリカ兵はたじろいでから、勝者の勲章を胸に貼りつけ呟いた。

「お前、英語が出来るのか」

「少しであれば。もう一度聞こう、japと言った理由を伺いたい」

「……どうして笑う? 日本人は不気味だ」

 言われて思い返すのは自分自身の笑みではなく、重光外務大臣の笑みだった。それを目にした私たちは骨の髄まで凍りつくような気がしたが、連合軍の兵士たちは異なる恐怖を感じたようだ。

 戦地の彼らは、日本人の何を見たのか。冷めるはらわたの蓋を閉ざして、ベッスンらを駅舎に導く。


 プラットホームに上がり、山手線の停止位置目標付近に並ぶ。しばらくすると、額にぼやっと白熱灯を灯らせる焦げ茶の電車が滑り込んできた。

 居並ぶ我々の姿を捉えて、運転士の顔がみるみる硬直していった。吐息を何度か撒き散らし、我々の真横に電車が停まると、運転士は立ち上がって細い乗務員室扉を開いた。

「鉄道総局渉外室の蓮城です。こちらは連合軍第三鉄道輸送司令部、ベッスン准将。上野まで添乗願います」

 すかさず運転士はプラットホームに降り、運転台へと招き入れる。ベッスンを先に乗せ、蓮城がそれに続くと、すぐさま運転士が仕事場に収まった。


 運転台の戸閉ランプが白く灯ると、運転士は出発信号機を指差確認喚呼して、矢継ぎ早にブレーキを緩めて加速させた。

 電車が轟音を立てて駆け出し、木枠の窓から臨む景色が拡大鏡のように迫りくる。が、時速40キロに達すると、すぐさま加速をやめてしまう。

 電気が足りないのだ、蓮城は不安定な架線電圧計を注視した。一方のベッスンは、右に横たわる列車が来ない線路をじっと見つめている。


 神田、秋葉原、御徒町を過ぎると、灰色の活況が眼下に広がっていた。それに目を奪われたベッスンは、あれは何だと問いかける。

「闇市です。配給品だけでは足りないので、法外な値段でもあのようにして、買い求めるのです」

 ものが足りない、しかしこれから外地の引揚者や復員兵を受け入れる。今の日本にそのふところがあるのだろうか明日は我が身と、蓮城は不安を隠せずにはいられなかった。

 ベッスンがたまらず視線を背けたその先に、山に埋もれたような入口が開いていた。軍の鉄道を担う直感が、雷撃となって身体を疾走はしった。

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