占領列車 -Occupied train-

山口 実徳

第1話・MRS①

 神様の固く震える声を聞いて、地に堕ちるほどの落胆と、空より広い解放感を噛み締めてから半月が過ぎた、昭和二十年九月二日。よわい四十ばかりの男ふたりが、横浜港の沖に浮かぶ戦艦ミズーリを横目に歩いていた。

 神奈川県庁の玄関で、すれ違った男の凍てついた笑みに、光も通さぬ霧の中に迷い込んだ、そんな気がした私たちは背筋に冷たい汗を伝わせた。


 その男の名は、重光まもる。敗戦の二日後に成立した東久邇宮ひがしくにのみや内閣で外務大臣に任命された。

 今のすべてを知る顔色から、この国はどうなってしまうのかと、不安に苛まれるばかりである。


 ふたりが呼び出されたのは、神奈川県庁を間借りした横浜終戦連絡事務局。彼ら連合軍は何を求めて如何なる指示するというのか。そもそも一介の役人である私ごときが、何故ここに呼び出されたのかと不思議でならず、渦巻く思考に呑み込まれ目眩めまいさえするほどだった。


 いいや、しっかりしなければ。私たちも、日本の命運を握っているのだと身なりを整え、アメリカ兵が開けた扉をくぐり抜け、背筋を伸ばしたまま腰を折る。

「運輸省鉄道総局渉外室鉄道部、鉄道官の蓮城れんじょう孝造です」

「同じく、鉄道官補の仁科長一郎です」

 絨毯を睨んだ私たちは、自身の目を疑っていた。はじめの礼を尽くして顔を上げ、正面の机に収まる男の姿を捉えても、まだ自分が信じられない。


「こちらは第三鉄道輸送司令部3rd Military Railway Service、フランク・シェーファー・ベッスン准将」

 通訳が手の平で指した、その白人は若かった。歳は三十五といったところだろうか。この若さで日本の鉄道を統べようというのか。しかし革張りの椅子に深々と身を委ねている佇まいを前にして、私たちは強引にでも納得せざるを得なかった。


 ベッスンの言葉が訳されて、私たちに伝えられた。

「……旅客Passenger貨物Freight専門家Expertを呼んだ。どちらが旅客か、どちらが貨物か」

「旅客は蓮城、貨物は仁科です」

「オーケイ、日本の鉄道を教えてくれ」

 疲弊しきった現状を事細かに、包み隠さず伝えると、席を立ったベッスンは大袈裟に感嘆を表した。どうして機嫌がいいのかと怪訝に眉をひそめていると、その理由はすぐ私たちに告げられた。


「東京を攻撃して六ヶ月、横浜を攻撃して三ヶ月、他にも主要な都市を壊滅させた。それなのに列車が走っている、信じられない。何故Why?」

 これには、ポカンとした顔を見合わせずにはいられない。大都市を灰にした空襲に抗った現場の努力の賜物だったが、それの何が不思議なのかとこちらが疑問を抱いてしまう。


 何と答えようかと模索した末──

「それが私たちの使命です」

としか、言いようがない。


 ところがベッスンは、それに痛く感激していた。私たちに歩み寄ると、固く下ろした手の平を掴んで握ってきたのだ。虚を衝かれた私たちは、ますます彼らがわからなくなってきた。

 それを察するより先に、ベッスンは嬉々とした声をまくし立てた。彼に追随している通訳は、戸惑いながらも必死になって、ベッスンの言葉を私たちに伝えていった。


「マニラに駐留している間、爆撃の報告を聞くたびに日本の鉄道は壊滅したと思っていた。我々MRSは鉄道の総指揮を考えていた。しかし、その必要はなくなった」

 復旧させる手間が省けた、そう言いたいのだろうと思っていたが、これが私たちに吉報をもたらしたのだ。


「これだけ列車を走らせているなら、私たちは手を出さない。日本の鉄道は、あなた達に任せよう」


 日本の鉄道は、日本人によって守られた。弛まぬ努力が成果を結んだ瞬間に、私たちは直立したまま胸の内に湧き立つ熱さを感じていた。

 しかし喜べたのは、つかの間だった。

「ただし、私たち連合軍の指示には従ってもらう。日本は連合軍の占領下にあるのだから」

 重光外務大臣があの艦隊の甲板で何をしたのか、私たちは思い知った。降伏文書に調印し、その足でここに連れられた。つまり重光は、敗戦後の後始末を一手に引き受けているのだ。


 占領された日本は、天皇陛下の国ではなくなってしまうのか。そう青ざめた私たちにベッスンは、机に関東の地図を広げて手招きをした。

「アメリカ軍傷病兵が横浜港に到着する。四百人が毎日、二ヶ月間にわたる予定だ。彼らを厚木飛行場まで輸送してほしい」

 訳した言葉の後を追って、ベッスンは横浜駅の東にある山ノ内埠頭を指差した。そこに敷かれた貨物線は、北の鶴見駅で東海道本線と合流する。それをひと目で解した彼は、鶴見駅まで指をなぞって折り返し、横浜駅まで南下した。

 しかし──。


 貨物の専門家である仁科が、ベッスンの指先を声で制した。

「横浜から厚木飛行場に向かう線路は、私鉄です。それとは線路が繋がっていません。繋げるならば、分岐器ぶんぎきを設置する工事が必要です」

 ベッスンは両手を挙げると、わかりやすい困った顔をしてみせた。ならば、どうすればいいと問うているように見えたので、仁科が線路を指でなぞる。


「我々鉄道総局の路線のみですと、山ノ内埠頭から貨物線を北上して鶴見へ。折り返して東海道本線を下り、横浜を通り過ぎて茅ヶ崎へ。再び折り返して相模線で北上して厚木と、大回りになります。そこから飛行場へは……」

「オーケイ、もういい」


 今度はもう十分だと両手を挙げたので、私たちはほんの少しだけ肩の力を緩めた。横浜にしろ厚木にしろ、そこから厚木飛行場へと向かう東急神中じんちゅう線は、東亜各所に散らばった傷病兵を輸送するには、あまりにも脆弱だからだ。


「ルートはいい、次は客車だ。傷病兵を運ぶベッドの客車、病客車Hospital Carを用意しろ」

 それならば、つい先刻まで行っていた戦争で使用していたものがあると車庫を思い浮かべた蓮城に、通訳が一歩迫って念を押した。

「状態がいいものだ。日本人が乗っているガラスやドアがないものは、ダメだ」

 鉄道事情をしっかり観察しているじゃないか、と私たちは薄氷が張った笑みを交わした。

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