第7(2)話
この時期、日中に放射された熱は、ビルのコンクリート壁やアスファルトの地面に吸収されており、日が落ちれば、今度はコンクリート壁やアスファルトの地面からその溜まった熱が放射される。そのため、夜になってもなかなか気温が下がることはない。今夜も例に漏れず、蒸し暑い夜だった。
蒸せるようなビル風が肌をなでれば、さらに不快指数を増加させる。
しかし、今、この場所に至っては、そんな気温や湿度とはまた別の要因によって、人は気分を害するだろう。
「はあ、遅かったか……」
少女はため息を吐きながら、地面に転がるそれを見つめた。
それは人の形をしていた。もちろん五体満足だ。
だが、その人はまるで全身の水分を奪われたかのように干からびていた。骨が浮き出し、顔面は骸骨に皮を適当に張り付けたような、グロテスクな様相を呈している。
当然だが、もうこの人は動かない。
少女は遺体の側にしゃがみ、両手を合わせた。目を閉じ、誰とも知れない人物に黙祷をする。
この人にも家族がいたのだろう。
この人が亡くなったことで悲しむ人もいるだろう。
なにより、夢半ばで無慈悲に命を奪われたこの人自身が一番悔しいに違いない。
ゆっくりと目を開ける。
「ったく……。こんなときに……」
自分の背後から気配がした。
小さいときから幾度となく感じてきたあの気配だ。敵意がむき出しで、今にも自分を食い殺さんとする視線を背中に感じた。
しかし、そんな真っ黒な殺意にさらされながらも少女は至って冷静だった。
両足に力を入れ立ち上がる。
振り返ると、そこには三匹の狼がいた。
ただ、普通の狼ではない。そもそも、こんな人が暮らす街に狼がいるわけない。
そいつらは闇よりも深い真っ黒な体毛でその身を覆い、その両眼は対照的にオレンジ色に明るく光る。
現世の理からはずれた空想上の生物――――
こいつらは、日の光がなくなった夜間に現世へと生れ落ち、人を襲う。
後ろの遺体も怪異によって殺された人のものだろう。
といってもおそらくこいつらの仕業ではない。こいつらは生者たる自分の気配に誘われて、ここに群がってきたにすぎない。
狼たちはゆっくりとこちらに詰め寄ってくる。
少女は腰からぶら下げていた二本の小太刀を鞘から引き抜いた。
月明かりが刃体に当たり、鈍色の光が反射する。
「【
その詞を口にする。
直後、彼女の周りを漆黒の粒子が覆った。
狼たちはその様子を見て、ただならぬ気配を感じたのか一斉にたじろいだ。
少女は目を閉じ、詞を続ける。
「《
少女の詠唱が完成すると、彼女の周りを覆っていた粒子が二本の小太刀へと収束する。鈍色の光が真っ黒に覆われる。
少女は二本の小太刀を胸の前に構えると、怯える狼たちを鋭く睨みつけた。
「さあ、おいでよ。…………一匹残らず狩ってあげるから」
表情を何一つ変えず、そう呟く。
怯んでいた狼たちだったが、どうやら覚悟を決めたらしい。狼たちは一斉に飛びかかってきた。
それと同時に少女も狼たちに向かって飛び出す。身を低くして、勢いよく加速する。
武器を持っている分、狼たちが先に少女の間合いに入った。少女は自身の間合いが入ったことを確認するや否や、一番近くにいた左端の狼に対して右の小太刀で一閃。
直後、漆黒の軌跡が狼に刻まれる。
たしかな手ごたえを感じるとともに壁に向かって跳躍。さらにコンクリートの壁面を片足で蹴りつけて逆方向の壁へと移動する。
残る二匹の狼は三次元に動き回る少女に翻弄される。
「二匹目――」
そんな隙を少女が見逃すはずもない。
彼女は動きの止まった二匹の狼のうち壁際にいたやつへと向かって真上から一太刀浴びせた。そいつが彼女の姿を認識したのと、自身の頭蓋が割れたのを認識したのが同時だった。
彼女の動きはとどまるところをしらない。
さらに流れるようにして最後の一匹に向かって自身の獲物を振り抜いた。
そいつも自分が今なにをされたのか全く理解できていないようだった。
「……消えて」
あれだけ動き回ったのに息一つ乱れていない声でそう呟くと、少女は両手の小太刀を鞘へと戻した。
狼たちに浴びせたのはそれぞれ一太刀ずつ。しかし、それで十分だった。
彼女の攻撃を受けた狼たちの体に次から次へと
やがて、体中に罅の入った狼たちは、まるで砂のお城が風に吹かれるようにボロボロと崩れ落ちていく。
「ふう……」
狼たちが塵へと消え去っていくのを見守るわけでもなく、彼女は静かにため息をつく。
生暖かい夜風が彼女の頬を撫でた。
「今晩もあいつには会えそうにないかな……」
薄い雲に覆われ、青白い光を放つ月に向かって彼女は呟く。
狼たちは完全に崩れ去り、虚空へと消滅した。
少女もゆっくりとその場を後にした。
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