第3話 奪われたもの


「……楽にして良い」


 その言葉に少し遅れて、アンリエッタはカーテシーを解く。


「ありがとう存じます」


 アンリエッタは、目の前に立つ婚約者を見上げる。エドワードはお忍び用の服を着ていて、普段なら月光に煌めく金髪も、目深に被った帽子にほとんど隠れている。

 正面からアンリエッタを見据えているエドワードの顔は険しく、冷たいサファイアブルーの瞳には、まるで穢らわしいものでも見るかのような嫌悪感が滲んでいた。


「あの、殿下……」

「――ひとまず、馬車へ。ここは人目につく」


 行きたくない、とアンリエッタが口にするよりも早く、エドワードは彼女のトランクを持ったまま、先に歩いて行ってしまった。


「殿下、トランクを返していただけませんか? 大切なものが入っているのです」

「駄目だ。これを返したら君は私から逃げるのだろう」

「そんなこと……」


 エドワードは、アンリエッタの思惑を見透かしているかのように、彼女の方を振り返りもせずぴしゃりと言い放つ。

 それ以上会話を続けることも許されず、アンリエッタはエドワードの後へと続いて、黙々と歩を進めるしかなかった。



 アンリエッタとエドワードの関係が変わり始めたのは、義母とマリアンヌが侯爵家に来た翌年ごろのことだった。

 きっかけは、エドワードがアンリエッタに贈った一着のドレスである。


 その日、アンリエッタは、エドワードと観劇に行く約束をしていた。

 アンリエッタは、エドワードから誕生日に贈られたドレスを身につけて出かける予定で、エドワードもそれを期待しての観劇の誘いだった。


 しかし。


「あら? ドレスが……ない?」


 使用人と共にクローゼットの中を探すが、エドワードに贈られたドレスが見当たらない。人を呼んで部屋中、屋敷中を探したものの、結局ドレスは見つからなかった。


「約束の時間に遅れてしまうわ。次に殿下からお誘いいただく機会があったら、その時に着ましょう」


 そうしてアンリエッタは、仕方なく別のドレスでエドワードと会うことにした。

 エドワードは会った瞬間に不満そうな顔を見せたものの、何事もなくその日は終わる。


 結局それ以降も、アンリエッタは、エドワードから贈られたドレスに袖を通すことは叶わなかった。



 次に事件が起きたのは、ベルモンド侯爵家で開かれた茶会だった。多数の貴族が集まる席で、王太子エドワードも招待されている。

 侯爵はゲストを、アンリエッタは婚約者のエドワードを出迎えるため、玄関ポーチで到着を待っていた。侯爵の妻は、前年に生まれた赤子がなかなか泣きやまず、マリアンヌと共に直接会場へ行くことになった。


 アンリエッタはエドワードに一通りの挨拶を済ませると、二人で共に茶会の会場へと向かった。そこで、アンリエッタとエドワードは、信じられないものを見る。


 なんと、義姉マリアンヌが着用していたのは、アンリエッタが無くしたはずのもの――エドワードがアンリエッタに贈った、ブルーのドレスだったのだ。


「え……お義姉様、どうして?」

「マリアンヌ嬢。そのドレスは――」

「王太子殿下、ごきげんよう。えへへ、どうですか? 義妹よりも似合うでしょう?」

「ちょっと、お義姉様、不敬ですわよ」


 王太子の話を遮って、自分から話をするなんて、不敬にも程がある。エドワードはピクリと眉を動かしたが、寛容にも、話を続けることにしたようだ。


「……いや、アンリエッタがそれを着ているところは、一度も見たことがないが」

「まあ、義妹がそんな失礼なことを? このドレス、デザインが好みじゃないからって、私にくれたんですよ。こんなに素敵なのに」


 アンリエッタは、義姉の言葉に衝撃を受けた。

 デザインが好みでないなどと、口にしたことはおろか、一度も思ったことはない。むしろ、ふわりと裾が広がるシフォン生地のドレスは、アンリエッタが最も好むデザインだ。


「……その話は本当か? アンリエッタ」

「本当ですよ! 現に、義妹は何にも言わないでしょう?」


 二人揃って、アンリエッタを見る。アンリエッタはあまりのショックに言葉も出ず、首をふるふると横に振ると、きびすを返し会場を出ていってしまったのだった。



 その茶会をきっかけに、エドワードとアンリエッタの関係は冷え込んでいった。


 エドワードは後日、アンリエッタに尋ねた。「ドレスの件は真実か」と。

 アンリエッタは、おそらくマリアンヌがドレスを盗んだのだろうと思っていたが、確証はないためエドワードに話さなかった。

 アンリエッタは、ただ「無くした」「いつ無くなったのかわからない」の一点張り。エドワードはそれ以上深く尋ねることをしなかった。


 帰宅してからアンリエッタは、「ドレスはとても気に入っていた。嬉しかった」と伝えればよかったと後悔した。ドレスを奪われたことが悔しくて、エドワードが向ける疑念の眼差しが悲しくて、そこまで気が回らなかったのだ。


 それからというもの、エドワードが侯爵家を訪れた際は、必ずマリアンヌも同席するようになった。


 婚約者と過ごす時間を邪魔しないでほしいと訴えたら、マリアンヌはわざとらしく涙を流し、エドワードはハンカチを渡して慰めた。

 マリアンヌは頬を染め微笑み、エドワードも「泣き止んでよかった」とまんざらでもなさそうに笑う。憐れみを多分に含んだ優しげな笑顔は、アンリエッタは一度も見たことのない、慈愛に満ちたものだった。


 涙を人に見せたくないアンリエッタは、またもや途中で逃げ出してしまった。

 この頃はもう毎回そんな調子で、エドワードがアンリエッタに会いに来ているのか、マリアンヌに会いに来ているのか、アンリエッタには皆目わからなかった。


 それ以降、アンリエッタの私室からは、ドレスやアクセサリーが少しずつ消えていった。マリアンヌが身につけているのを見るのは大抵一度か二度だが、その後アンリエッタの元に戻ってくることもない。


 社交に呼ばれる回数も目に見えて減り、アンリエッタはいつか来るであろう終わりを予感した。

 きたる時のためにも、アンリエッタは頭と体を鍛えておく必要を感じた。今はまだ取りやめになる気配のない王太子妃教育を利用し、より一層勉学に励み、体を鍛えるために護身術や剣術の指南も増やしてもらった。


 父親も頼れない。味方だった使用人は、もう誰もいない。婚約者は、義姉に夢中だ。

 アンリエッタは、もう、人に頼ることを諦めた。かわりに、いつか自らの足で歩き出す日を夢見るようになった。



 そしてついに、エドワードとの関係は終わりを迎えた。

 前回までのループで、巻き戻りの瞬間から三分経ったのち、侯爵から三度繰り返された話だ。


「エドワード殿下とマリアンヌの婚約が決まった。お前がここにいる価値はもうない。親子の縁も解消するから、速やかにこの屋敷を出て行け――屋敷の物を持ち出すことは一切禁ずる」




 考え事に耽っていたら、いつの間にか馬車に到着していた。

 いつもの大きく立派な馬車ではなく、お忍び用の、王家の紋章を隠した馬車である。


「さあ、乗るんだ」


 冷たい声で促され、アンリエッタは蒼白な顔で馬車へと乗り込む。続いてエドワードも馬車に乗り込み、彼女の向かいに座った。トランクはエドワードの隣に置かれていて、アンリエッタが手を伸ばすことはできそうにない。


「出せ」


 エドワードが御者に短く指示すると、馬車はゆるやかに動き出す。

 アンリエッタは、またベルモンド侯爵家に連れ戻されてしまうのではないかと戦慄した。

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