第5話

勇者乙の天路歴程


005『静岡あやね 』 





 先生! 中村先生!



 驚いて首をひねると、公園の生垣の向こう、こちらに走って来る女生徒。


「ああ、よかった、間に、間に合ったぁ!」


 公園に入って来ると膝に両手をついてゼーゼー肩を上下させる。


 ええと……あ、そうだ二年三組の静岡あやねだ。


「あはは、たいへんな勢いだねぇ」


「ちょっと失礼します」


 わたしの前を横切ったかと思うと水飲み場の水道に向かう。


 片手で髪を庇ってグビグビ……教室では目立たない大人しい子だったけど、こうやって喉をあらわにして水を飲む姿は相応に健康的で色っぽい。


「あ、すみません、お待たせしました」


 ハンカチで口を拭うと、こちらを向いて姿勢を正した。


「屋上でボンヤリしてたら先生が見えて、ご挨拶しとかなきゃって」


「ああ、そうか、それはそれは」


 こういう時は、きちんと正対してやらなければならない。黒カバンを置いて立ち上がる。


「わたし、ほとんど学校を辞めるところだったんですけど、先生のお蔭で三年生にもなれそうです。ほんとうにありがとうございました!」


 音がしそうな勢いで頭を下げる。


 こちらも、きちんと三十度の角度で頭を下げる。


「いや、ちがうよ。静岡自身が乗り越えたんだ、ぼくは、出来たとしたら、ちょっとだけ胸を叩いただけだ。自信を持っていいよ」


「ううん、先生のお蔭です。担任の先生もダメだって言って、それでも中村先生は家に来てくれました。『ほんのついで』とかおっしゃってましたけど、わたしの家は逆方向だから、わざわざ回り道してくださったんです。それを、最初は居留守を使って、それでも『また来ます、元気でね』ってメモ残してくださって、それで、なんとかお話しできるようになって、『人間、いつだって諦めることはできるから、いま諦めなくったっていいだろぉ』って言ってくださって、今川焼とかタイ焼きとかも買ってきてくださって。とても嬉しかったんです。今川焼は冷めてからチンしてもしっかり美味しいです。他の先生みたいにわざとらしくじゃなくって、ほんとうに自然で、それで、わたし仮進級だけど三年になれました!」


 ちょっと居心地が悪い。


 静岡の家庭訪問はほんとうについでだった。逆方向だけど大きなスーパーがあって、一人暮らしのまとめ買いにいいんだ。


 正職でもないし、非常勤講師に家庭訪問どころか生活指導上の義務もない。


 おそらく欠時数オーバーで留年確定して退学していく生徒だと思った。ご両親も諦めておられる様子で、ほっとけばいいんだけどね。


 でもね、何もしないで時間切れを待っていると、恨みを買うことがある。


 じっさい、留年して退学になって、娘がさらに落ち込んで――もう少し学校が親身になってくれていたら――とか思ってしまう。

 女子は男子に比べ退学をきっかけに自傷する確率も高いしね。


 だから、第一に矛先が学校に向かないよう、第二に退学まで付き添ってやることで持ち直す確率を少しでも上げてやるため。


 と、まあ四十余年で見についたルーチンというわけで、こんなに感動されては面映ゆいばかりで身の置き所に困る。


「先生は、うちの学校の出身なんですよね」


「え、あ、まあね」


「図書室の昔のアルバム見ました」


「え、見たのぉ!?」


 ちょっと恥ずかしい。


「ああ、先生のだけじゃないんです。校長先生も卒業生だし、調べたら五人も卒業生の先生がいてビックリです」


「あはは、ぼくはデモシカだけどね」


「そんなことないです。それにそれに、卒業生と結婚した先生も四人います」


「え、ああ……いるよね(^_^;)」


 四人とも事情は知っている。「おめでとう!」と拍手できるものから「どうしてそうなったぁ!」というものまであって、特段聞かれでもしない限り話題にすることは無い。


「若いころの先生、素敵でした。あ、あ、過去形じゃなくて(;'∀')」


「あはは、過去完了だよな」


「いえ、そんなことないです! いえ、ちがくて……あ、学校戻ります。あ、花とか渡すんですよね、こういう時って」


「いやいや、ぼくの退職は五年前に終わってるしね、今日は、ただ講師の契約が切れただけだから。生徒的に言えば、バイトの最終日だったというだけだから。こんなもんだよ」


 黒カバンを上げて見せた。


「前の時は軽トラックだったけど、運送屋に来てもらった」


「そうですよね。あ、あ、えと……じゃ、じゃあ、握手してください」


「ああ、いいよ」


 おずおず出した手をしっかり握手してやる。


「ありきたりだけど、しっかり頑張って、自信を持って三年生になりなさい。静岡あやねはもう大丈夫だから」


「はい、ありがとうございます。じゃ、学校に戻ります!」


 公園を出て建物で姿が見えなくなるまで見送る。相手が振り返っても見えるところまでは視線を外さない。


 さあ、お茶の残りを飲んで駅にいこうか。


 ベンチに座ることもなく、スポーツドリンクのCMのように一気飲み。


 グイ グイ グイ……


 飲み終わって、今どきの公園にゴミ箱があるはずもないのだが、グルッと見渡す。


「おつかれさまでしたぁ(^▽^)」


 再び古代衣装が元気な女神に戻ってベンチで手を振っていた。




☆彡 主な登場人物 


中村 一郎      71歳の老教師

高御産巣日神      タカムスビノカミ いろいろやり残しのある神さま

原田 光子       中村の教え子で、定年前の校長

末吉 大輔       二代目学食のオヤジ

静岡 あやね      なんとか仮進級した女生徒


 

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