4.0.1 舞台の袖

 どこかで風船が割れていた。

 気付けば辺りは闇に包まれ、霞む視界の中で、必死に叫ぶ誰かの声が聞こえてくる。


「スヴァン! しっかりして! スヴァン!」


 重い雨が俺の身体をしたたかに打ち付け、血を洗い流し続けていた。

 僅かに漂うのは、鉄と雨の匂い。

 そして、昏く冷たい雨に沈むように意識は闇に包まれた。



  *  *  *



『活きのいい死体もできたことだし』


 神様は、少年の姿をした自称神様は確かにそう言っていた。

 だから俺……いや、〝僕〟は今、鉄パイプのベッドに寝そべり、見知らぬ天井を眺めている。

 体はどうか。動かせない事はないが、少しの動きでも重い痛みが走り、とても動かそうという気分にはなれなかった。


 ――僕が目を覚ましたのは二日前。

 初めに白髪頭にメガネと白衣の、如何にも医者といった風情の老爺が僕の顔を覗き込んでは、目尻を下げて嬉しそうに頷き、その後は職場の同僚と思われる者達が次々と訪れた。

 未だ記憶の最適化が終わらず、あやふやな受け答えしかできない僕を、いずれ元に戻るだろうと励ましてくれた。

 大小問わず様々な黒い靄を抱える者達が、親し気に顔を向けてくれた。

 元に戻ることなど、もう二度とないというのに。


 僕の名前は最初が須田半兵衛、次が大貴族の血縁シュテファン、その後は傭兵スヴァン、商人コンラート、そしてオルマンドベル族の勇士セルハンだった。

 そして〝俺〟。この肉体の元の持ち主である俺の名前は、奇遇にもスヴァンテ・スヴァンベリだという。

 本来であれば、また生を受けられたことを喜ぶべきなのだろう。

 だが、僕は困惑していた。


 何に?

 その魂の在りように。


 僕の名前は須田半兵衛。その前は知らない。

 僕の魂に刻まれている最初の名前。

 僕が思い出せる最初の名前。

 その名前は、しかし、脇役だった。

 傭兵スヴァンという例外を除き、シュテファンの、コンラートの、セルハンの、彼らの意識の、あくまでも脇役だった。

 僕の意識、僕の記憶が彼らの記憶と混ざり合い、そして僕は……、そう、まるで舞台の袖から彼らをじっと眺めているような、そんな脇役だった。


 今は、違う。

 魂の置き場所が異なる。

 僕が舞台の中心にいる。

 僕がスヴァンテ・スヴァンベリを脇役にしている。

 僕の記憶に、僕とシュテファンとスヴァンとコンラートとセルハンの、混ざり合っているようでいてどこか分離しているその記憶に、大切な思い出に、スヴァンテ・スヴァンベリの記憶が融合しようと、バケツをひっくり返した雨のように打ち付け、入り込んでくる。


 頭が痛い。


 スヴァンテ・スヴァンベリ。彼の記憶がくっついて、溶け込んで、混ざり合って、また離れて、そんなことが僕の酷い頭痛と共に進行して、侵攻してくる。

 ヒトの記憶というものは、かくも脳に負担のあるものなのか。

 傍観者で在る間は、こんな痛みなど分かりようもなかった。僕は結局どこまでも彼らではなく、どこまでも須田半兵衛だったのだ。


 だが、違う。

 スヴァンテ・スヴァンベリの産声が、家族の笑顔が、感情が、暮らした家が、生活が、学校が、ケモノが、六十メートルを超える高層ビルが、雨の匂いと音が、激痛が何度も何度も何度も何度も、重い雨のように僕にぶつかっては弾けて消えた。


 けれど、止まない雨はない。

 およそ三週間が経ち、傷の治療が終わる頃には、彼の記憶は僕の一部としてもうすっかり定着し、分離していた。

 殺される少し前の記憶を除いて。

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