第30話
橋本さん夫妻の息子、裕之さんをかわいがっていたという斉場電気店のおじいさんは、静かな農村地帯に建った老人施設にいた。
建物の後ろには細い川が流れ、その向こうは小高い山になっている。ひそかさんの車を降りて玄関に立つと、ひんやりした風が吹いてきた。
「連絡はしてありますから、すぐに会えると思いますよ」
有難い。老人施設を訪ねるとき、連絡を入れておくべきだったとは、ひまりは知らなかった。
ロビーは明るく、表の光が燦々と降り注いでいた。見晴らしがいい。田んぼがどこまでも続き、まるで絵のようだ。
五分ほど待っていると、薄緑色の介護服を来たスタッフに連れられて、斉場さんがやって来た。車椅子に乗っている。
「ご無沙汰しています。竜文旅館のひそかです」
ひそかさんが駆け寄って行ったが、斉場さんの表情は変わらなかった。ロビーにやって来たときから見張っている目を、ただ、ひそかさんに向ける。
「かなり認知症が進んでますから、お顔を見ても思い出せないのかもしれません」
申し訳なさそうなスタッフに、ひそかさんが、構いませんよと頷く。
「少し、お話ししてもだいじょうぶでしょうか」
迷惑はかけたくないが、ここまで来たのだからと、ひまりは思う。
「構いませんよ。面会者があるのは喜ばしいことなんです。時間が経てば、おじいちゃんも慣れてくるでしょう」
スタッフの代わりに、ひそかさんが車椅子を押すことになった。
窓際のソファまで進む。斉場さんは、めずらしそうにひそかさんとひまりをめずらしそうに見つめた。だが、嫌がっているわけではなさそうだ。ひまりが微笑むと、笑顔が返ってくる。
「品子か?」
斉場さんが、ひまりを見つめたまま、言った。
「え?」
「多分、奥さんの名前だと思う。間違えてるんだよ」
ひそかさんが、ひまりの耳元で囁いた。
「どうすれば」
「だいじょうぶ。気にしなくていい。勘違いしてるだけだから」
そしてひそかさんは、斉場さんの耳元へ顔を近づけた。
「斉場さん、切手の話を聞かせてよ」
瞬間、斉場さんの目が輝いた。
「うちの親戚のばあさんもそうだったけど、自分の好きだったことは案外憶えてるもんなんだ」
彫美堂へ行ったときも、ここでも、自分一人では到底話を聞くことはできなかったと、ひまりは思う。
「うちの親父と斉場さん、いい切手をいっぱい集めてたよねえ」
斉場さんの顔が、明らかに和んだ。
「まだ集めとるぞ」
「切手収集の会では、斉場さんがいちばんいいのを持ってたのかな?」
頷いて、それから斉場さんは考えるふうに目を細めてから、首を振った。
「もっとどえらいのを持っとったもんもおったな」
「うちの親父?」
「あんたの親父は知らん」
「竜文旅館だよ。忘れちゃった?」
「竜文旅館? あんた、竜文旅館の坊主か」
さっきひそかさんは名乗ったはずだが、もう忘れられている。
「ほかにもいい切手を持ってた人がいたでしょう?」
「御婚儀切手か?」
「御婚儀切手?」
ひそかさんの声が裏返った。
「すごい。そんなの持ってた人がいたんですか」
ひまりはひそかさんの肘を突っついた。切手云々の話はいい。ひそかさんは渋々話を戻す。
「橋本さんもいい切手を持ってたでしょうねえ」
「あの男も熱心やった」
ビンゴ。橋本さんを憶えてる!
「橋本さんには息子さんがいたけど、どうなったか知りませんか」
「息子?」
斉場さんの目が見開かれた。
「裕之さん。かわいい男の子だったでしょう?」
おうと、斉場さんが、感慨深げに呟いた。
「憶えてるんですね」
思わず声を上げたひまりは、ひそかさんに制されてしまった。
「親を亡くしてかわいそうになあ」
「そうなんですよ。突然の交通事故でしたからね」
まるで見てきたように、ひそかさんが言う。
「親を亡くして、その後、裕之さんはどうしたんですかね。誰か、引き取ってくれた人がいたんですか」
斉場さんははっきりと首を振った。
「なんとか言うところに預けられたな。親がおらん子の行くとこや。名前は……」
「孤児院ですか」
だが、斉場さんは、さあなあと呟く。孤児院という名詞が思い出せないようだ。
それからは、茫洋とした話になった。ひそかさんのことを、電気店で使っていた店員だと思い込み、繁忙期の仕事ぶりを叱ったり、ここは食事を出さないと言ってみたり。
やがて、斉場さんから大きなあくびが出た。
そろそろ失礼しよう。
ひそかさんに目配せされて、ひまりはスタッフを呼びに行った。
やって来たスタッフに帰る旨を伝え、斉場さんの車椅子がエレベーターに乗り込むのを見送った。
「斉場さん、ありがとうございました」
エレベーターの前でひそかさんと二人で礼を言ったが、斉場さんは会ったときと同じように、無表情に変わっていた。
「いやあ、すごい収穫だったなあ」
施設の駐車場に向かいながら、ひそかさんは満足気に呟く。
「すごいですかあ? 結局、裕之さんが今はどこでどうしてるかは、わかんないままじゃないですか」
「そんな一気に無理ですよ。孤児院に預けられたってわかったっだけでも大収穫。当時の孤児院を当たってみればいいんですから」
「孤児院に当たってみるって。それこそ無理ですよ。この個人情報のうるさいご時世に、施設に問い合わせても教えてもらえるはずはありません」
「ま、そうだね」
あっさりと納得したひそかさんは、車に乗り込みながら、ふたたび、すごい収穫だったなと繰り返している。
「収穫収穫って、もしかして切手のことですか?」
助手席から、ひまりはつい声を荒らげてしまった。めずらしい切手の話が聞けたものだから、この人は喜んでいるだけなのだ。
「御婚儀切手はね、オークションサイトでは、二十万はする切手なんだ」
そしてハンドルに額を付ける。
「チクショー。知ってたら、斉場さんが施設に入る前に、斉場さんの親戚に交渉したんだがなあ。が、待てよ。今からだって遅くはない。斉場さんの親戚に交渉の余地はあるかもしれない。まだ斉場さんの荷物は、電気店にそのまま置いてあるだろうからな」
はあ。
ひまりはため息をついた。
この人は、あわよくば斉場さんから切手を譲ってもらおうと考えているのだ。そのために、知らない親戚に交渉するつもりなんだ。
マニア、恐るべし。そんなにまで切手が欲しいとは。
と、ひまりの中でひらめくものがあった。
「橋本幸夫さんが集めていた切手は、どうなったんだろ」
「へ?」
と、ひそかさんが額を上げた。
「橋本さんもめずらしい切手を収集していたわけでしょう? ところが突然の交通事故に遭ってしまった。切手はどうなったと思います?」
「そのままなんじゃないかな」
「そのままってことは、息子の裕之さんが受け継いだってことですよね?」
「多分ね」
「もしかして」
ひまりは昨日、神原さんが言っていたことを思い返した。
――三本さんは、橋本さんの息子を見つけて、財産を譲りたいんやないの?
違う。
三本さんは財産を譲りたいんじゃなくて、橋本さんが残した切手を手に入れたいのだ。
三本さんに報告へ行った日のことが蘇る。吉祥庵跡地にある井戸に、幽霊が出る話をしたとき、三本さんは反応した。
どの部分で?
い~ちまい、に~まいと言ったときだ。
三本さんは、幽霊が数えているのは、お皿じゃなくて切手だと思ったのかもしれない。
ということは、三本さんも切手収集の趣味があるのだろうか。
訊いてみる必要がある。いや、訊かなくては。
三本さんが、橋本さんの残した切手を手に入れたいがために息子の行方を探しているとしたら……。
恩返しがしたいだなんて、とんだ食わせ物だ。
ハンドバッグからスマホを取り出して、ひまりは三本さんに電話をかけた。
電話に出たのは、お手伝いさんだ。
「今日、夕方に伺うとお伝えください」
ひそかさんが、エンジンをかけながら、ぽそりと呟いた。
「東京へ戻るんですね」
「確かめてくる。あの狸ジジイに」
ひそかさんは目を丸くしてひまりを見つめ、アクセルを踏んだ。
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